花嫁に宛てた処方箋







この世に生まれ落ちた時から、元々、自分が異質だと分かっていた。正確には最初から分かっていた訳ではなく、自我が芽生えると共に、そうなのだと理解していったんだけれど。自分で言語を扱えるようになるよりも前から、毎日の様に浴びせかけられていた罵倒。初めて言葉の意味を知ったのは何時の事だっただろう、それさえ曖昧な程に古い記憶だ。

「こっち見るんじゃねーよ、化け物!気持ち悪い!」

今日も今日とて変わらず、とうに聞き飽きた誹謗を誰かから叩き付けられる。言われる事それ自体より、何時しか言われ慣れてしまった事が悲しい。同じ年頃の若者を始め、一回り以上も年上の人間、或いはその意味も理由も知らぬ様な幼子にまで、奇異と畏怖が篭る眼差しを向けられる。私への扱いは村人の老若男女問わず等しいので、お互い、感覚が麻痺するのも当然だ。
私が何を言ったところで単なる主観でしかなく、また、人権も無い為、決して周囲には受け入れられない。蔑まれるのに慣れると同時に、私は人間として生きる事を諦め、化け物呼ばわりされる事に甘んじなければならなかった。本当は何の力も無い、どうしようもなく非力な娘だ――ただ、瞳の色が、"普通では有り得ない色"であるだけの。それを事実として知っているのは自分だけで、頒布したところで誰に受け入れられる訳も無い。
もしかしたら、私の母か父が人ではなく、化け物や妖と呼ばれる存在だったのかもしれないけれど。一人で立って歩ける様になった頃に、手酷い迫害から私を庇った母が死んでしまってからは、確かめようも無い。父に関してはそもそも顔や声も知らず、それが何処の誰かも分からなかった。唯一、私の身と先行きを最期まで案じ続けた母も終ぞ、父の名すら明かす事は無かったから。

「なんておぞましい色をしてるんだろうね、お前の目は。まるで、血の様だ」

最初に、そんな風に気味悪がって私を忌避したのは、誰だっただろう。夕陽よりも暗い深紅は、あの日、母が流した命の温もりに酷似していて、私にとっても好ましくない色だ。かと言って、忌み嫌えば黒や蒼にでも変わってくれるなら、まず悩みの種にもならない。どうせ人間扱いされないのだったら、本当に、そんな妖しの術でも使えたら良かったのに。
けれど、やはり私はどこまでも無力な人の子でしかない。そう呼ばれずとも、そう呼ばれる事を諦めてしまっても、人間なのだ。殴られれば殴られただけ傷を負うし、それはもう呆気無く死んでしまう。生きる事さえも投げ出した訳ではなし、抗えないのであれば逃げの一手を選ぶしかなかった。日常的に振るわれる暴力から逃がれ、心と身体を落ち着けられる場所は最早、村の中には存在しない。逃げる獲物を何処までも追うのが好きな、狩人の様な彼らを撒くのに、獣道へ入り込むのが常だった。

やがて、村の裏手に座す山の奥に小さな滝壺が在るのだと、逃げ込んで初めて知る事となる。ざあざあと雨音にも似た水流が流れ落ちる音を辿れば、村とは反対方向へ向かってせせらぎを作っているらしい。随所に転がる岩の塊は白波を何時から浴び続けているのだろうか、表面は緑濃く苔生していた。ふと覗き込んだ透明な水面に泥塗れの頬と、誰か曰く"おぞましい色"をした双眸が映し出され、突発的に手で掻き混ぜる。掻き混ぜても波打つだけで曇らない、清浄な水の所為で殊更、己が醜く矮小な存在に思えた。

「えー、俺は好きだけどな、その色。だってさあ、俺とお揃いじゃん」

「っ、誰……?」

突然、何の前触れも無く背後から聞こえた能天気な声に、危うく滝壺へ沈まされかけた。振り向けば周囲の緑によく映える、朱の狩衣を身に纏った青年が、古木の幹に背を凭れて立っている。私の持つ鈍い赤とお揃いだと言うには、少しばかり無理が有る色をした狩衣だ。貴族の様な出で立ちでありながら不思議と背景へ馴染んでいる、彼は何処の誰だろうか。記憶が定かならばこれが初対面で、少なくとも村人ではない筈だ――そうでなければ、私を肯定したりなんかしない。

