醜悪な食卓へようこそ






百合の匂いがする。甘くて密やかで、けれど諄くない植物特有の瑞々しさも持った香り。夕方の教室を満たすその甘美な匂いに包まれていると、どうしても眠たくなってしまう。窓の外を見下ろせば、中等部へと続く道のりから中庭まで真っ白な百合の花が咲き乱れていた。きれい。


「ナマエちゃん?なにしてるの?」


何を考えるわけでもなく窓枠に顎を乗せて外をみていた私に声がかけられた。後ろを振り向けば、そこには髪をふたつに結んだカチューシャが可愛らしい女の子が。


「トト子ちゃん」

「もう皆教室から出ってるわよ?ナマエちゃんまだ帰らないの?」


不思議そうに首を傾げながらトト子ちゃんは前の席に座った。たしかに周りを見渡してみるけど、教室には私とトト子ちゃんしかいなかった。いつの間に一人になってたんだろうか。手にしていたスマートフォンをポケットに直しながら黒板の上にかけられている時計を見上げる。


「ううん、帰るっていうかね、今日はみみ江ちゃんとほにょ美ちゃんの誕生日プレゼント買いに行く約束してたんだ」

「ああ、最近駅前にできたショッピングモール?」

「トト子ちゃんもう行ったの?」

「ううん、まだ行ってはないわ。でも美味しいクレープ屋さんとかいろいろ入ってるみたいだし、今日は駄目でもまた一緒に行きましょうよ」

「ほんと?行きたい!」


にっこりと微笑むトト子ちゃんに嬉しくなる。トト子ちゃんとは今年初めて同じくクラスになったけど、なかなか気が合う子なのだ。―と、


「?ねえナマエちゃん、なんかオレンジみたいな匂いしない?」

「オレンジ?」

「ええ、柑橘系の―…」

「ああ、」


トト子ちゃんが小さな鼻を動かして私に尋ねた。私はすぐに合点がいって彼女に頷き返す。


「最近ね、シャンプー変えたの。前まではフローラル系だったんだけど、もう夏でしょ?新しくしてもいいかなあって」

「なんだ、そうだったの」


私もシャンプー新しくしようかなあ。そう言って髪をくるりと弄るトト子ちゃん。白く細い指に柔らかそうな茶色の髪が絡まる。窓から差し込む初夏の風がかすかに汗ばんだ頬を撫でていく。涼しくて、気持ちいい。
トト子ちゃんと私しか居ない夕方の教室は、とても静かだった。窓から見えるグラウンドから時々野球部員の掛け声と顧問の十四松先生の声が聞こえてくる程度で。ただ空から今にも零れ落ちそうなほど赤々と燃える太陽が、世界を包み込んでいた。


「ね、トト子ちゃんてさ、あの学校の七不思議って信じてる?」

「ええ?あの吸血鬼がいるーってやつでしょ?信じてないわよ。そんなの誰かが作ったうわさ話じゃない」

「だよねえ」


クスクスと笑いながら相槌を打つ。七不思議、とはこの学校にまつわる所謂階段のようなもので、それは南音楽室のピアノが夜になると勝手に音楽を奏で出すとか四階のトイレに幽霊がでるとかそういう内容だ。なんともちんけな話。けれども最後の7つめがこの七不思議をよくある"誰かが言い出した"うわさ話から遠ざけていた。―曰く、吸血鬼が棲んでいるというのだ。この学校には。
生き血を吸う化物なんてものがこの世にいるなんて私は思ってないのだけれど、その噂がまことしやかに周りの子たちの間で流されているものだからどうなんだろうなあ、と最近は考えるようになっていた。

