ざくざく。不安定な足場を踏みしめ少女は歩いていた。白い靴下は泥だらけで所々茶色になっているし、濃紺のセーラー服も泥や葉だらけで清潔感の欠片も無かった。暴漢にあったのかと通報される程なにやら大変なことになっているのだが、それでも少女はひとり歩く。周りには誰も居やしない。
此処は神が居るからと、人っ子ひとり居ない禁則地とされているからである。
10分ほど歩いて、苔が目立つがたがたの石階段が見えて来た。石階段がずらりと積み上げられている。この上を行けば鳥居があり、神社もある事だろう。一歩一歩踏みしめて上って少女は息も絶え絶えにやっと最後の階段を登り終える。うわさの神社とやらが目の前にぽつんと建っているのを確認して、道の真ん中を通らないよう、そのまま左側を歩く。神様とやらに無礼が無いようと教えられてきたそれを律儀に守った。
しかし、マナーがあったのはそこまでで少女は鳥居の近くまで行くと足を止める。そしてひとつのライターを取り出した。かち、指で錆びだらけの金具をこすってみる。ひだまりのように暖かなそれは、広がっていく前に消えた。 もう一度、家から持って来たライターを慣れない手付きで少女がカチカチと擦っては、ぽうっと灯ったその小さな火を木の柱に持って行く。しかしそれもまた、水を掛けられもしていないのに自然に消えて行く。吸い込まれていくようにも見えた。
もう一度、もう一度。ライターの扱いが分かってきた所で自然に火を灯せるようになった少女はまた光を灯した。
「罰当たりなコだねぇ、鳥居に放火なんてさ。」
親指を離したところでカチ、と小気味のよい音が鳴り火は消える。今度はパッと無くなるような消え方だった。 それを確認すると、すぐ傍の木から慣れた様子で飛び降りるモノが居た。木は、神社の周りには数え切れないほどある高いたかい杉の木のうちの一本だった。あれだけ高い木から飛び降りたのだ、人では無いだろう。では何だ?
落ち葉を無遠慮に踏みしめ近付いてくるのが音だけでも分かったので、そのまま手元のライターを見つめた。ナマエは元から天狗とやらを冷やかしに来たのでは無い。
ふわりと大きな羽が少女の頬をくすぐる、野鳥にしては大きすぎるそれをナマエが掴むと、その手のひと周りも大きい事を知った。これが、こいつの。
「天狗様は火が好きだって聞いた。」
反省の様子もない放火魔はぽつりと言う。
「だからって放火魔になっちゃうの?そんな悪い子は、神隠しに遭っちゃうよ。
それとも、今の子は知らないの?」
がさがさ、落ち葉の呻きがすぐ足元でする。硬くて重みのある棒が肩に押し付けられるのを感じて横を向けば、年季の入った赤が映える鼻高天狗の面があった。無反応を貫いていると面白くなかったのか、ぐいぐいと鼻の部分をまたナマエの肩に押し付ける。
そいつはすぐ背後にいた。
「良い子はならないんだ?」
「いんや、そうでも無いけどね。」
にひひ。悪巧みをするような声が耳をくすぐるのでナマエは身を捩る。どんな顔か、表情かは、やはり鼻の高い真っ赤な面を付けていてわからない。抽象的な天狗面だった。
天狗とは善と悪の両方を兼ね備えている神らしい。
諭すふりして悪い声を漏らすそいつは威嚇のつもりかバサリと、背に引っ付いているそれはそれは大きな羽を広げてみせた。それが少女には、悪魔のように見える。こんなやつがこの村では火防の神と讃えられている…。
眉間のシワをほぐすため人差し指を添えた。
「神隠しって実際なにするの。」
「え〜、さあ?」
「さあって?なに。」
「だってしたこと無いんだもん。知るわけねーじゃん。おれ童貞だし。」
「どう、…」
どうていってなんだ。
