冷静と饒舌のあいだ







蛇は足無くして歩き、蝉は口無くして鳴き、魚は耳無くして聞くと言うが、これは人間基準の話である。彼らからしてしまえば足が無くては歩けない、口が無くては鳴けない、耳が無くては聞けないという、さまざまな器官がなくては機能しないなんとも面倒で複雑で不便な生き物こそ人間であるのだろう。まあ、この言葉は人間が考えたものだから人間基準になってしまうのは当たり前だが。
何故こんなことを私が考えているのかと聞かれれば答えは簡単、一種の現実逃避である。
蛇がいる。目の前に、それはそれは大きな白い蛇が。
おかしいな、十四松君はちゃんと部屋にいるって言ってたのに。部屋にいたのは大きな蛇。
私はほぼ反射的に襖をぴしゃりと閉め、現実逃避の思考に至ったのである。

私は恋人に会いに松野家を訪れた。
私を出迎えてくれたのは恋人のすぐ下の弟に当たる十四松君で。皆出かけてるから二人きりだよ、やったねと笑って彼も私とバトンタッチをするかのように家を出て行ったのだ。そうかそうかと思いながらお土産を持って彼がいる二階の自室(六つ子共有部屋ともいう)へ向かったのだ。そして襖を開けると蛇がいた、という訳だ。意味がわからないのは百どころか二百も承知、私が一番混乱している。一松はどこにいるの。私が見間違えたの?
そうだ見間違いかもしれない。うんうんそうだそうに違いない、と私は再び襖を開いた。

ためだ、真正面に蛇がいる。しかも距離はだいぶ近い。

ひっ、と自分の喉が引きつった音を出したのを合図に再び襖を閉めようとしたのだが蛇の尾が襖の隙間に入り込む。逃げる術が無くなった。何この蛇。そうだもしかしたら新しいペットかもしれない、とその目を見る。蛇もまた、私を見ている。深紫の色をしているけれど、日の光があたるとそれは桔梗色になって、とても綺麗だ。しばらく見詰め合うという奇妙な体験をしていると、尾が私の身体に巻きつく。しまった非現実的な空間にいるのをうっかり忘れてた、完全な油断だ。あまりに突然の出来事に硬直しているとあっさり持ち上げられ、蛇の腹の上に落とされた。本当に大きい。私の背丈の数倍は優に越えてしまうだろう。
「え、なに、」
半分パニック状態ではあるがそれを表情に出したらいけない気がして表情だけは変えずに、とりあえずその大きな頭に触れてみる。つるりとした鱗の感触。一度だけ触ったことがあるからわかる。間違いなく蛇だ。というかこの蛇のんびりしてる、いや違う。なんだか余裕そうという言葉の方がしっくりくる。躾がしっかりしてる?いや、毒蛇は焦らないなんて言葉があるくらいだから、力は強いの蛇あるいは毒蛇だけど、こうして私の好きにさせ急に隙を突いて食べてしまう気かもしれない。大きな頭と大きな口は私くらい丸呑みできそうだ。蛇は自分の頭より大きい物だって丸呑みできてしまうのだから。
「き、君、新しい家族かな。一松、知らない?」
言葉なんて通用するとは微塵も思ってないが、震える声をできるだけ抑えてとりあえず話しかけてみることにした。すると蛇は丸い瞳をぐうっと細めた。そのまま頭が近づいてきて、大きな口元が見える。鋭く長い牙が頬をかすめる。命の危機的な意味でどきどきする。何、話したらまずいの?
「わかんない?」
聞きなれた、声がした。
振り返っても蛇の頭しかない。…待って、冷静にまさかという仮説がするするとできあがっていくけれど感情が追いつかない。そんなばかな。
「一松?」
一応確認してみると、その蛇の瞳がまた細まって、大きな口が開いて、
「はぁい。ナマエ、いらっしゃい」
と言葉を発した。

