笑わないで聞いてほしいのだけれど、僕は魔法使いだ。
決して30歳過ぎても童貞だから魔法使いになった、とかそんな理由ではない。というかそもそもまだ20代だし。
生まれた時から魔法の力が備わっていた。白魔法だとか黒魔法だとか詳しいことは分からないけれど、とりあえず何でもできるオールマイティな魔法。行きたいところに瞬間移動できるのは勿論、欲しい物をぽんぽん出したり、人の心を操ることも容易くできてしまう。望めば世界征服だってできてしまうだろう。
普通の人はきっとこの力を羨ましがって、欲しがるはず。だって何でもできるのだから。
でも僕はこの力を使わない。
その理由は、魔法使いである者だけが抱えるジレンマによる。
何事も思い通りになる人生というのは、至上の幸福に思えて至上の不幸なのだ。つまらないこと極まりない。失敗も挫折も無い日々――そう、まるで子供が思い描くような。もっと分かりやすく言えば、ゲーム。失敗したら、やりたいところからやり直し。魔法でも同じことができる。時間を巻き戻すことも可能なのだ。
しかしそんなもの、やっぱりダメなんだ。そりゃ、幼い頃は「ラッキー」だと思っていた。でもだんだん虚しくなってくる。僕が魔法を使うと、その先が変わる。つまり、自分の運命だけでなく誰かの運命まで変えてしまうのだ。そんなの、こっちだって良い気持ちはしない。許されないことだ。魔法を使ってしまった後で心に満ちるのは後ろめたさとかだけ。
その内、皆と同様の日々を送りたいと思い始めた。その方法は簡単で、ただ僕がこの力を使わなければいい。
使いたいけど、使いたくない。
そんな訳で、僕は今日まで"普通"の日々を過ごしている。
*
「やっほー、チョロ介」
「チョロ介って誰・・・・・・。次から次へと変なあだ名付けないの」
「ふふっ、こりゃまた失礼致しました!」
てへ、と頭に丸めた手をコツンとしてぺろっと舌を出すのは、僕の幼なじみ。彼女の名は、ナマエ。
今、家の前でばったり出会った。今日の彼女はレディーススーツではないしこんな真昼に外にいるから、きっと仕事は休みなのだろう。聞けば案の定頷いた。
彼女の家はもう少し先にあって、ここからあと三分くらいかかる。
「これからどこ行くの?」
「うーん、特には決めてないの。ふらっと散歩したくなってさ」
すると彼女は思いついたように「あ」と口を開き、
「ねえ、チョロ松の家上がっていってもいい?」
「家? ああ、うん、いいけど――」
珍しく今は誰もいない。でも、何で・・・・・・と聞く前に彼女が答えてくれた。
「最後にチョロ松の家にお邪魔したのって、確か小5の時だよね? 久しぶりに行きたいなーって思ってたの」
また一緒にボードゲームしたいな、とその時のように幼く笑う彼女。――僕が昔から好きな笑顔。もっと言えば、彼女・・・・・・ナマエそのものが好き。
そんな長年温めていた想いが溢れそうになるのを抑え、彼女と一緒に家へ戻った。
「わあ〜! 懐かしい〜!」
僕の部屋に入るなり、きょろきょろと見渡しながらそう感動したように叫ぶ。
一方僕はそんな彼女の横顔を見つめていた。やっぱりもう大人の女性だからというのもあるけど、昔と比べたら随分色っぽくなったな。化粧も上手になったし。
思わず見蕩れていると、
「ホント潔癖症だよね、チョロ松。相変わらず無機質な部屋」
そう言われ、にひひ、と今度は悪戯っ子な笑みを浮かべられた。「悪かったな」と目を細めて返し、僕も改めて部屋を見渡す。
窓辺には一人用の木製テーブル、緑の座布団。その反対側に白い本棚と箪笥。そして、にゃーちゃんのグッズが入った段ボール。あるのはこれくらいで、床にはそれらの家具以外何も無い。埃も全然溜まっていない。僕からしたらこれが普通というか落ち着くけど、他の人から見たら綺麗すぎるのだろう。
逆に他の人から見て普通の部屋は、誰の部屋だ? おそ松兄さんのは全然掃除とかしてないから汚いし――所謂「汚部屋」というもの?――、カラ松のは自分のポスターとか変なものが貼ってあったりするし、一松のはよく猫を招き入れるから床には常に毛が散乱しているし、十四松のはバッドとかボールとか「また明日使うから!」って置きっぱなしだし・・・・・・、多分トド松の部屋かな。あいつ女子力高いし。
