私に恋をした人間は口を揃えてこう言うのだ







 白壁の教会では、渚と磯のにおいが聞こえる。放し飼いの子羊がチョロチョロと荒磯をほっつき歩いているのによく嬲られている。まず私は子羊の瞳孔と白々、呉々も襤褸になるむさ苦しい羊毛を藪に目を掛ける丘陵場で、遠くに聞いている。煤色の痩せたウールにこじんまりと蹄を埋めるような、いたいけな可愛がりにも、赤い夕立にはぱったりと白けに暮れる。そうしていると、すっかりとみすぼらしくある子羊の元を決まって通うようになった。子羊の腹に腕が巻くと、短臂が無闇にかわいそうな動きを見せる。私はもがく手足の子羊を力任せな両腕で名一杯に抱え込み、靴裏がすがずかと砂をつっかけながら、教会の長椅子で子羊のなんとなく汚れた体を隅々拭いてやるのだ。

 “もう。もう、騙されたりなんてしない。今更助けにきたって遅いんだ。慰めなんていらないのに。ヒーロー気取りも大概にしろ。”

 ――などと、しかし最後には膝下へと太ましい巻き角が擦り寄ってくるというどうしようもない奴だった。
私は子羊の重い腹をちょいと足背に乗せると、この小馬鹿な子羊をそうっと足元から退けてやり、味の悪い気分で潮の教会を去るのだ。子羊は目玉をじっとしたまま、波の音が聞こえなくなる頃には黒ずんで見えなくなっていた。



 その日、海辺の教会に蝶が飛ぶ白い小羊がいなかった。海際で洗い物を洗濯板で鑢掛けに擦る後ろ姿だけが見えた。白地の肌が一瞥と高々に眺めやり、川蝉の目がじっくりと親しげに曲げられてから「こんにちは」とはっきり声を掛けられたのだった。

「ここには、加虐趣味の旺盛な無垢たる悪ガキどもしか来ないものかと思っていたんだけど、君もまた随分と暇そうだ」
「……あの、いつもこの周辺を小羊が好きに彷徨いているのは、ご存じですか」
「あれは、仕立てに出したよ」
「……仕立て?」
「――羊飼い」

 私は僅かに息を詰まらせる想像をした。「羊飼い」と呼べる男の、赤に捲った舌の動きがまるでわからなかったのだ。

「……僕は、牧師なんだ。文字通り。羊を飼っている」
「へ、へぇ……そう、だったんですか。私、ここに牧師様がいるなんて、初めて、知りました」
「まぁ、ここはもう昔よりかは随分と廃れているから、君が知らないのは無理もないよ。ここいらで僕を知るのは君が、初めてだね」

 「そうだ」と、牧師がようやく手洗いを止めた。

「君、光り物は好き?」
「光り物、ですか?」
「有り体に、賄賂と呼ばれるまあるいそれの話だよ。ここにはとある噂によって、はした金が常々投げ込まれるせいで浅瀬に銀貨が埋まってるって話なんだ」
「……なんでも、願いを叶えてくれる女神さまがいるだとか。そんな話、でしたか」
「でたらめだよ、そんなものは」
「、どうして」
「だって、その噂は僕が流したんだから。たかだか牧師風情がペテンでなければいけない理由もない。ただ、巷を流通する『“いたいけな人間どもの些末な願いをなんでも叶えてくれような慈悲深い、まさしく神様みたいな女神様”』のお話は、僕とは直接関わりのないものだよ。あの悪ガキどもにわざわざ小難しく教えてやったのがいけなかったんだな。足が生えて独り歩きした。進化論とはここで証明されるんだって僕は思ったね」
「……じゃあ、牧師さまと言えば一体どんな噂を蔓延させましたか」
「なんと言ったって『思わずコンクリートと無理心中に海の底へと沈ませてやりたくなるような、しばしば後ろ暗い産業廃棄物を跡形もなく引き受けてくれる』との噂、だそうだよ」



 やはり私は海原を一望する子羊の教会へと足が進む。お日柄もよく、子羊は今日も玩具のいい見世物にされていた。子羊はやはり私だけを見ている。私は今にも動かない。しかし、甚振り甲斐のない子羊を足蹴にする“悪ガキども”が山羊のように、今日はこっちを見た。

