熟した秘密が喉を突き破る時







心臓が、止まるかと思った。見慣れたはずの六畳のワンルーム。水色のカーテンも、白いローテーブルも、その上に置いたままのメイク道具も、今朝私が仕事に出た時のまま。ただ唯一、壁際に寄せて置かれたシングルベッドの上に、見知らぬ男がいることだけが問題だった。

思えば、ドアを開けた時点でなんとなくおかしいなとは感じていたんだ。少しだけ、部屋の温度があたたかいような気がする。確かにそう思った。でもまさか部屋の中に人がいるだなんて、その時点では想像もしていなくて。手探りで壁のスイッチを押して部屋の灯りをつけたところで、私はハッと息を飲んだ。
明るくなった部屋の片隅、ベッドの上に佇んでぼーっと宙を眺めているのは、見ず知らずの男性だった。ゆったりとした白い服を身に纏っていて、おまけに袖がやけに長くて、体の横にぶら下がる両手の先はすっかり隠れて見えやしない。丈の長い服の裾からは細い足がにゅっと覗いていて、肩幅よりも少し広く開いた足が、しっかりとベッドを踏みしめていた。
が、しかし。確かにその彼は、ベッドの上にいるはずなのに、間違いなくこの目に映っているはずなのに。言いようのない違和感を感じるのは気のせいだろうか。いろんな考えが頭の中に押し寄せてきて固まっていると、ぼんやりとしていた彼の顔がくるりとこちらに向いて、その大きなふたつの瞳が、私を射抜くように捉えた。

「キミ、誰?」

良く通る澄んだ声だった。鼓膜が揺れた感覚はなく、脳内に直接響き渡るような、そんな不思議な声だった。見ず知らずの相手なのに、勝手に人の家に入り込むような、明らかに怪しい相手なのに。なぜか私の脚はその場に根が張ったかのように動かなくて、彼の声に導かれるかのように、唇が勝手に開いていた。

「ミョウジナマエ、です」
「ミョウジ、ナマエ?」

彼は私が名乗った名前をなぞるように繰り返した。ぱかっと開いた口は弧を描いたまま。彼は身動きひとつせずに私をじっと見据えてから、おもむろに服の中に手を突っ込んで手帳のようなものを取り出した。袖に覆われた手で器用にページをめくって、彼の視線がその上を滑る。やがてぱちんと瞬きをしてから、再び顔を上げて私を見た。

「間違えた!」
「……え?」
「キミの名前、載ってないや!ぼく、降りる場所間違えた!」

あちゃーと頭をかきながらも表情の変わらない彼に、私は少しずつ冷静さを取り戻してきた頭をフル回転させて、じり、と一歩後ずさる。悪い人には見えないけれど、何を考えているのかわからない表情。そもそも見知らぬ人物が部屋にいるというこの状況に警戒せざるを得ない。私は何かあったらすぐに逃げ出せるように意識を研ぎすませながら、震える唇をゆっくり開いた。

「あの、あなたは……?」
「ぼく?ぼくね、十四松!」
「え?あ、いや、名前じゃなくて、その……ど、どうして私の部屋にいるの?」
「お迎えに来たんだけどね、キミじゃなかったみたい」
「お迎え?」
「そう!天国へのお迎え!」

相変わらず感情の読めない笑みでそう言う彼に、私は言葉を詰まらせる。言っている意味がわからない。その一言に尽きる。私はひとつ大きく深呼吸をしてから、質問を変えて再びたずねた。

「どうやって入ったんですか?」
「どうやって?」
「だって鍵、掛かってたでしょ?」
「かぎ?」
「いや、だから……どこから入ったの?って」
「上からだよ!」
「はあ?」
「上から!」

思わず漏れてしまった私の声を気に留めることもなく、十四松と名乗った彼は、はっきりとそう繰り返した。やっぱり意味がわからない。そう思ってついため息が零れ落ちそうになった、次の瞬間。私の目は信じがたい光景を捉えた。
ふわり、と浮かび上がった彼の体。空中でくるくると宙返りを繰り返して上昇し、そのままスッと天井へと吸い込まれて消えた。え、と小さく声が漏れる。すると、今度は壁をすり抜けてきたかのように彼の姿が再び現れて、そしてまた、ベッドの上に着地した。
一度、二度、瞬きをしてから部屋の中をぐるりと見渡す。さっきと何ら変わった様子は見えなくて、目の前にはやっぱり彼がいた。でもその彼は今、私の前で浮かび上がって天井と壁をすり抜けて、まるで実体がないかのように感じられて、まるで。