いや、意味は分かっているが、神様にも貞操観念という生々しい事情があるのか。話を聞く分、どうやら彼にとっての神隠しとは不純なものらしかった。そしてそれは神によって解釈や常識はそれぞれ違うらしい。
それより、こいつは、神隠しをしたことがないと言った。それが本当なら。彼は。あの人は。
「ほんとうに天狗様?」
目の前で鳶に似た羽をばたつかせて遊んでいるそいつを訝しげにじろりと見ると、そいつは高い下駄で石を蹴り、それを上へ上へと飛ばした。カラン、良い音が鳴り重力によってまた落ちてくる石を、持っていた葉扇子を軽く振ってぶわりと浮かせてみせた。扇子によって操られた風向きは下から上へ上へと向きを変えられる。 もしかして、今までも急に変な風が突如吹いていた原因はこいつかもしれないなぁ、と神様の気まぐれを見てナマエはぼんやりと思う。しかし急に風が舞い上がったので落ち葉たちはそろって舞い踊り出した。
吃驚したナマエが咄嗟に目を瞑ると楽しそうな声が聞こえる。
「おっ白いパンティー!」
町でずっと讃えられていた大天狗は、とんだスケベ野郎だ。
「いっ、てぇー!」
少女に回し蹴りをキメられた天狗は横腹を抑えてぴょんぴょんと跳ねた。上下する度下駄がカラカラ、と転がっている石に当たり音が鳴る。下駄の音だけだと今にも祭り囃子が聞こえてきそうなのに、とても滑稽だ。
そして私は、以前“彼”から教えてもらった昔話を思い出す。あれは、彼が居なくなる一週間前。村の祭前に会ったあの時のこと。
その昔、この村には親どころか村中の、手の掛かる悪ガキがいたそうだ。その悪ガキは世にも珍しい六つ子で、いつも兄弟揃ってはそのそっくりな顔をいかに悪戯に使えるか競っているように毎日を暮らしていた。そんな事ばかりしていたので、いつの間にかその六つ子兄弟の物珍しさより悪評ばかりが村中に広まっていた。いくら経っても治まるどころか悪化するその兄弟の悪巧みに被害を被った村の人達は、「これではいけない」と、堪忍袋の緒がとうとう切れてしまう。そして、その兄弟の長男ひとりを寺に預けた。六つ子全員を寺に預けなかったのは、六人揃うとまた寺でも悪さをするからだった。
「その長男はお坊さんに?」
「ああ、偉いお坊さんになったんだと。」
そいつは私から貰った饅頭を咥えてゆっくりと咀嚼した。
ごくりと男子の喉仏を上下するのを見送ると、ナマエは自分の手元にまだ残っていたヨモギ饅頭を一口かじった。「しけてんな。」祭りなのか、饅頭なのか、それとも両方か。隣の彼はぼんやり呟いた。もぐもぐと咀嚼しながら手元を見ると、中に詰まっているはずのケチられた、僅かばかりのあんこがようやく姿を現す。「今年、村長が亡くなって、今息子さんが仕切ってんだ。」彼は祭りが特に好きだったようなので、咄嗟に出た言葉がそれだった。「へえ。」ぼんやりとした声が聞こえる。ああ、フォローにもなりやしなかった。
がっかり、しないでよ。ねえ。私は話題を変えようとする。
「ねえおそ松くん。それで、そのお坊さんはどうなったの」
私の問いにはおそ松くんがにやりと悪い笑みを浮かべただけで、答えなかった。
松野おそ松。彼はいつも一人で私の前に姿を現した。そしてそれは決まって私が一人の時だった。そんな彼の出生や家はこの小さな田舎だというのに分からないまま、彼と知り合って数年が経った。彼は私よりも年上のようだったが、いつもふらふらと遊んでいるプー太郎で口癖は「一生遊んで暮らしたい」だったので、きっと無職なんだろう。そんな彼と会わなくなって早1ヶ月。村の人達に彼を知らないか、と尋ねても誰一人知っている人は居なかった。あれだけこの小さな村を歩き回っていた彼が、知られていないのである。
風がまたヒソヒソと話し出すように木の葉たちを揺すった。だんだんと迫り来るように大きくなっていく音が余計にナマエの不安を掻き立てた。少女は、焦っていた。こんな奥深くの山まで来てしまった。渇いた喉を潤すため申し訳程度の唾液でごくり、と無意識に飲み込むと、張り付くのが分かる。