でもまあトト子ちゃんも幸いっているわけだし、やっぱりデマなんだろうな。
私は鞄を取った。


「じゃあ私、そろそろ時間だから行くね。トト子ちゃんも暗くならない内に帰らなきゃだよ」

「ええ、大丈夫よ。ありがとうナマエちゃん。また明日」

「うん」


じゃあね、と手を振る。そのまま教室を出て階段を下りた私は自転車置き場の方を通って正門へと向かった。一歩外に出れば蒸し暑い空気と、それから甘い百合の匂いが体にまとわりつく。百合は夏が盛んな花だ。そのうち溢れかえって栽培しきれなくなった花が花瓶にさされて教室へと運び込まれてくるだろう。毎年の夏お馴染みの風景だ。
と、花壇の前を通り過ぎようとした時だった。


「あ、カラ松先生!」

「おお、ミスミョウジ。奇遇だな」


保険医のカラ松先生が風に白衣をたなびかせながら、百合の花畑の中に立っているのが見えた。思わず声をかけると先生はこちらを振り返ってひらりと手を振り返してくれた。先生、こんなとこでなにしてるんだろう。不思議に思って花畑を縦横に走る貝殻で周りが縁取られた小道に入って、先生の方へと近づいた。


「なにしてらっしゃるんですか?」

「ああ、一松先生に花の植替を頼まれていてな。もうすぐ生物の実験で使うらしいんだ」

(またパシらたんだ…)


内心思う。まあ言わないのだけれど。この学校には世にも珍しい六つ子の先生がいて、その次男にあたるのがこの保険医カラ松先生なのだが、生物分野を担当している一松先生という人にはどうも嫌われているようだった。いや、そんなに真剣な方向で嫌がられてるわけではないと思うけど校内でもずさんに扱われているのを度々見かけることがあった。今日もそんな感じだったのだろう。先生が持っている背の高いシャベルを見ながら思う。


「君はどうして此処へ?」

「あ、特段用があるってわけじゃないんですけど、先生の姿が見えたのでなんとなく」

「嗚呼なるほど、俺に会いに来たというわけか」

「いえ全然違いますけど、大変ですね先生、結構しんどいでしょう?」


額をしっとり濡らす汗を手の甲で拭いながら言う。けれども先生は「いや、」とかぶりをふってシャベルを地面に勢い良く突き刺した。


「そうでもないぞ、結構楽しいものだ。ミョウジさん、君は花は好きか?」

「花ですか?まあ、普通に」

「そうか。ここの百合は育ちがいいんだ。肥料に特別なものを使っているからな。良かったら持っていくといい」


そう言って先生は私の返事をする前に鋏で百合の花をひとつぱちんと切って、私のスカートのポケットに押し込んだ。ええ…。


(割りと強引だなあ…)


白く瑞々しい花弁が狭い制服ポケットの中で押しつぶれてしまわないように気を使いながらそこを上から撫でてみる。先生は得意気にふふんと笑って「気にするな」とか言っている。どうやら彼には私がこの百合の花を欲しているように見えていたのだろう。そう思うとなんとなく突っ込む気も失せてしまって、「ありがとうございます」と貰っておくことにした。


「じゃあ私、そろそろ帰りますね。さよなら」

「ああ、またなミョウジさん」


来た時と同じようにひらりと手を振り返す先生。それを見てから私は、校門をくぐった。


それからバスに乗って、20分ほど。お目当ての場所についた私はショッピングモールの前で待っていた。時間は5時10分過ぎ。待ち合わせは5時ジャストだ。目の前を通りすぎてく人の群れに私と同じセーラー服を探してみるけど、みみ江ちゃんの姿は見当たらない。


(どうしたんだろ)


念のためLINEも見てみるが、通知はなし。今日は元々バレー部のミーティングがあると言っていた。すぐに終わると言っていたが、もしかしたら長引いたのかもしれない。
私は気を取り直して空を見上げた。さっきまで明るかった空は、もうそろそろ群青色に染まろうとしていた。


(まあ、その内くるよね)