「ゆ、幽霊……」
「ちがうよ、十四松だよ」
「幽霊の十四松さん……?」
「だからちがうってー!ぼくは、天使の十四松!」

わざとらしくも感じるほどに大げさに不満げな声を出して、彼はもう一度くるりと宙返りして見せた。ふわり、と白い服がはためいて、それからベッドに細い脚が降り立つ。先ほどと同じように、その脚はしっかりとベッドを踏みしめているように見えたけど、まじまじと見て、私はやっと感じていた違和感の正体に気が付いた。人ひとりの体重を受けているはずなのに、彼が脚をついている部分の布団はふわふわと柔らかいまま。踏みしめられたような跡もなく、重さを受けているようには到底見えなかった。
うそでしょ、と頭の中の自分が声を上げている。天使だなんてそんな、非現実的な存在が実在するわけない。百歩譲って実在したとして、こんな凡人の私の前に突然現れるはずがない。そう自分に言い聞かせようとするけれど、たった今目にしたものを否定することができなくて。うそでしょ、ともう一度、頭の中で自分の声が反響した。

「ねえ、ご飯まだ?」
「え、ご、ご飯?」
「お腹ぺこぺこー!」

突然かけられた声に驚いて、声が裏返ってしまう。彼はぺたんとベッドの上に座り(それでも布団は少しも乱れなかった)、ぱたぱたと脚をばたつかせていた。とっくに成人してそうなのに、まるで無邪気な子どもみたいだ、と思って、少しだけ警戒心が緩む。私はかまえていた体勢を崩しながら、おずおずと聞いた。

「か、帰らないの?」
「一回地上に足をつけちゃったら、一週間は上に戻れないからね!」

え?と漏れた私の声に、彼は相変わらずの満面の笑みを向けて「一週間お世話になりマッスル!」と元気よく言った。いろんなことが一気に起こり過ぎて、私はなぜかこくりと頷いてしまったのだった。





十四松。死を司る役割を持つ天使。手帳に記された人間が天命を全うする一週間前に地上に降り立ち、その最後を見届けて魂を天へと連れ帰るのが彼の仕事だという。今回もそのお迎えのために降りてきたものの、着地地点を間違えてしまったようで。そしてまだ未熟な彼は、一度地に足をつけてしまうと一週間は天に戻れないらしい。しかも。

「本当にお迎えしなきゃいけない人の家への地図もなくしちゃった、と」
「そゆことそゆこと!名前しかわからんのですわあ」
「そゆこと、じゃなくてね……」

私が買ってきたコンビニのおにぎりを頬張りながら、まいったまいったとでも言うように頭をかく彼に、私は呆れて言葉も出なかった。そもそも、この状況だって相当おかしいんだ。勝手に人の家に上がりこんだ挙句、天使だとかなんだとか言い出して、しかも一週間居座ろうとしている相手に食事まで与えてしまっている。本来であればすぐに逃げ出して警察に駆け込むべき状況のはずなのに、どうしてそんな気が起こらないんだろうか。彼が天使だから?というよりも、私は本当に彼の話を信じたの?そんな自問自答を繰り返してはみるけれど、一向に答えは見つかりそうになくて、私は自分の分のおにぎりと共に喉まで出かかったため息を飲み込んだ。

「とりあえず、それ食べたら出て行ってくださいね」
「えー!?泊めてくれないのー?」
「泊めるわけないでしょ……」
「ぼく、天使だよ?」
「関係ありません」
「お礼もするよ!」
「いりません」
「すっごいよー!天使のお礼!」

口いっぱいに頬張ったおにぎりをごくんと飲み込んで、続きを聞けと言わんばかりにきらきらした目を向けてくる。そんなふうに言われたら、気になるのが人の性というもので。私はわずかに葛藤した後に、ついに彼にたずねてしまった。

