無垢な君に戸惑う






 突如としてナマエの眼前を突風と共に黒く染め上げたそれは人ならざるものであった。それの手の中でびちびちと憐れな雀が羽を暴れさせる。「っ、」ナマエは驚駭で息を詰まらせ、目を見張った。そして、それーー男の透き通るような瑠璃紺の瞳と視線が交差する。ナマエは男から目線を逸らせないまま足を震わせ、それでも一歩後ろに足を動かした。がさ、ぱき、と地面を覆う枯葉、枯れ木が唸る。
 目の前に、頭上から降り立つように現れた、地面につきそうなほど大きな黒い翼を持った男を見て、真っ先に浮かんだのはつい先刻山の麓で見たばかりの観光案内の看板であった。役立たずの脳みそはこんな時に不必要で知りたくもなかった情報ばかりを律儀に示し、警告してくる。あの古びた看板は多くの人間が鼻先で笑い飛ばすような内容であった。そしてナマエもその大勢と同じ感想を持ち、それをとても人間らしく思っていた。脳が示したそれは本能的な危機察知の表れである。
 男に視線を絡め取られ、喉の奥から短い喘ぎ声が不規則に漏れる。しかしナマエを見る男の目もなぜがナマエと同じ、驚愕と混乱と恐怖が入り混じった色をしていた。男に鷲掴みにされている雀がびちびちと苦しげな音を立て続ける。そしてその雀がぱっと男の手から解放され、空へ向けて飛び立った瞬間、ナマエは縺れる足で逃げ出した。がさがさと木の葉を踏みしだく音が脳に直接叩き込まれる。

「ま、待ってくれ!」

 手首が突然火で焼かれるような熱さを持って、ナマエの身体は進行と逆方向へと引っ張られた。どっどっどっどっと心臓が痛いほど脈打ち、「ひ、」と引き攣った声が喉の奥でから回った。掴まれた手首から高い熱で焦がされるような感覚がじわじわと這い上がる。それと比例するように心をどろついた恐怖が埋め尽くしていく。
 ナマエは情けなく鼻を啜り、ぎこちない動作で後ろを振り向くと、男の鉱石のような藍の瞳がナマエを射抜いていた。その目には焦燥と恐怖が見え隠れしている。ナマエは短い息を数回に分けて吐き出し、男に掴まれたままの手に目をやって、それからまた男を見た。
 「す、すまない」どこか情けない声で、猛禽類のような羽が背から生えた男は手首を離す。それがナマエの脳内で先ほどの雀と重なった。自分がこの山に来たのは、こんな幻妖などに会うためではない。腐りかけの看板を心の中で思い出しながら、逃避のように皮肉めいたことを思った。

「っ、ここで俺に会ったことを集落のやつらには言わないで欲しい」

 ひどく神妙な顔でナマエを見つめながら、男は諭すように言う。固く、懇願を含んだ、何かに怯えているような声。男の言葉に引っかかる点はあったものの、ナマエは震えながら深い瑠璃紺を見てこくこくと頷いた。薄汚れてはいるものの男はきりりとした眉が美しく、端正な顔つきであった。そして、山伏のような青い鈴懸を着用しており、脹脛の中程できゅと絞られた裾から伸びた足は途中から猛禽類のそれである。透けるような碧落色の鉤爪。
 怪奇だ。それでもナマエが泣き出さなかったのは、男の顔が強張っており、恐怖していたからだ。おそらくナマエも男と同じくらいひどい顔をしている。「っ、いわないから、」嗄れた声で今度は声に出してそれを示す。それでも男の目は疑うように黒く陰っていき、いやでも看板に書かれていた「身体を真っ二つに」だの「空から叩き落とす」だのという物騒な言葉を思い出した。思わず身震いして、ナマエは男を信用させようと混乱の中で決して名案とは言えない提案する。

「絶対に、言わないから。……すわって、はなす?」

 すぐ傍にあった少々凹凸の激しい腰掛け岩を恐る恐る指差せば、男が案外素直にそれに応じたことにナマエはひとまず胸を撫で下ろした。こんなことであればあの山の麓に立てられたふざけた看板をじっくり読んでおくべきであった、と今更ながら思う。もう、空の端が薄っすら茜色を帯びて来ている。
 巨大な羽のせいで大きく見えていた男の身体は案外小さく人並みであった。人並み、というのも可笑しな言い回しであるが、一般的な日本人男性と似たようなものだった。「羽に座るといい」先に座った男が、そう言ってごつごつした岩に自身の羽の裾を寝かせた。その気遣いがナマエには堪らなく恐ろしい。
 それを断るわけにもいかず、ナマエはびくびくしながら、墨のように黒くも所々青く光って見える羽の上に腰を下ろす。鋭利で冷ややかな見た目に反して、存外それは柔らかく滑らかだった。隣に座る男の高い体温を感じるといよいよ緊張と恐怖で心臓が弾け飛びそうになる。「いたくない?」震える声で言えば男は首をゆるく横に振った。自分で提案しておきながら、ナマエはここからどうすればいいのか何を話せばいいのか分からない。

