置き去りボーンブラック






やだ、やだやだ怖い。なんで、なんで追ってくるの。なんで私なの。早く家に帰りたい。だれか。だれかたすけて。



チラリと一回だけ後ろを振り向いた時に立っていた、黒いダッフルコートのフードを深く被った人。顔まではわからなかったが、白い軍手を付け、片手には街灯の光に反射して光るナイフを手に持っていた。最近噂になっていた通り魔だった。
残業してしまって早々に帰りたい一心で、人気のない道を通ってしまったのが運の尽き。これも私の不幸体質が招いた結果なのか。私は生まれながらに普通の人よりも不運に見舞われる回数が目に見えて多かった。

走り出してしまいたいけど、そうしたらあっちも走って追いかけてくるだろう。今は女を象徴するハイヒールはこういう時に裏目にでる。これではまず逃げ切れる訳がない。カツカツとした音は静寂に包まれた深夜の住宅街によく響いた。そんな私を嘲笑うかのように、通り魔は私と歩くペースを合わせ一定の距離を保ちついて来ていた。
それが嫌で怖くて涙目になりながらも、脳裏に浮かぶのは両親、女の友達、そしてチョロ松君だった。


もう覚悟を決めるしかない。あの曲がり角を曲がったら、ハイヒールを脱いで裸足で全力で走って……
そう心の中で決心しようとしたその時、突然、バタバタと素早く地面を蹴る音が聞こえた。通り魔がこのタイミングで走って一気に距離を詰めてきたのだ。ヤ、ヤバい。先手を取られてはもう間に合わない。それでも抗おうと私は反射的に走り出したが、悪魔の足音は既にすぐ後ろにまで迫っていた。ほろりと、自然と涙が零れた。もう駄目だ。相手の片手が私の肩を強く掴んだ感触に、覚悟を決めた。


「ナマエちゃん!!」


誰かに名前を叫ばれた。
その瞬間、通り魔は突如喉を潰したかのような野太い呻き声を上げ、パッと手を離した。ドサッという音が聞こえ、思わず立ち止まって振り返ると、なんと先程襲おうとしていた通り魔が地面に倒れていたのだ。

「え、えっ………、どういうこと?」

突然の展開の移り変わりに頭がついていかず混乱していると、ふと、伏した通り魔の足元に別の人間が立っているのが視界に映る。ゆっくりと視線を上げると、そこには追われている時に脳裏に浮かんだ、先程私の名前を呼んだ彼が佇んでいた。

「チョロ松くん…….!」
「よかった、間に合って」
「助けてくれたの?あ、あ、ありがとう…!」
「怖かったよね。ごめんね遅くなって」

チョロ松くんは口角を上げ私を安心させる笑みを浮かべる。知っている人がそこに居るという状況に、張り詰めていた緊張が一気に緩んだ。脳裏に芽生えた様々な疑問を感じつつ、涙で濡れた目元をゴシゴシと拭いた。


瞳を閉じていたのはほんの僅かな瞬間だったと思う。けれど、瞳が彼を視界に入れた時、チョロ松君の姿は一変していた。わたしはパチパチと瞬きを繰り返した。


白シャツの上に緑パーカーを着たいつもの姿はどこへやら。このまま闇に溶け込んでしまいそうなほど黒に染まった大きめのローブを羽織っており、フードも深く被っているため顔には半分影がかかっていた。なにより、いつものチョロ松君とは雰囲気が違う。まるで別人かのように。心なしか、彼の周囲にはもくもくと黒い霧が纏っているような感覚に陥った。
チョロ松くんの姿を見れば見るほど、何故か心がぞわぞわと不安な気持ちに包まれる。お酒を飲んだわけではないのに、ドクドクと心臓が慌ただしく波打っていた。ふざけたコスプレ?と笑い飛ばせるほどそういう空気ではない事を察した。