「どんなお礼?」
「キミのお願い、いっこだけ叶えてあげるよ!」

なんてベタで信憑性のない話。私は呆れながら横目で彼を見る。すると、まんまとそのくりっとした瞳に捕まってしまった。私をとらえて離さないその視線を受けているうちに、もしかしたら、という気持ちがむくむくと膨らんでくる不思議。もしも、万が一もしも彼が本当に天使だったとしたら、どんな願いを叶えてくれるのだろうか?そんな淡い期待があっという間に私の心を占領してしまって、そんなはずないのに、と一握り残っていた理性を隅っこへと追いやってしまう。

「一週間、部屋のものと私に絶対勝手に触らないって約束できる?」
「できる!」
「……ほんとに願い、叶えてくれるんだよね?」
「もちろんでっせー!」

笑顔で両手を挙げた彼を見て、ぐるぐると考える。でも、いろんなことを考えすぎて頭はパンク寸前で、しかも目の前にぶら下げられた誘惑はとても甘そうに見えて。もうどうにでもなれ、となかば投げやりになりながら、私はぼそりと呟いた。

「布団ないから、床で寝てもらうことになるけど」
「ぼく浮かんで寝るからいいよ!」

最後の抵抗のつもりで告げた言葉をも笑顔で受け止める彼を突き放す術はもうなくて、私は何度目かも知れないため息を漏らすことしかできなかった。





「おかえりー!」

翌日、仕事から帰って来た私を彼の大きな声が迎えた。いる。やっぱりいる。朝起きた時も部屋の中で浮かんで寝ていたし、やっぱり今も、彼はそこにいた。もしかしたら夢なんじゃないか、という希望的観測も、もはやだいぶ望み薄だった。

「……ただいま」
「今日のご飯は?ご飯は?」

部屋の中をふわふわと漂いながら聞いてくる彼に、買ってきたサンドイッチを手渡す。ありが盗塁王!とかなんとか言いながらそれを受け取った彼を見ながら、私はもう一度きいてみた。

「ねえ、本当に天使なの?」
「天使だよ」
「……証拠は?」
「浮ける!」
「うん、見たけど……他にないの?」
「他かあ」

サンドイッチを食べる手を止めて、うーんと首を捻る彼。あまりにも悩ましそうなその様子に、なんだかこちらが申し訳なくなってしまう。もういいよ、と声をかけようとした、その時。あっ、と大きな声を上げた彼に、肩がびくっと跳ねた。ドキドキする胸をおさえながら彼を見ると、にっこりした笑顔をこちらに向けて。そして、相変わらずはっきりした声で、言ったのだった。

「キミのお迎えの日、わかるよ!」
「……え?」
「ぼくの担当じゃないみたいだけど、いつお迎えが来るのかくらいはわかるよ」
「それって……」

そこから先の言葉を、寸前で飲み込む。どくん、と鼓動が嫌な音を立てて鳴った。彼はやっぱり無邪気な笑顔で私を見ていて、それが今は、少しだけこわかった。自分とは違う世界の存在。そんな根拠のない実感が、押し寄せてくるようだった。

「知りたい?知りたい?」
「知、りたくない」
「そっかあ」

私の返事に、彼は少しだけ残念そうにしながら残りのサンドイッチを口の中に放り込んだ。鼓動のリズムはまだおかしくて、私は自分を落ち着けようと手元のお茶をごくりと飲んだ。ふう、とひとつ息を吐く。それからもう一度彼を見て、恐る恐る、口を開いた。

「天使は、死なないの?」

なんてことない、純粋な疑問。私のその問いかけに、彼はぱちりと一度瞬きをした。それから考え込むように視線を上へと泳がせると、うん、と答えを見つけたかのように頷いてから言った。

「人間とは少し違うけど、天使もいつかは消えるよ」
「え、そうなの?」
「ぼくたちは神さまが創ったものだから。神さまが創るものに、永遠はないんだよ」

てっきり不死の存在だと思っていた天使にも、寿命のようなものがあったなんて。予想外の事実に驚いていると、再び彼と目が合った。彼は私と視線が交わると、にこっと目を細めて笑って見せた。