それはさておき。
まず始めにオセロをしながらお互いの近況を報告し合った。
「どう? 仕事は」
「もちろん順調だよ。もうすっかり後輩にちゃんと教えられるようになってさ」
「ナマエが?」
「何よその顔ー。――はい、角いただきっ」
「あ」
しまった、会話に夢中で集中していなかった。あっという間に3つ目の角を奪われてしまう。
後悔の溜息をついていると、彼女にけらけら笑われた。
そこで見返してやろうと自分を奮い立たせたが、ついに逆転することはなかった。どころか、彼女の圧勝だった。緑のマス目は白に塗れ、黒は居心地悪そうに点々と散らばっている。
「やった、私の勝ち〜」
いえーい、と満面の笑みでダブルピースする彼女が憎くもあり可愛くもあった。
そして次はウノをすることにした。シャッ、シャッ、と一定のリズムでシャッフルしていく。その時にまだ彼女が僕の就活事情について何も聞いてきていないことに気づいた。
・・・・・・やっぱり、分かるよな。まだ何の進展も無いことくらい。というか僕も就職先が決まったら彼女に報告するつもりだし。
そんな彼女の気遣いに安心すると同時に、情けなくもあった。
魔法で無理やりにでも就職しようか。――そう、何度思ったことか。
でも仮にそうしたとして、その先は? 僕には魔法の力はあっても、もっとこう、"人間的な力"が無いのだ。きっとすぐに壁に打ち当たる。そうしたら恐らくその度にこの嫌な力を使ってしまう。ずっとずっと、死ぬまで、そんな空っぽの日々を送らなければいけなくなる。
ちゃんと自分の培った力で明るい未来を切り開きたい。
なんて理想を語るだけで何の進歩も無いまま、今日になってしまった。
「チョロ松、もう十分シャッフルしたんじゃない?」
「!」
思わず憂鬱な溜息を零したところで、そんな彼女の不思議そうな声がした。
「あ、ああ、ホントだ。じゃあ配るね」
急いで気持ちを切り替え、カードを配り終える。
「う〜ん・・・・・・良いの来ないなー」
2分後。僕が緑の3を出したところで彼女は詰まってしまったらしく、今は渋々山札からカードを取り続けている。それでも色違いか数字違いしか来ないようで不満げに唇を尖らせる。
――そろそろ、彼女の恋愛事情を聞きたいな。
僕が一番知りたかったこと。今好きな人、付き合っている人はいるのだろうか・・・・・・。
不機嫌な彼女に恐る恐る問いかける。
「あ、あのさ、ナマエ」
「なーにー?」
「今さ、付き合ってる人、とか・・・・・・」
「いるよ」
「・・・・・・え?」
ピキン、と心の奥の何かがひび割れた。
「合コンで知り合った人とね。そろそろ付き合って3ヵ月くらいかな」
その瞬間、ついにそれはガラガラと崩れ落ちてしまった。同様に手からもカードがバサバサと滑り落ちた。
僕はどこかでその正体を知っていた――幼い頃から今まで秘め募らせ続けていた、『彼女への恋心』だ。
見開いた目のまま見つめた彼女の顔は照れ笑いを浮かべていて頬は薄紅色に色づき、口角も恐らく無意識の内に上がっている。僕でも分かる。これはまさに"恋する乙女"の顔、だ。彼女はさぞ幸せなのだろう。そのどこの誰だか知らない奴と愛し合っているのだろう。
3ヵ月なら、もうキスだってもっと深いことだってとっくに・・・・・・。今更気づいた。彼女が放つ色気のワケを。
もう僕が想いを寄せていた幼い彼女は、とうにいなくなってしまったのだ。
もう彼女は他人のものなのだ。
目の前にいる彼女はもうかつての純情無垢な少女ではない。
10年間募らせてきた一途な恋心が、この始末だ。
頭がぐらぐらする。痛い。心も内臓も、全てが抉られるようだ。腹の底からどうしようもない吐き気が襲いかかる。堪える。駄目だ、苦しい――こんなに苦しい思いはしたことがない。
それくらい、僕は本当に彼女のことが好きだったんだ。
ああ、嘘だ、こんな、あっさり終わるなんて、嫌だ、信じたくない。
「チョロ松、具合悪い? 大丈夫?」
一方彼女は僕のこんな絶望に満ちた胸中を知る訳もなく、ただ心配そうに顔を覗き込んでくるだけ。
もはや眼前の彼女の顔に見蕩れることさえできない。僕の心の中では激しい嵐のような後悔が渦巻いていたのだ。
もっと早く想いを伝えていたならどうなっただろう? そもそも何故僕は告白しなかったんだ?