「あなたがおそ松くんをさらったの?」
天狗が固まる。この反応は、 とナマエが思考を巡らせていると目の前の天狗は予想と反して肩を上下に揺らし笑い出した。神頼みしに来たというのに、まさか。
「なに、笑ってんの」
くつくつ、と笑っている目の前の天狗を、呆然と少女は見た。まさか、まさか。本当に。
「べっつにー?」
「おそ松くん、かえしてよ…。」
ぽろぽろと泣きだすナマエを天狗は面のむこうがわから見た。セーラー服には一滴染み込んではまたぽたりと涙が落ちていく。紺色の制服がじわじわと濃くなっていくのをただ見ていた。
「う、うわあん」
「えっ!?」
とうとうナマエは声に出して泣き出した。
先程まで無反応を貫いていた彼女がこんなにも泣いている。心が叫んでいる。
天狗は彼女から流れてくる心の声に戸惑いを隠せない。感情が止め処なく溢れている。この少女に感情を揺さぶられているのだと気付く。天狗は六神通のひとつである他心通が出来て助かった事は山ほどあるのに、困った事など一度もなかった。
しかし、今はどうだろうか。
「お、おい、泣きやめよ、ナマエちゃん…。」
そうっと無骨な手が、濡れた頬を撫でる。こういう時どうすれば良いのか天狗にはちっとも分からなかったが、涙を拭えば少女が落ち着くのでは無いかと思った。
恐る恐る濡れた頬をさすりと触れた。人の肌など触ったことが無いように、天狗は手の平をすこし押し付けるようにしては伝っていく涙を追って捕まえた。
あ、この手知ってる。
必死に泣くのを堪えているのは分かったのだが、どうにもまだ感情が高ぶっているらしく彼女の心のこえが聞こえてくる。聞いている限り、彼女は松野おそ松がいないと駄目らしい。それが率直で素直な言葉になって天狗には延々聞こえてくるのだからくすぐったくて仕様がない。それはまるで麻酔のように天狗の思考を固まらせた。もう何度目か分からないおそ松くん、という名前を聞いて天狗は「わかったわかった!」と頭を抱えて叫んだ。
ああ!くすぐったい!
「俺が、俺がなんとかするから!」
「……ほんとう?」
「だがしかーし、神頼みには必要なもんがあるだろ」
「……いけにえ?」
「物騒だな!」
ほら神様大サービスと言って出されたのは、先程まで自分の頬を撫でていた天狗の手。ナマエはわけが分からずその手の平をじっと見つめてから相変わらず表情が読めない天狗の面を見る。すると、天狗はまた調子を戻して宣った。
「お金ちょーだい!酒でも可!」
やけに貪欲な天狗に、ポケットをまさぐった末、ナマエは10円を手渡した。
先ほどとは打って変わってうきうきと石階段を下りてゆく少女、ミョウジナマエの後ろ姿を見ながら天狗は面を外した。
厚い面に隠れていたその耳と頬は、面に劣らずむしろ面よりも鮮やかに朱に染まっている。なにやらむず痒いので頭を掻いてみるもののくすぐったさは止まない。はぁ、と息を吐き出して真っ赤な空を見上げると鴉が気持ちよさそうに飛んでいるのが見える。「無責任な子だなあ。」呟いて彼は地を飛び立っていった。羽がまたふわりふわりと左右に揺れながら落ちる。
「あれ、わたしの名前、何で知ってたんだろう。」
ただひとつ。少女に残った疑問は、あの天狗面とおなじくらい真っ赤な夕焼け空に溶けていった。これだけ空が赤いのだから明日は今日より晴れるだろう。
少女は、行きよりずいぶん長く感じる帰路を足早に急いだ。
「_では次のニュースです。○月△日、□□高校のミョウジナマエさんが行方不明になり現在捜索中です。服装は紺のセーラーに、白い靴下。最後の目撃情報は午後5時頃で..._」