「……チョロ松、くん?そ、その姿は」
「なんで此処にとか、どうやってこの人を、とか思ったよね。それは、まず僕は人間じゃないからだよ」

その見るだけで不安な気持ちに包まれる姿は、まさに死神。

「日にちが変わる今日の宵時、ナマエちゃんの魂を冥府に送り届けるため僕はナマエちゃんに近づいたんだ」

彼との過去の様々な出来事を記憶の引き出しから引っ張り出す。携帯を見ながら歩いていた私が自動車と衝突しそうになった所を彼がが引っ張ってくれた事。それが、私とチョロ松くんの最初の出会いだった。

「人間の死期は何時この時間というのが全て決まっているんだけど、何かの歪みでそれが早まったり遅まったりする時がある。君の場合は早まっていたんだ。因果律を破らせないように、今日この時までナマエちゃんをあらゆる障害から遠ざけていた。こんな風にね」

うつ伏せで倒れた通り魔を一瞥しながら淡々と言う。つい先程まで執拗に私に迫っていた人間は、もうピクリとも動かない。

混雑した駅のホームで押されたり、階段ですれ違う人とぶつかって落ちそうになった時など、命の危機に瀕してた時に不思議といつも彼は側にいて助けてくれた。何故気づかなかったのだろう。全て、それらは彼のお陰だったんだ。

「私は、死ぬの?」
「うん」
「絶対に?」
「決められた運命には逆らえない」
「……そっか」

嘘のような信じられない話だが、今まで二十数年間生きてきた出来事が走馬灯のように次々と脳裏に浮かんでは映り変わっていく。

「君は生まれながらの天性の不幸体質だった故に、歳を重ねるごとに身に降りかかる危険度は上がっていってたんだ。自分でもそれはなんとなく気づいてたでしょ?」
「………うん」
「漸くその苦しみから解放されるんだよ。なら良かったじゃん」
「じゃあ、今日までチョロ松君は私が死なないよう護ってくれてたんだね。ありがとう」
「……は?」

何を言ってるんだこいつ、と言わんばかりにチョロ松君が目を丸くし眉を吊り上げる。

「なんでお礼を言われなきゃいけないの?今日、僕はナマエちゃんを殺すんだよ」
「確かにそうだけど、もしその前に死んじゃってたらこんな風にチョロ松くんと喋ったり遊んだりはできなかったじゃん」
「だから、それは今日のために…」
「わかってるよ。これくらい言わせてよ」

そう口にすると彼はそれっきり何も言わなかったが、眉間に皺を寄せ、細い目をさらに細める。チョロ松くんは今何を思い、何を感じているのだろう。結果的に彼を困惑させてしまったな。でも、これは紛れもない本心だ。


いつの間に手にしていたのか、漫画でしか見た事ないような鋭利な大鎌を持っていた。チョロ松くんが木製の柄をギュッと握りなおす。ゆらり、その拍子に、月の光で齎された三日月の刃の影が揺れた。

ボロボロの袖から覗いた両腕は、人間に纏われている筈の肌色の皮膚が無く、不気味なほどに白い骨だけが残っていた。いや……本来の姿に戻った、と表現すべきなのだろう。

大きな鎌が勢いよく、風を切って私に向かって振り下ろされた。その瞬間、やっぱりもう少し生きたかったかも、だなんて思ってしまった。今更そんな事考えても遅いけど。
確かに鋭い刃先が私の体を貫いたが、何故か皮膚を切り裂かれていないし血も流れない。変化していないのに困惑していると、

「うっ、?」

突然、一気に全身の力が抜け落ちる。支えられなくなった体は、その場に仰向けに倒れた。重力に従い強くアスファルトに叩きつけられたのにも関わらず、なんの痛みも感じない。視界いっぱいにオレンジがかった、夜明けの空が広がった。しかしすぐに瞼が下り、真っ暗な視界に覆われる。


「……ナマエちゃん。最期は僕の手で、終わらせられて良かった。君を惑わすような、救いようのない現世とはもうお別れだ」

そんな事はないよ、チョロ松君。この世界だって、楽しい事は沢山あったよ。貴方に出会えたように。


「……そう、それは良かった。僕も、楽しかったよ」


私の最期の魂の訴えはどうやら彼に聞こえていたようだ。嬉しい。心の中で私は微笑んだ。