「これ、あんたが飼ってるペット?」

 でたらめに痛んだ黒いランドセルが悪魔じみている。

「俺知ってるよ、俺達がこいつをいじめてると、決まっていつも遠くで見てる卑怯なやつなんだ」
「へぇ、それはそれは」
「なるほど、偽善者ってやつだ」

 六つの悪意が口々に言ってくれる。

「どうして助けてやらないの? こいつはいつでもあんたに救われたがってるのに?」
「……私は、君達が早々と悪さに飽きてしまえばそれでいいと思ってる。私はこの子羊の飼っているわけでもなければ、子羊は私のペットでもない。羊飼いの牧師が放牧に拘るせいで、例え一匹の子羊が撲殺されようとおとがめを受けるのは君達だけで済むんだ」
「じゃあ、あんたはこいつがどうなっても構わないんだ」
「だって、関わりたくない。私は、教会の牧師に一度きり、会ったことがある。まるで、人間じゃないみたいだった。私は牧師が一目に嫌いで、もう二度と会いたくないって、思った」
「あの教会に牧師なんてやつはいないよ。あそこには『女神様』しか住んでないんだ」
「そうだ! あんたが見たのは女神様だったんだよ!」
「女神様は凄いんだ! どんな願いも叶えてくれる」
「壊れ物だって元通りだ!」

 頻りに『“女神様”』と大口に回る六人は次第にこちらに背を向けながら、子供らしさにべらべらと話し続けていた。私は踞る子羊を腕に抱き、いつものように無人の教会で丁寧に体を拭いてやった。
子羊は暴れなかった。



「松野の六兄弟とは、全部が全部、死人であるらしいとの噂だよ」

 ハッとして辺りを見渡せば、そこはいつもの海辺の教会だった。

「あの、小学生の子供たちのことですか」
「子供たち、だなんて、そんな取り繕うことないのに。まぁ、それもそうだ。あの悪ガキどもが揃いも揃って同じ顔をしているのは、自らを死へと至らしめた身勝手な誰かのために、隠蔽として『女神様』にお頼み申し上げた結果だそうで」
「……それは、ようするに『女神様』には、死んだ人間をもろとも蘇らせることができる、そういうことですか」
「“同じ顔をしているのだから、誰か一人くらいいなくなったところで、誰がいなくなっただなんて気付きもしない。奴ら、毎日が仲良く連れ添っているように見えても、両隣にいる兄弟の名前も、既に奴らにはわかっていないのかもしれない”」
「そんなことが、あっていいんですか。……あなたは、彼らのような人間を導くために神に仕えているのではないんですか」
「“違うよ、ここには『女神様』しかいないんだ”」

 牧師は嬉そうに笑みを見せる。いっそ気味が悪く、ニタニタと一頻り笑んだかと思えば、直ぐにでも「冗談だよ」と言ったのだ。

「……なんだか、嬉しそうですね」
「えっ? うん。まぁ、そうだね。……どうしてだと思う? 君はわかってくれる?」
「さぁ。何か、良いことでもあったんですか」
「いや、酷い奴だとは予々思っていたんだ。いつまでもただ優しかっただけの偽善者だとはよくよく罵ってはいたんだけど、僕はと言えばどうしても期待せずにはいられなかったなんて、一体どれだけ滑稽なんだか。そんなことだからみすみす満足に愛嬌も振る舞えない。でも、やっと報われたんだ。そう、ついに。……明日、夜の内にここへおいで。君に、是非見せたいものがあるんだ。きっと、君が気掛かりに思う子羊のことでもある」

 くたびれた牧師の目に子羊の死にきった、“あのような”目玉をどこかで垣間見た気がする。それはあってはならないことだと私は思う。ステンドグラスからの光が寒々しい。

「ねぇ、しかし君。僕はあなたを愛しています」



 『“月が綺麗ですね”』との牧師からの招待を蹴ってまで、取り立てて大事な用があったわけでもない。あのときの、とびきり嫌な感じが初めて私の教会への足取りを止めた。あの牧師はどこか受け付けない。
とは言えども、帰り道にはやはり子羊の教会を脇目にした。

 某日、私が浜辺へ近寄ると例の子羊が血だるまとなって鳥葬、野垂れ死んでいるのが見えた。私はその場をしばらく立ち惚けた。羊の赤黒い毛皮があまりにも惨たらしく、つい目を背けられない。六つの悪魔どもがこぞっておもしろおかしく袋叩きにしたに違いないのだ。
 私は子羊を両腕で抱え、以来とはそれきりだった緑目の牧師を訪ねるべく教会へ向かったが、薄暗い礼拝堂があるだけで牧師は見当たらない。
私は不意に『女神様』の話を思い出した。『女神様』には人一人の命を救える力があるんだ、との馬鹿げた迷信を真摯に信じてみようと思い立ち、死んでしまった子羊を、元は果物が詰められていた木箱に子羊を寝かせ、蓋の四方に釘を打ち、海へとそれを手放した。私は波打ち際に腰を下ろし、水平線へと遠ざかっていく棺をいつまでも見送ったが、それでも女神様は現れなかった。それも羊が死んでは女神さまは出てこないのだ。女神様とは羊だったのだ。



 それにしても、いつかに牧師が洗濯板に当て付けていた、折り畳まった山のような衣服の中に、六兄弟の青い子供服がきっちり混じっていたのにはゾッとした。

 もうここには誰かがいることもない。