「まあまあ、そう卑屈になんなって。しかめっ面ばっかりしてないでさ!せっかくの可愛い顔が台無しだぞ〜。ほら、ちょっと笑ってみ?」

す、と難無く距離を詰めて来た彼が、呆れた笑みで私の口角を無理矢理に釣り上げようとする。私は思考回路も身体も何もかも固くなってしまって、どうやっても上手く笑えない。他者から近寄られる事に対して、こんなにも警戒心を抱かなかったのは未だ嘗て無い経験だ。被虐の前兆を敏感に気取るのにすっかり長けた本能が、うんともすんとも言わないのは初めてだった。実際、頬を抓む指先の力はそんなに強くはなく、ただ、伝わる体温が温かいと感じるだけだ。
私の心を見透かしているかの様な、真っ直ぐで澱みの無い瞳が、滝壺の水面よりも澄んで見える。一点の曇りも無い黒は磨かれた黒曜石の様に煌いて、美しくて、言葉も出ない。ただ、羨ましかった――私のそれは、すっかり濁ってしまっているから。不意に其処から零れてくる透明な雫が、濁りを全て外に流してくれたら良いのに、とぼんやり思う。頬に触れていた温かな指先は何時の間にか眦をなぞっていて、眼前の青年が薄く笑みを湛えたのは分かった。涙の膜で暈けて揺らいだ視界にも、純粋な黒は眩しく映る。

「ねえ泣かないで、笑って見せてよ。その方が、ずっと良いって」

出逢って間も無い、名も知らぬ彼の言葉は不思議と、胸にストンと落ちて来た。この人が言うならそうなんだろうと素直に、疑問の一つも浮かばないくらいに、受け入れる事が出来たのだ。笑うという行為に表情筋を使う事が余りに久し振り過ぎて、ぎこちない笑みになってしまうのは目に見えていた。事実、唇の両端の筋肉が変に引き攣るのが自分でも分かったし、笑顔と呼べる顔になっていたかは正直、自信が無い。けれど、彼は私の不恰好さを嘲笑うでもなく、満足そうに「それで良いのだ」と鼻の下を擦ったから、きっとそれで良かったんだろう。

「何度も言うけど、君の瞳、すっげー綺麗な色してる。他の誰が何と言おうが、俺は好きだよ。……どうしても苦しくなったら、またおいで。何度だって、君の心を慰めて、救ってみせるから」

耳元で囁いた声はひたすらに優しくて、心の奥から込み上げてくる何かが、また溢れそうになる。不意に、何処かから吹き込んだ温かな風が頬を撫でた。閉じた瞼を再び開いた時にはもう、朱の残影さえ其処には無く、狐に抓まれたのではないかと疑ってしまったくらいだ。ほんの少しだけ残った感触を思い出す様に、自らの指先を目尻に這わせる。そういえば名前を聞き忘れた、なんて他愛無い事を自然に思えて、驚いた。これまで恐怖の対象でしかなかった他人に好奇心や興味を向けるのも、勿論、初めてだった。


そして、私が山奥の滝壺へ逃げ込むのは、然程の時を待たずして習慣化していった。二度目に訪れた時、当然の様に再会を果たした青年は己の名を「おそ松だ」と名乗った。朱の狩衣の胸元には家紋だろうか、松の印があしらわれていたから、珍しい名だが本名なのだろう。聞けば、複数居る兄弟全員の名前の最後に松が付いているとの事だ。如何にも兄らしい顔をして得意気に鼻の下を擦るのは、恐らく兄弟の長子としての彼の癖なのだと思う。

「俺さあ、ほんとは首が全部で六つ有んの。今は諸事情で、各地にバラけちまってるんだけどね」

おそ松さんがしてくれる話は何時も面白くて、突拍子も無い内容で、一時だけ現実を忘れさせてくれた。身体に刻まれた被虐の痕も熱も、彼の隣に居る間は疼かない様な錯覚さえ覚えた。村人達から浴びせかけられる罵詈雑言も、彼が語り聞かせてくれる夢物語に比べれば、至極どうでも良かった。まさに逃げて来ているのだという事は最初から分かっていたけれど、自己嫌悪に陥りそうになる度、おそ松さんはどこまでも澄んだ瞳を向けてくる。それだけで私の全てを肯定してくれている様な気がして安心したし、――酷く、依存していった。