「だから、限りある天命の中で出会うすべてのものにカンシャせよ、って言われてる」

どこか優しさを孕んだその声に、さっきとは違う音で胸が鳴った。とくん、と小さく、穏やかな音だった。なにこれ、と内心戸惑って、ぎゅっと胸の辺りをおさえる。そんな私を見つめたまま、彼はさらに笑みを広げて言葉を続けるのだった。

「キミとの出会いにも、カンシャすっぺー!」

その表情と声はどこまでも無邪気だったけれど、私の心に流れ込んでくるこのあたたかいものは何なのだろうか。意味もなく高鳴る鼓動の音を聴きながら、私は彼から視線を引き離した。これ以上目を合わせていたら、もうそらせなくなってしまう。そんな、気がした。





「おかえり!」

彼がここに来て、四日目の夜。やっぱり今日も彼は私の部屋にいて、元気のいい声で私を出迎えた。でも今日は、それに応える気力が私にはなくて。ただただ力なくため息が漏れるだけだった。
仕事で、大きなミスをした。私だけの責任ではなかったけれど、防ぐことのできたミスだった。上司に一方的に怒られながら、言い訳したくなる気持ちをぐっと飲み込んで何度も何度も頭を下げた。このミスのおかげで、一日のスケジュールはもうめちゃくちゃ。いつもよりも3時間以上遅い時間の電車に揺られて帰る途中、こぼれそうになる涙を必死で堪えた。

「どうしたの?」

何も言わない私を不思議に思ってか、彼はふわりと浮かんで私の前へとやって来た。そっと顔を覗き込んでくるまんまるな目。その目から逃れるように、私はふいと顔をそらした。

「……別に」

いつもよりも低い声が出てしまい、私はじわじわと自己嫌悪する。自分の感情を、何も関係のない彼にぶつけてしまったことに対する自己嫌悪。彼が悪いわけじゃないのに。彼は何もしていないのに。そう自分を責めているうちに、次第と心がささくれ立って。いつの間にか、自分に対する負の感情は、彼への苛立ちへと変わっていった。
そもそも私が彼に気を使う道理なんてないのに、どうして申し訳ない気持ちにならなければならないのだろうか。疲れて帰ってきて、得体の知れない相手を気遣わなきゃいけないなんて、そんなのってない。そんなのってないよ。一度膨らみ出した不満はどんどんその勢いを増して、目の奥がツンと熱くなって。あ、泣きそう。そう思って慌てて頭を振った。
と、その時。ふわりと何かに包まれたような、そんな感覚に思わず顔を上げる。すると目の前に彼の両の手のひらが広げられていて、もう少しで顔に触れそうな、それくらい近い位置にあった。

「え?」
「ちょっとだけじっとしててね」
「な、何す……っ」

突然目の前に突き出された手に戸惑って後ずさりしようとした時、頭のてっぺんに何かが落ちてきたような錯覚を覚えた。驚いて目を瞑れば、それは頭から顔へ、顔から喉元へ、そして胸へとトロトロ流れ落ちて、やがてつま先まで辿り着いてスッと消えた。おずおずと目を開いて自分の体を見るけれど、なんら変わった様子はない。少しだけあたたかい空気を体にまとっているような、そんな感覚がした。

「元気になった?」

かけられた彼の声に、顔を上げる。言われてみれば、さっきまであんなに怠かったはずの体がすっかり軽くなっていて、思わず自分の手を、足をまじまじと見て、それから再び彼へと視線を戻した。

「……何したの?」
「ないしょ―!」

きっと複雑な表情をしているであろう私を見て、彼はいたずらが成功した子供みたいに口元をおさえて笑った。確かに体は楽になったし気分も晴れはしたけれど、さっきまであんなに不機嫌なオーラを漂わせていたにもかかわらずころっと元気になってしまったことが気まずくて、気恥ずかしくて。私は言葉も見つけられずに、そのままぐっと俯いた。すると彼は、またいつものように笑って言うのだった。

「キミは、いつもいっぱい頑張ってるんだね」
「そ……そんなこと……」
「わかっちゃうんだー、ぼく天使だから!」
「なにそれ……なんかずるい」
「ずるくナッシング!ふふ、エライエライ!」