そう思って携帯をいじりだす。

けれど。


何十分経っても、何時間経っても、その日みみ江ちゃんが現れることはなかった。




◇◇◇




次の日。私は学校への道を歩きながら昨日のことを考えていた。


(みみ江ちゃん、昨日なんかあったのかな…)


結局、あれから二時間まってもみみ江ちゃんがやって来ることはなかった。私は約束をすっぽかされた方への怒りというよりも、なにかあったんじゃないかという心配の方が大きい。取り敢えず自分のクラスにはいる前に隣のみみ江ちゃんの方見に行ってみよう。と思いながら階段を上がっていく。と、見慣れた赤いジャージが目の前に降りてきた。


「よっ!おはようさん」

「あ、おそ松先生…」

「ミョウジさん今日は遅いんだねえ。それになに、シャンプー変えた?もしかしてカレシでもできたの?」

「いや違いますよ!」


にやにやと下世話な笑みを浮かべてからかってくる先生に内心呆れる。ていうかなんでシャンプー変えたって分かったんだ。この人こういうことしてるから他の先生達に睨まれるんじゃないかなあ。
松野先生たちは生徒たちからはかなり人気があるけど、中には嫌な顔をする古株の先生たちもいるう。本人たちは何処ふく風といった感じだけど、見るこっちはハラハラするものだ。


「で、なんでミョウジさんそっち行こうとしてんの?俺らのクラスも一個上だけど」

「ああ、えっと、橘さんに用があって」

「たちばな?」


日誌で自身の肩をこつこつ叩きながら訪ねてきた先生にわけを説明する。と、先生は不思議そうな顔で首を傾げてみせた。


「そんな奴ウチの学校にいたっけ?」


「…え、」

「あ、もしかして他学年だったりする?そんなら俺知らないかも。担当してんの二年だけだし」


そんなことを言いながら先生は私を見た。茶色がかった黒の瞳はなにもおかしなことなど言っていないという風に私の目を見返してくる。いや、いたっけっていうか、


「先生去年の担任で橘さんのことも見てたじゃないですか。それに同じ運動部系だからなにかと話すことも多いって、」

「?いや、ちょっと分かんねえけど…」


先生は首をふる。どういうこと、だろうか。みみ江ちゃんは去年確かにおそ松先生が担任しているクラスにいたのに。そう思って口を開こうとして、けれど私のそこは先生の骨ばった手によって遮られた。ひらりと振られる。


「ミョウジさんさ、寝ぼけてんじゃないの?」

「いや、そんなこと――」

「あ、予鈴鳴っちった!」


あるはずない。そう抗議しかけた私の言葉を遮るように鳴った予鈴のチャイム。それを聞いて慌てたように先生は私の腕を掴んできた。ひんやりとした体温が肌をつたう。


「その話は後から聞くから今は取り敢えず教室いくぞ!」

「え、いやあの、ちょ、っ」


そのままダッシュ。背丈が違うのとバスケ部の顧問もやっているおそ松先生は足が早くて、ひょっとするともつれそうになる。まるで陶器に触っているかのように冷たい先生の手を感じながら、私はなすすべもなくその場を後にした。



◇◇◇


「え?みみ江?誰それ?」

「え、」

「そんな子うちのクラスに居なかった思うけど…」


開いた口が塞がらないとはまさにこういうことを言うのだと思う。今しがた告げられたみみ江ちゃんと同じクラスの友人の言葉に私は目眩がしそうだった。みんななにを言ってるんだろう。


(みみ江ちゃんは、どこにいるの…!)