「ごめんなさい、おそ松さん」

彼には、私の様に憐れな娘なんかに構う必要も、利点も、何も無いのに。深く根付いた劣等感と思い込みが邪魔をして、私は、何時まで経っても彼の目を真っ直ぐに見詰め返す事が出来ない。おぞましい色だと、まるで化け物の様だと誰からも忌避されてきた私の瞳に、彼の姿を捉えてしまうのは憚られたから。そう思いながら、確かに心から謝りながら、私は何時だって彼から与えられる自己否定の否定を期待している。屈託無く笑って、くしゃくしゃに頭を撫でてくれる温かな手を、どうしようもなく欲しがってしまう。

「ナマエちゃんは何も悪くない。この俺、おそ松様がそう言ってんだから、もっと自信持ってみたって、罰は当たらないと思うけど」

浅ましくも、彼がそう慰めてくれる事を願って、無意識に強請った――誰に蔑まれても、仕方が無い。なんと愚かな性根かという卑下こそすれ、他の何物にも代え難い彼という拠り所を手放せる気は、最早、全くしなかった。とんとん、と宛ら赤子をあやす様に、一定の調子で背中を優しく叩く掌の感触が、余りにも心地良かったのだ。全てを見透かしているかの様な笑みを浮かべたまま、彼はまた鼻の下を擦る。未だかつて、今は亡き母の腕に抱かれて眠りに就いていた頃にだって持ち得なかった安堵を、手放せる訳も無かった。

「俺は甘えられるのも甘やかすのも好きだし、そうしてくれて構わないよ」

「じゃあ、……もっと、おそ松さんの事、教えてください」

次第に、私は彼との僅かな繋がりさえも欲しくて欲しくて、堪らなくなった。滝壺の水面の様に透明度の高い、この秘密の場所へ差し込む柔らかな木漏れ日の様に温かな、眼差しに惹かれていった。それを私自身が愚かだと思っても、彼は絶対にそうだとは言わないから、余計に。「君が望むなら、叶えてあげる。俺に叶えてあげられる望みだったら、何でも」――うっそりとした笑みと共に吐き出される囁きは何とも甘やかで、魅入られる一方だった。


× × ×


けれど、唐突に降って湧いた幸福の日々は、そう長くは続かなかった。主な原因らしき原因といえば、ここ最近ずっと燦々と照り付け、じりじりと肌を焼く陽射しの所為だと思う。昨日も今日も、からりと晴れた晴天には雲一つ無く、容赦無く降り注ぐ陽光はむしろ不快な熱気を孕んでいる。最後に雨が降ったのは何時の事だったか、それも随分と遠い記憶だ。毎日、村長の邸宅で徒に開かれる対策の会合も実りは無い様子で、八つ当たりか、私への暴力行為も激化していった。逃げ出す隙さえも与えられず、逃げ出す気力や体力が無くなるまで、執拗に嬲られる。私を甚振るのにさぞや咽喉も渇くだろうに、と、いっそ息を切らした誰かの姿は憐れですらあった。
やがて、村に一つしか無い井戸の底が見え始めた頃、恐らく、村人達の焦燥と苛立ちは頂点に達したのだろう。その日、不毛に終わるかと思われた会合は珍しく淡々と進んで、最終的に何らかの結論を生んだらしく、終わる時分に数度の手締めが遠く聞こえた。何故か妙に胸が騒いで、終末の始まりを告げる知らせであるかの様に思えたのを覚えている。相変わらず嫌味なくらいに清々しい快晴で、当たり前の様に蹴倒された地面には熱が篭っている、そんな日だった。