そう言って、彼の手がまたこちらに伸びてくる。服の袖からちらりと指先が覗いて、それが私の頭へとふわりと下ろされる。触れる、と思って目を閉じた、その瞬間。おっと!と彼の声が響いて、私はちらりと顔を上げた。

「触っちゃいけない約束だった!あぶないあぶない!」

ギリギリセーフ!と額の汗を拭う素振りをして見せる彼に、私の胸はまた、とくん、と鳴った。なにそれ、そんな約束のことなんて。そう言いたい気持ちを堪えて、飲み込む。そんなこと言ったら、まるで私が彼に触れてもらいたかったみたいじゃないか。そんなこと、ない。きっとない。頭の中でそう繰り返して、私はどことなく熱っぽい自分の頬をおさえた。もどかしいこの距離とどこまでも無邪気な彼の笑顔。それを見ていると、彼が一体なんなのかよりも、大人なのか子どもなのかわからないその振る舞いの方に戸惑ってしまうのだった。





少しだけ早く仕事が終わった、五日目。私の脚は、自然と駅前のスーパーに向かっていた。カゴを片手に野菜を見ながら、頭の中で献立を考える。久しぶりの自炊。調味料は何が残っていただろうか、パスタはストックしていただろうか。彼は何が好きだろうか、嫌いな食べ物はあるだろうか。そんなことを考えながら食材を見て歩く途中、タマネギを手に取りながら、私はふと気付いた。
いつの間に、だろうか。いつの間に私は、彼がいる生活を当たり前に思うようになったのだろうか。まだたったの五日。それも、突然現れた怪しい相手。そんな彼のために献立に迷うなんて、どうしてしまったんだろう。考えはじめた途端、鼓動がドキドキとうるさくなって、私はゆっくりと深呼吸をした。
深入りしては、いけない。そう自分自身に言い聞かせながら、私はカゴを持つ手に力をこめる。それでも私の脳裏には、美味しそうに食事をする彼の姿が浮かんできてしまうのだった。



「ただいま」

ガチャリ、と鍵をあけて部屋へ入ると、珍しく電気がついていなかった。手探りでスイッチを押せば、彼はやっぱりベッドの上に立っていて、ぼんやりと窓の方を眺めていた。ただいま、ともう一度その後ろ姿に声をかければ、ゆっくりとこちらを向いた彼の目が私をとらえた。
その瞳に、ぞわり、と言いようのない不安を感じた。いつも通り笑顔をたたえているはずなのに、どこか暗い、何かを秘めているように見えるその瞳。思わず彼の名前を呼ぼうと口を開き、瞬きをしたその一瞬。その、私がまぶたを閉じた一瞬のうちに、彼の表情はいつも通りの笑顔になっていた。

「おかえり!」
「……どうしたの?」
「うん?」
「何か、あった?」

言葉を選びながらたずねると、彼の瞳が一瞬揺らいだ。いつもであれば、こちらが身じろぎしてしまうほどに強い視線を向けてくる彼の瞳が、揺らいだ。そんな些細なことにさえ、なぜか不安感がかき立てられて、弧を描いたままの彼の口が紡ぎだす言葉を聞くのがたまらなく怖くて。耳を塞いでしまいたい。そんな幼稚なことを考えている間に、彼は言ったのだった。

「迎えが来たんだ」
「迎え?」
「上からね、兄弟が、ぼくを迎えに」
「え、だって、一週間待てば自分で戻れるんじゃないの?」

私の問いかけに、彼の目が再びこちらに向けられた。その瞳はやっぱり暗く沈んでいて、その奥に潜んでいるのが、深い悲しみや寂しさであることに私は気が付いてしまって。彼は、うっすらと微笑んだまま、いつもよりも少しだけ小さな声で、それでもはっきりと告げた。

「これ以上ぼくがここにいたら、キミの魂が身体から剥がれちゃうんだって」

ぞわり、とまた背筋を冷たい何かが駆け抜けていく。どくん、どくんと重く響く心臓に押し上げられて、喉が破けてしまうのではないか。そんなことを感じたりもした。
この体の震えと鼓動の高鳴りは、突然目の前に突きつけられた死に対する恐怖のせいだ。最初は、そう思った。でも、すぐに違うとわかってしまった。彼の言葉が、視線が、表情が告げる、この後訪れる未来。その避けようのない未来への堪えきれない悲しみに、胸が鳴いているのだった。