クラスの名簿表、机、ロッカー。そのどこにも橘みみ江の名前はなくて、かつて彼女が使っていたはずのロッカーはなにも入っていなかった。どくり、心臓が変な音を立てる。
怪訝な顔で私を見上げる友人にお礼を言って、私は教室を後にした。頭が痛い。湯だったように深く物事を考えられない。なぜかさっきから頭が熱いのだ。靄がかかったように不透明で掴めなくて、思考が解けていってしまう。ふらつく足で体をささえて、私は廊下を歩いて行った。


「どういうことなんだろう…」


誰に聞いても皆知らないという。まるで私がおかしなことを言っているという風に、「なに言ってるの」と肩をぺしぺし叩かれた。違うのに。私は嘘なんて言ってないのに。喉までせり上がってきた思いを誰かに伝えたくて、吐き気ががする。おぼつかない足取りで廊下の角を曲がろうとした時、誰かとぶつかった。


「、すみませ、」

「ナマエちゃん、って、どうしたの!?顔真っ青じゃない!」


肩を誰かに支えられる。汗で額にはりついた前髪の間から覗いた先にあったのは、トトこちゃんの顔だった。「あ、」唇がよく動かない。震えるように吐息を吐き出す私を見てトト子ちゃんは焦ったように私の腕を引いた。
つかつかと歩いて行くトト子ちゃんになすがまま連れて行かれる。何段目かの階段を降りて、着いた先はトト子ちゃんのクラスだった。


「…ねえ、ナマエちゃん、なにがあったの?」


心配そうにトト子ちゃんが顔を覗き込んでくる。売店で彼女が買ってきてくれた水を一口飲んで、私はその顔を見上げた。あたまが、あつい。


「あの、あのね、トト子ちゃん。……みみ江ちゃんって、誰か、わかる?」


恐る恐る口にした言葉。指はつめたく震えていた。また、知らないと言われたらどうしよう。
けれどトト子ちゃんの言葉はその心配を杞憂に終わらせた。


「?え、ええ分かるもなにも、あなたの友だちの橘さんでしょ?」


今度こそあんぐりと口が開いた、そして胸を満たす安堵感。私だけじゃないんだ、ちゃんとみみ江ちゃんのこと知ってる子、ちゃんといる。


「あのね、トト子ちゃん!」


トト子ちゃんの華奢な肩をがっと掴む。びっくりしている彼女の表情にも構わず、私は矢継ぎ早に今ままでのことを説明した。


◇◇◇


「…そんなことが、でも、みみ江ちゃんがいないなんてそんなの、嘘でしょ!?」

「そうだよね、そう思うよね…!…よかった、分かってくれる人がいて」


潤んだ視界で私と同じように嘘でしょう、と言っているトト子ちゃんを途方も無い安堵感に満たされて見る。顔がさっきよりも熱い。まるで高熱でもあるようだった。
じんじんと疼く頭を押さえながら痛みに耐える私に、トト子ちゃんは考えるように難しい顔をして、そしてそっと口を開いた。


「あのね、ナマエちゃん、私昨日、ナマエちゃんが出て行ってからみみ江ちゃんに合ったのよ」

「、!そうだったの…!?」

「ええ。その時はみみ江ちゃん、別にいつも通りだったのよ。あなたとの約束があるから行かなきゃって私に言って、階段を降りていったわ。でもその時にね、」

「…その時に、なに?」


トト子ちゃんが言葉を切った。悪い予感が胸をよぎって、知らず私の言葉も震える。トト子ちゃんは迷うように視線を落としてから、もう一度私を見た。


「保健室にね、カラ松先生のところにいくって、言ってたの」



「カラ松せんせい…って、あのカラ松先生?」

「そう。足挫いたから湿布はってもらいたいからって」

「足…」


カラ松先生って、でもあの日先生は百合の花畑に、


(……花、畑?)