「綺麗で、汚いもの」

尊厳と頭蓋を踏み付けながら、そうやって相反する形容詞で私を評価した男の名前なんて、知らない。少しの興味も無いし、たとえ名乗られたって心に留めようとさえ思わない。散々、入念に痛め付けられた後で、ぼろぼろの体躯を引き摺って連れて来られたのは、あの秘密の場所。焼かれる様な痛みに嘔吐きそうになりながら、己がこれまでに無い災難に見舞われる事は、朦朧とした意識下でも理解出来た。ただし、察したところで抗い様も無いので、何の意味も無かったんだけれど。

「お前は、水神様への生贄になるんだ」

現実離れした誰かの台詞に、どうやら雨乞いを試みようとしているのだと悟る。家畜の遺骸や臓物などを水源に放り込む方法による雨乞いは知っていたが、よもや私自身が放り込まれる立場になるとは。化け物と揶揄され、忌み嫌われている私は確かに村人達にとって家畜よりも無価値で、都合が良いのだろう。序でに言えば生娘ときているから、神が綺麗な捧げ物と斜め上に受け取る二重の可能性も鑑みて、栄えある贄に抜擢されたらしい。全く以て嬉しくも何ともないが、拒否権などというものを翳せない事も十二分に知っている。絶対に成功する保証も無い、霊的な願懸けの為に使われる程度には、私の命は軽んじられている。
見慣れた滝壺の水面はやはり、どこまでも美しく透明に澄んでいた。流した血や泥に塗れた顔を映し出す事さえ気が引けるというのに、私は私の全てを底へ沈めなくてはならないのか。ああ、でも、たった一つだけ愛おしいと感じたこの場所で人生を終えられる事は、ひょっとしたら至上の幸福なのかもしれない。私を虐げ続けた村人達の助けになるのだとしたら癪だけれど、犬死にもしたくはないから、それで良いのだ。一つだけ心残りが有るとするなら、――赦されるなら最後に一目だけでも、また此処で、おそ松さんに会いたかった。

「―――――これで最後になんて、させる訳無いじゃん。何度だって救ってあげるって言ったろ」

空中に投げ出された身体を抱き留めてくれる腕の感触は、頭上から聞こえる声は、幻覚だろうか。視界いっぱいに広がる狩衣の色は鮮やかな朱色で、ふわりと、睡蓮にも似た花の香が匂う。「おそ松さん、」と呼んだ声は余りに小さく掠れてしまって、果たして彼の耳に届いたかどうか。そうっと頬を撫でる掌に傷の痛みが吸い取られてゆくみたいで、つい夢見心地になってしまう。澄んだ水面に映る、彼の沓が何処の地面も踏んでいない光景は、現実のものだろうか。彼が、それでも安堵を覚えている私以上に呆然とする村人達へくれた一瞥は、普段の私が彼らから向けられるそれと丸きり同じだ。

「この子、くれるってんなら有難くもらうけどさ、あんた達のご期待に沿うかどうかはまた別の話なんだよね。……覚悟の上で、願ったんだろ?」

ぱちん、と軽快な音を鳴らした指に向かって集まる数多の水滴が、その正体を如実に表していた。誰も口に出さなかったのは、彼の存在を前にしては口に出すのもおこがましいと考えたからに相違無い。そして、人間、男性、青年といった種族的な括りの呼称ではない、彼の個としての名を呼べるのは、此処では私しか居なかった。知ってか知らずか、僅かな優越感を煽る様に私の頬を撫で続ける彼、おそ松さんの表情は変わらない。

「神様だから平等だとでも思った?だけど実際そうじゃないんだなぁ、これが。神の庇護や寵愛を受け入れられる器を持った人間は、そんなに多くは居ない。そうじゃなけりゃ、誰も神託を聴ける人間を特別扱いしたりなんてしないだろ。最初から、神を信じようとも崇めようとも思わないよねぇ。少なからず"特別に"助けて欲しい、贔屓にして欲しいって気持ちから祈ってんじゃねーの」