彼との、別れ。今日がその日なのだ、という、逃れようのない現実に。

「もう、行くの?」
「外で、兄さんが待ってるから」

そう言って、彼は窓の外を見た。私もそちらへ視線を移すけど、私の目には何も映らない。ただ暗い外を見ながら、何か言わなきゃ、と頭をフル回転させるけど、言葉はひとつも出てこない。ただただ焦るばかりで、焦れば焦るほどに思考はまとまらなくなっていく。そんな自分に苛立って、私は自分の手のひらに爪を立てた。
ふと、部屋の空気がふわりとあたたかくなったような気がした。どこか懐かしい、その温度。そう、まるで、彼が最初に部屋に来たあの日と同じ温度のようで。顔を上げれば、目の前にはいつも通りの笑顔の彼がいて、私の瞳を覗き込んで、その唇を開いた。

「願いごと、決まってる?」
「え?」
「お願い、いっこ叶えてあげる約束だったよね」

そんなこと。そう言いかけて、口をつぐむ。言ってはいけない。残された最後の理性が、感情的になりそうな私の心を、あと少しのところで食い止めていた。
彼を引き止めたところで、ここにいてと言ったところで、訪れる未来はただひとつ。命の尽きた私を前に、彼は何を思うだろうか。自分のせいで、自分が間違えて降り立ったせいで。そう、思うに決まっている。自分を責めるに決まっている。私に、彼を悲しませる権利なんてない。引き止める権利なんてない。だって、赤の他人なんだから。見ず知らずの、出会ったばかりの他人なんだから。
そう言い聞かせて、顔を上げる。彼と、目が合う。丸い瞳に私が映っていて、きらきら、きらきらと光っていて。その瞳を見ているうちに、ぽろり、と言葉がこぼれ落ちていた。

「また、会いたい」

彼の瞳が、また揺れた。静かに瞬きしたその瞳を、うっすらと光の膜が覆っていた。私はそれを見つめたまま、何かに突き動かされるように、ただこぼれる言葉を声に乗せて放つのだった。

「何年後になるかわからないけど、私がそっちに行ったとき、また会いたい。だから……だからそれまで……」

消えないで。と、最後の一言は言葉にならなかったけれど。優しく細められた彼の目が、しっかりと、言葉にならなかった私の想いを受け止めてくれたように見えた。思い込みかもしれない。いつだって無邪気で子どもっぽくて、何を考えているかもわからないような彼が、人の気持ちを汲んだりなんて、そんなことできっこない。それでもよかった。思い込みでもよかった。彼の瞳が、いつも通りの笑顔をたたえている。それだけで、私の胸はきつくきつく締め付けられた。

「ナマエちゃんに神のゴカゴがあらんことを!」

自分の胸の前で手を組んでそう言うと、彼はやわらかく宙を蹴って窓をすり抜けて、そして、暗闇へと溶けて消えた。部屋の中はしんと静まり返り、やがて温度が遠のいていった。彼がいた。そんな証拠は、もうどこを探しても見当たらなくて。握りしめていたスーパーの袋が、ガサリと小さく音を立てた。

彼は、天使だった。比喩でも何でもなく、紛れもなく、私にとっての天使だったのだ。










バタバタと、自分の周りで幾人もの人が慌ただしく動き回っている。行き交う足音、耳元にかけられる声、そして、単調に鳴り響くまっすぐな電子音。遠ざかっていく意識の中、私はぱちりと一度瞬きをした。真っ暗になる視界。その瞬間、ふわりとあたたかい空気が体を包み込んでいった。この温度を、私は知っている。そう思って目を開く。すると、まばゆい光の中、白い、袖の長い服を身に纏ったひとりの青年が、私を見てにっこりと微笑んでいるのが目に留まった。

いつの間にか、何年も、何十年も前の姿に戻った自分の体を気に留めることもなく、私は彼を見つめていた。そして彼が、あの澄んだ声で言うのを、確かに耳で、心で聞いたのだった。

「願いごと、叶えにきたよ」