「一松に何があったの」
「いや、知り合ってだいぶ長いし、付き合って一年は経つし、そろそろ教えてもいいかなって思った」
一松は上半身だけを人間に戻す(上半身裸だから目のやり場に困ってしまう)という私には仕組みもわからない行動に出た。肋骨の辺りから蛇の鱗が食い込むようにしていて、そのまま下半身が蛇になってる。その長い身体を私の腹や腰に巻き付かせながら、彼は楽しそうにしている。恋人が実は蛇でしたってどんなファンタジーだろう。
「ご覧の通り、俺の正体蛇なんだよね」
「…そっか」
するすると尾が私の頬を撫でる。ひんやりとしていてくすぐったい。ぐっと近づきいつもよりもずっと近い距離に一松がいる。知り合って長かろうが付き合って一年経とうが好きな人なのだ、どきどきしてしまう。とりあえずパーカーだけでも着てくれないだろうか。目が合う。その口がぱかりと開く。鋭くて長い牙。紫檀色の長くて肉厚の舌がぞろり、と見せ付けるように出てきた。あ、先は二又になってる。
「引いた?こんなゴミと付き合うくらいの物好きだから、蛇でも問題ないのかなって思ったけど」
「や、嫌とは思わないし問題もないんだろうけどわかんないことだらけで」
「質問あるならどうぞ、蛇の道は蛇って言うでしょ」
「言うけどさ、ひぃっ!?つめったい!」
「変温体質だから。背中やだ?」
「だから冷たいんだって」
「だから変温体質なんだって」
ざりぃ、と背中の皮膚を直接撫でる冷たい蛇の肌にぞわぞわとする。氷のように冷たい。
ひひ、と笑う一松はいつもどおりだ。蛇は竹の筒に入れてもまっすぐにならぬ、だったか蛇の曲がり根性、だったか。彼の性根は蛇だろうと人だろうとやはり本質は何も変わらない。
「舌、長いね」
「顎も外れるんじゃないかってくらい開くよ、やろうか」
「いらない」
「あっそ」
真っ赤でない、少しだけ紫がかったような舌が近づく。首をぞるりとなぞって、肩から服の中入り込んでくる。べたり、と独特の感覚が肌を滑っていく。
「やだ、すけべ、っ、や」
「ひひひっ」
鎖骨と肩のまわりをずるりと舐めて、離れる。意地悪く笑った目はいつもの至極色。いつの間にか手までをがっちりと蛇の身体に絡め取られている。動けない中、ゆっくりと顔が近づいてくる。
「どう?」
「どうもしないって、一松は一松でしょ」
「引かないんだ」
「引くも引かないもまだ追いついてないのに」
「なんで」
「だって次から次に、あ、ちょっと、」
「今日いっぱい喋んなぁ、ナマエ」
「お互い様だと思うよ」
「まあ、確かに」
いつもの腕が引き寄せてくる。いつもは互いの服越しの体温なのに、布が一枚しかも相手のだけが無い状態でもこんなに違うのかというほどダイレクトに低めの体温を感じる。身じろぎ一つできないからだが恐怖を感じる前に一松が次々言葉を放ってくるから冷静になる一歩手前で止められる。すり、と肩口に頭を摺り寄せて、二マリと笑う。作戦通りとでも言いたいような顔だ。まさに常山の蛇勢。どこにもこのペースを崩す場所が見当たらない。尾が片方の手に恋人繋ぎのように絡んで、もう片方は実際に恋人つなぎ。一松のもう片方の腕は私の背に回っている。普段こんなにべったべたで甘い濃厚なスキンシップなんて取らない。いつも背中合わせでお互い好きなことをしたり、たまにする甘酸っぱいスキンシップだってこんなに長いあいだ触れたりしない。ちくりと牙が首元を掠めていけば勝手にひくっと喉が鳴って、それを聞いた一松がまた引きつった笑い声を上げる。ぞろり、また長い舌が覗く。舌なめずりをするように、一松が舌を動かして意地悪く笑う。
「ナマエ、こんな俺でいいの?ゴミでクズでニート。おまけに蛇」
「ぜんぜんおまけじゃなかったけどね。でも、いいの。だって今の今まで嫌悪感無いし、今もどきどきしっぱなしだし」
「は、」
ぴたりと一松の動きが止まる。身体に絡まる白い蛇の皮膚がほんのり桃色になっていく。不思議に思って一松の顔を覗くと耳まで赤い。目の色が紫がかってきていて、若干潤んでいる。