その時私の頭には、まるで映像のようにあの時の光景が流れ込んできた。百合。カラ松先生。そうだ確かにあの日先生はあそこにいた。一松先生に言われからって。でも、でも、


(あのシャベル…)


百合は花だ。根を張っているだろうから掘り起こすなら確かに大きい方がいいけど、でもあんなに大きなやつじゃなくてもいいのではないだろうか。あれ、あれは、



『特別な、肥料』



「、ミョウジちゃん!?」


私はその場から立ち上がった。体が熱い。でも足は勝手に動き出そうとしている。


「ごめんトト子ちゃん、わたしちょっと行ってくる!!」



◇◇◇


真っ白な百合の花弁をかき分け、昨日先生と話していた正門前へ急ぐ。足に絡みつくように茂るそれらを蹴飛ばす勢いでたくさん走って、やっと着いた。


(……カラ松先生が、そんなことしたなんて思ってないけど、)


でも、気になって仕方がなかった。その場にしゃがみこんで両手で土の表面をかく。端から見たら気狂いのようなのだろうが、喉に引っかかったこの嫌な疑問を解消するにはこれしかなかった。脳裏に先生の優しい笑顔が思い浮かぶ。先生に対してこんな疑問、持ちたくないよ。
一刻も早くこの不安を消し去ろうと土を土を掘り起こす。そうし続け数十分が経過した頃、なにかがちゃらりと音を立てた。


「…」


誰もいない中庭で、その音はやけにクリアに聞こえた。震える指でそれに触れる。冷たい金属の感触。星を模した可愛らしいデザイン。それは、それは、あの子のヘアピ、


「がッ…!!?」


瞬間、首裏に叩きつけられた鈍い衝撃。謎の熱によって疲労しきった体はその攻撃に抗う暇もなく荒らされた百合の花の上に落ちていった。



◇◇◇




「起きたか」


男の顔。茶色がかった黒の瞳、意思の強そうな眉だけどどこか童顔で、まとう消毒液の匂いと白衣で彼が誰かなんて遠目にみてもすぐ分かる。カラ松先生は私の顔を上から覗き込みながらにっこりと笑っていた。


「…せん、せい、」

「一松にな、叱られてしまったんだ。まあたしかにさっきのことは俺の不祥事だったんだがな、どうだナマエさん、学校の七不思議のひとつ、"百合の花の下には死体が埋まっている"を体験した気分は」


軽やかに告げられた言葉に背筋が寒くなるようだった。…ああ、ああ、



「じゃああのヘアピンは、」

「星の形を模した物だろう?橘さんのだよ。なるだけ早く分解される方が良いからな、服はすべてこちらで燃やしてしまったんだがあれは残ってしまったようだ。昨日チョロ松から叱られたよ」


ちゃんと燃やすだけの形にしてろって。なんというかあいつはしっかりしていてな、家でもそうなんだ。分別に凄く気を使って。そんなことを滔々と話す先生に頭が痛くなる。ああ、どういうことなの、ほんとうに、どうして。夢のような、いや夢ならよかった。こんな、こんな悪い冗談。

ずるりと力なくベッドによろめく私をカラ松先生は見やった。そして、ふふん。またあのどこか得意げな笑いを笑みに浮かべて変なポーズをとった。「そしてだな、ミョウジさん」


「君は今から、7つ目の不思議と出会うことになる」


するりと、純白の白衣に手を突っ込んで。そこから取り出したのは白衣と同じ穢れのない色。白い百合。


「この間家でブラザーとテレビを見ている時にやっていたんだ、やって来た獲物に毒を塗った食物をやって、暫くしてから弱ったところを捕獲するという話。あんまりこういったことには慣れていないんだが、まあそうだな。成功したようだ」


そう言って、私を見た先生の瞼の合わいから存外長い睫毛の陰影が落ちる。日光を遮断するカーテンに包まれた空間の中で先生の肌は外でみるよりもずっと白く、そこには体温なんて宿っていないのだと触らずとも理解した。凍りついたように体が動かない。まるで誰かの命を水の代わりに吸い取っていたのだとでもいうような昨日、ポケットにねじ込まれた花とそっくりな百合が、長い指に弄ばれるようにくるくる動く。私の、いのち。