「……人間には羽がないんだな」
「っ、」

 唐突に男の指がナマエの肩甲骨の辺りをゆっくりなぞった。まるで炎が触れているかのように男の手は熱く、背を触られただけで熱に浮かされそうになる。骨の形を確かめるように背を蠢く手に憂懼した。触れるのと触れられるのではこんなにも違う。服の上からつうと男の指先が遊ぶように背中を這った。

「……人間は柔いな」

 今度こそナマエは涙を零しそうになった。詰まって音にならない声が喉の奥からせり上がる。人の肩甲骨を触っておいて、それが柔らかいなどと普通ならば言うはずがない。しかし「やめて」などとも口が裂けても言えるわけがないのだ。ナマエが怯えて睫毛を揺らしながら懇願の色を宿した目で男を見ると、男ははっとして手を離した。そして一瞬だけむっとしたような顔をして、表情を固くする。

「別にとって食ったりはしない」

 男はひどく真面目な顔で、眉を少しつりあげた。まるで心外だ、とでも言うように。「ごめんなさい」と瞬時に謝って、それから取り繕うように「あなたは、」と続け、自身の失敗に気がついたナマエは身体を硬直させた。「あなたはなに」などと言えるものか。「あなたはてんぐなの」とももちろん言えない。
 男の鉱石のように光る目が不思議そうにナマエを見つめ続けるがナマエは固まったまま何も言えない。惑乱する頭では上手く躱す言葉が見つからないのだ。しかし男はそんな様子のナマエに、何かを考える素振りを見せたあとややあって「カラ松だ」と言った。その言葉の意味が分からず、ナマエは眉を顰める。そしてようやくそれが男の名前であると分かり、口を開けようとすれば、カラ松の人差し指がナマエの唇に僅かに触れた。あつい。やはり高い熱を持っている。

「俺みたいなものに人間が簡単に名を明かすものじゃない」

 こくり、とナマエは戸惑いながらも小さく頷く。そうすればカラ松はそれでいいと言うように片頬を上げて見せた。すっかり彼のペースに乗せられている。しかし彼は所謂「わるいもの」のような気がしない。先ほどから彼はあまりにも優しく、そして威圧的でも傲慢でもない。傷つけられることはないだろう、という不思議な確信があった。
 恐怖と混乱は沈んで来たものの、星雲状態の頭では紡ぐ言葉が見つからない。ちらとカラ松を見上げると、彼は紅葉と銀杏を混ぜたような色をした空を眺めていた。釣られて空を見上げたナマエの口から「あ、」と声が漏れる。流れ星だ。まだ明るい空に白く尾を引く星が流れて行った。

「星屎だ」

 物憂げな声でカラ松はぽつりと呟いた。そして続けて「あまり良くないものだ。もう帰った方がいい」とナマエをひょいと軽々持ち上げるように立たせて急かすように背中を押す。じんわりと手のひらの熱が伝った。まだ、ナマエはこの山へ登って来た目的を果たしていなかった。この山の山頂付近にある神社で腹の大きくなった姉のために御守りを買わねばならない。
 しかし、カラ松はナマエのそんな心を透かして見たかのように「真っ直ぐ山を降りるんだ」と釘を刺した。恐ろしく真剣な顔で言うのですっかり気圧されてしまう。それから、何かを思い出し、きまりが悪そうな顔つきになり、「絶対に言わないでくれよ」と駄目押しする。またその話に戻って来たのかと内心辟易した。

「いわない」
「……まじないをかけよう」

 「言わない」と言っているのに、まだ疑うのか。ナマエは僅かに顔を曇らせる。いや実際、「言わない」などと口先で言っておきながら、それを面白可笑しく手を加えて吹聴して歩くのが人間というものなので、仕方ない。
 ナマエは頷き、腹を括ったが「目を瞑って」と言われた瞬間、一度は収まったはずの恐怖と混乱がまたじわじわと這い上がって来た。視界を奪われるのはひどく恐ろしいものだ。おそらく五感の中で失って一番恐怖が募るのは視覚なのである。「つむってくれ」「たのむよ」整った眉を下げ、弱く揺れた声を聞いて、ナマエは唇を噛み締めながら、びくびくと瞼を閉じた。
 ふう、と眼の前で安堵の息を吐いたのが分かった。ナマエは恐々と眉を寄せ、下唇を噛みながら、まじないとやらを待つ。そして、たっぷり数十秒待ったあと、暗い視界の前でカラ松が動くのが分かった。はやくおわらせて。ナマエは心の中で自身の無事を祈る。
 目の前に熱い吐息を感じる。そして、ふに、と柔らかく、燃える火のように熱い温度を鼻先に感じた瞬間、ナマエの眼の前で突風が巻き起こった。「っう、」暗い視界の中で反射的に両腕で顔を庇う。

 ーー再び、ナマエが目を開けるとそこには誰もいなかった。瞬きをして、確かめるように辺りをゆっくり見回してから、茜色に染まった空を仰ぐ。ナマエの眼の前、カラ松が立っていたと思われる場所は不自然に抉れ返り、湿った土の匂いを濃く発している。そしてそこには、黒くも青光りする奇妙な色彩の羽が一枚落ちていた。