「なに、どうしたのあっ!?」
ぎゅう、と私を抱きしめたまま一松が急に後ろに倒れこむ。
「反則なんですけど」
「なにが?ちょっとおろして、もしくははなして」
「どっちも無理、ゴミは動きません」
「こんなときばっかり」
「なんとでもどうぞ?」
どうやら草を打って蛇を驚かしたようだけれど、私に草を打った自覚は無いような状態だ。なにをもって一松を照れさせてしまったのか。まったくわからない。彼が再び全身を蛇の姿に変えて、私を再び持ち上げ自分も身体を起こすとぐりぐりと頭を摺り寄せてくる。ちょっと可愛いとか思ってない。
「もうさ、ナマエってなんなの?逆に殺したいんだけど」
「死ぬ予定なんてないし物騒だよ一松」
「もうさ、我慢しなくていい?」
「なにがっ、いっだあああ!!?」
がぶり、と肩口に噛み付かれる。ずぐりと牙が肉に入り込む痛くて嫌な感覚がして、それを認識した途端信じられないほどそこが熱くなる。私の表情が歪んだのを見届けるとそれはずちゃりと音をたてて引き抜かれる。どぷりと真っ赤な血があふれて本当に痛い。ぼろぼろと涙が出てくる。しかし傷口に長い舌が触れてまた痛みに声を上げる。ぞり、ぞるり、となぞるようににえぐるように舌が動き、ずっ、ずぞ、と音を立てて血を舐め取られる。なんなのどうしたいの情緒不安定か何かなの。とりあえずとっても痛いからやめてほしい。その頭を押しのけるようにしながら抵抗をするけどびくともしない。目を細めて舌を押し付けるようにするだけだ。
「いだ、ぁ、なに、おいしくないでしょ、痛いって痛い痛い!!えぐんないで舐めないで馬鹿!!」
「あまぁ、」
「味覚狂ってんのかこの変態」
「いいね、もっと蔑んでいいよ、ナマエ」
「なに興奮して、むがっ、む、ぁ、んむ」
息の荒い発情でもしてるような表情に驚いていると鼻をつままれる。そして開いた唇に紫檀の舌をねじ込まれた。先から飲み込ませるように頬張らせるようにどんどん入ってくる。そのまま好き勝手にずりずりと動かれる。口の中で蛇が蛇行しているように、ぞりずりと。苦しいし気持ち悪いし変な感じもする。とろりと瞳をとろけさせた一松が荒い息を吐く。顔に生ぬるい吐息が当たる。
「ひへ、きもちい。ナマエ、もっと」
「むい、っぅ、」
「ひひ、ひひひっ」
どこでこんなスイッチはいったんだろうこの男。もごもごと抵抗している(ほぼ意味はないどころか要求に応じているような気さえする)とずるずるう、と口いっぱいに詰め込まれていた舌が引き抜かれる。一気に飛び込んできた酸素に咳き込んだ私をよそに今度は上半身を人間の姿に戻して唇を合わせて舌を絡め合わされる。変なところへたれだったくせに、今日は大胆すぎる。なに、本当にどうしちゃったの。
「ふ、も、ちょっ、一松、ストップ、ちょっと待ってって」
「なに」
「なにじゃないって、どうしたの急に」
「あっさり受け入れられて興奮した」
「馬鹿なの?」
「そうかもね」
今度は貪るような乱暴でない、ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップ音をたてながら甘く軽いキスを何度もしてくる。なに、普段のキャラはどこにおいてきた、ダウナーで気だるげなのはどこにいっちゃったの。
「ナマエ、知らない?」
「なにを」
「蛇の生殺しは人を噛むんだよ」
「…って言葉は確かにあるけど」
「俺も今生殺しなの。興奮させた責任とってよ。嫌悪感無いんでしょ。ねえナマエ」
はやく、ねえはやく、と言いながら素肌に触れる指と長い舌。相変わらず身体に絡んだままの長く白い蛇の体は私の高くなった体温を吸って温い。ねだるような目が光を反射して桔梗色になっていく。
もう止まんないんだろうな。蛇に睨まれた動けなくなった蛙は私でした、ということにして流されてしまおうか。良しを言うようにその頭を抱き寄せてやれば、そのまま倒れ込んで。
その後?それは蛇足ってことでここはひとつ。