くつくつと咽喉を震わせながら、何の事も無げに言い放つ彼の口調は静かで穏やかだ。現に、村人達は日照り続きの現状から脱け出したい、助かりたいという思いで、降雨を天に祈ろうとしていた。「神を神として扱うってのは、そういう事だろ。まあ、"その他大勢"に関してのみ言えば、平等っちゃ平等だけどね」なんて、神は残酷なまでに冷静だ。その他大勢、と総称した輩を見下ろす瞳の温度は見るからに冷えていて、それはもう、視線を向けられていない私の背にも怖気が走る程。ただ、そんな私の畏怖を宥め治める様に腰を抱く手はむしろ、温かく優しい。つまり、今まさに此処で明確な線引きが為されている――寵愛を受けられる者と、そうでない者達との間に。
「あんた達は、駄目だよ。俺の特別じゃないから」と、子供の悪戯を諌める様な口調で言って、彼はあくまでも人好きな笑みを湛える。その一言だけで、この場に居る誰もが皆総じて等しく、指先一つ動かせなくなっていた。まるで蛇に睨まれた蛙の様だという比喩は、決して間違っていない。見遣れば何時の間にか、村人達を眼下に据える彼の双眸は燃え盛る焔の色に変わって、妖しく胡乱げな光を放っている。くふふ、と愉悦に塗れた嘲笑を零して歪む彼の頬には、亀裂の様な模様が薄らと浮かび上がっていた。

「その神がどんな姿をしているか、どんな名を持つかも知らずに、縋ろうとするなんて。ほんと馬鹿みたいで、笑えるね」

手の甲や前腕に浮かび上がる乳白色の斑模様を撫ぜると、思いの外、つるりと滑る様な手触りで、魚の鱗とはまた別物らしい。緩やかな弧を描く唇の隙間から、ちろりと這い出た真っ赤な舌の先は明らかに、二又に裂けている。時折、何かが触れ合って擦れる様なシューッという細い威嚇音が、彼の背後から聞こえてくる。するりと、藍色の指貫を突き破った長い尾が腰に巻き付いてきて、思わず肩を跳ねさせてしまったのは許して欲しい。「大丈夫だよ、ナマエちゃん」と、とろとろに柔らかく蕩けた声色で呼んでくれる、個としての名前が何より確かな、私をその他大勢に括っていない事の証なんだろう。尾に身を委ねれば、満足そうに笑った彼はまた緩々と、乳白色の鱗に覆われた指で私の頬を擽る。

「雨なんて、絶対、降らせてやんない」

それは、願いに応えられないという意思が込められているだけにしては、些か強い宣言だった。その他大勢の顔に分かり易く絶望が滲んでいるのを眺めて、当然の報いだと言わんばかりに神は胸を張る。きっと、明日も明後日も一週間後も、ずっと空は晴れ続けるのだろうと、何となくそう思った。元は濡羽色の衣を表面に纏っていた、二つの澄んだ深紅に呆けた顔をした自分が囚われている。自身でも嫌悪し続けた己のそれと同じ色をしている筈なのに、彼が持っているだけで綺麗だと感じられるのが不思議だ。それどころか、彼と"お揃い"なのだと思えば、己のそれすらも愛おしくなってくる。

「ナマエちゃん、君は、……君だけが、俺の特別なんだよ。君がお母さんの胎に魂を宿らせた瞬間から、その名前を与えられる前から、ずっと。俺は、ナマエちゃんが欲しくて堪らなかったんだ。……だから、誰にも奪われないよう、真っ先に俺のものだって証を付けた。流石に、こうも悪影響が出るとは思ってなかったから、その辺はごめんな」

壊れ物に触れるかの様に下瞼をなぞる親指が、抱いてもいない疑問の答えを提示してくれている。八の字に下がった眉を見上げていると、錯覚ではなく、身体に刻まれた被虐の痕も熱も消え失せた。「もう大丈夫だから」という何時もの咒文を唱えて、彼は、おそ松さんは私をとことん甘やかそうとする。どうやら、彼に叶えてもらえる望みは私が考えていたよりも、遥かに多い様だ。ざあざあと雨音にも似た水流が流れ落ちる音を辿れば、村とは反対方向へ向かってせせらぎを作っている。それさえも、彼がその気になれば水源の滝壺ごと枯らす事が出来るんだろう。その他大勢の人間にとってはなんて救いの無い話なんだろうかと、朱の狩衣に包まれながら、他人事の様な感想を抱いた。今日もまた、からりと晴れた晴天には雲一つ無く、容赦無く降り注ぐ陽光はむしろ不快な熱気を孕んでいた。