「せん、せえ」


ギシリとベッドが軋む。スキニータイプのジーンズに包まれた先生の脚の重さの分だけ布団が沈み込んで影が出来る。後ずさろうにも体がいうことを効かない。逃げなければいけないと分かっているのに脚が動かない。精一杯開いた口からは震える声だけがもれる。ぴたり。そうしている間に冷たい先生の指が首筋に押し当てられた。そのまま太い血管が通る場所をつう、となぞられる。まるで小型の蛇にでも這われているかのようだった。するりと胸元のリボンタイが抜かれる。無防備になった首元に絡みつくように這う指は、手は、リボンをとったことによって緩んだ襟をそっと取り払っていく。やさしい仕草で。いやだ、いや、無理だよ、せんせい、


「わたし、しにたくないよ、せんせい」


ろくに機能しない体からの精一杯の言葉は、か細く震えて、けれども我ながら情けなくなるような陳腐さで誰もいない保健室にははっきりと響いた。先生は不思議そうに目をぱちぱちと瞬かせる。そして安心させるように温度のない大きな手で私の頬をゆっくりと撫でて、大丈夫だ。


「少しだけ、だからな」


痛いのは。




◇◇◇



「あっ先生!」


トト子は保健室から出てきた男を呼び止めた。白衣を身にまとった、若い男。保険医の松野カラ松である。音楽の用意を持った彼女は呼び止められて振り向いたカラ松の方に走り寄った。


「おお、どうしたんだ。怪我でもしたのか?」

「いえ、あの…、」


トト子はふとそこで言葉をきった。…あれ?


(わたし、なに言おうとしてたんだっけ)


たしかにこの教師に用があって、一階にまで降りてきたのだ。しかしなぜか肝心の言葉が出てこない。
急に黙ってしまったトト子を不思議そうにカラ松が見つめる。そして問うた。


「誰か、待っていたのか?」

「誰か…」


そこで数秒、思案した。


「……いえ、なんででしたっけ」

「理由がわからないのか?」

「はい、別に私自身に怪我があるとかじゃなんですけど。…あれ、本当になんで?」


トト子は狐につままれたような気分になった。そしてなんとなく視線を動かした先に、カラ松が手にしているものに気がついた。保健室の鍵だ。


「先生、もう出られるんですか?」

「ああ、百合に水でもやりに行こうと思ってな。でもなにかあるんだったらここ開けるぞ?」

「あ、いえ、それは大丈夫です」


出て行くということは中には誰もいないんだろう。中に生徒がいるのに鍵を閉めたりなんて教師がすることじゃない。そう思ったトト子の耳に、三時間目を告げるチャイムの音が聞こえた。やばい。焦ったようにトト子はカラ松を見上げた。


「先生、私もう行かないと、」

「ああ、次は音楽なのか。それなら急がないとだな」


またなにかあったら遠慮なく来ると良い。トト子が抱えるリコーダーの袋を見やったカラ松はそう言って笑ってから、踵を返した。その時ふと、中庭の方へ向かうのだろうその大きな背が羽織る白衣に皺ができてるのが見えた。丁度肩甲骨のあたりだ。
誰かに力いっぱい爪を立てられでもしたかのように皺がよったそこを、不思議な気持ちでみる。先生、いつもちゃんとアイロンかけてるのに。
そう思ったトト子の鼻を、ふわりと翻った白衣から立ち昇った百合の匂いが擽った。甘い匂い。あの中庭にいやというほど咲いている百合の花の匂いだ。カラ松はいつもこの匂いをさせている。けれどなぜかその中に、今日は嗅ぎ慣れない匂いが混ざっていた。甘酸っぱい、どこかで嗅いだような香りだ。オレンジに似ている。


(…?なんだろう)


違和感を覚える。けれど、首を傾げたトト子の耳に三時間目の開始を告げるチャイムの音が聞こえた。!!


「やっば…」


遅刻はさすがにまずい。紺色のスカートを翻して、トト子はその場から走っていった。庭へ行った保険医とは、別の方向へと。