振られるのが怖かったし、幼なじみの関係さえも壊れそうで怖かったからだ。
でもそれ以前に、きっと彼女は僕のことを恋愛の意味で好きになったことは無い。いつもそんな感じの態度だった。いつまでも子供のような彼女を注意して、たまにケンカして、そしてすぐ仲直り。兄妹のように仲が良かった日々。しかしそれが恋に発展することは無かったのだ。
よく男女の幼なじみが両思いの漫画とか小説とかあるけど、あれは所詮幻想なのだと、この時痛感した。
馬鹿だよなあ。どれも最後に「この物語はフィクションです」って書いてあったのに。僕はそれらを読んで勝手に期待していたんだ。僕らも両思いかもしれない、と。
僕は彼女を"女"として好きだった。
彼女は僕を"幼なじみ"として好きだった。
「っ・・・・・・」
混乱は哀惜に変わった。視界がぼやける。嗚咽が漏れ出す。
「チョロ松・・・・・・?」
すると逆に、彼女は混乱し始める。どうしたの、というように下がる眉。でもいくら理由を考えたところで君には分からないよ。
ああ、まずい――このまま涙を流したらいけない。彼女にこんな情けない泣き顔を見られるなんて、せめてそれだけは阻止したい。
思わず、心の中で唱える。
『時間よ、止まれ』
もう、自分の苦しい呼吸以外は何も聞こえない。目の前の彼女は石膏像のように固まって1ミリも動かない。窓から外を眺めれば、空を悠々と舞っていたはずの鳥も、道を歩いていたであろうおじいさんも、全てが止まっている。
世界中が息を止めた。
この間に、なんとか気持ちを落ち着かせよう。時間が止まっているとはいえ彼女の前で泣くのには抵抗があり、部屋の隅にしゃがみ込んでからすすり泣く。その声は徐々に大きくなっていき、ついに慟哭に変わった。静かな世界に、僕の嘆きだけが響き渡る。
何分経っただろう。分からないけれど、暫くしてやっと涙は落ち着いた。しかし心は渦巻くままで、油断するとまた涙が零れ落ちてしまう。
なんとか何も考えないように努めて、元の位置に戻る。再び目も口も閉じている彼女と向き合う。
そこで狡い心がはたらいた。
今僕以外に動いている奴はいない。彼女もそこに含まれているから、当然僕が何をしようと分からないし気づかない。
せめて唇だけでも奪ってしまいたい。
僕は忍び寄るように彼女へ顔を近づける。あと1センチ――
「・・・・・・」
のところで、止めた。情けなく顔を引っ込める。
もう彼女の唇はあいつに毒されている。そんな他人に色づいた厭な唇になんて触れたくないという潔癖症故の気持ちと、いくらこの状況でもそれはいけない――という良心故の気持ち、どちらが勝ったのだろうか。僕でも分からない。
ハッとして鏡を見ると酷い顔だった。目の周りは腫れ上がっているし、全体的に真っ赤だ。
仕方なく平常の顔になるよう唱えてから、さっきの魔法を解いた。
鳥の囀りが聞こえる。あのおじいさんも歩き出したような気がした。
「チョロま――あれ?」
彼女は目の前にいる、さっきまで悲しみに塗れていたはずの男を見て目を丸くした。
「どうかしたの?」
「うーん・・・・・・? なんかチョロ松が急に元気になったような・・・・・・」
「何それ、僕は最初から元気だったよ」
にっこりと笑って、「それより早く続きやろうよ」とゲームを再開する。
「――あ! 当たり来た〜!」
やっと山札からその当たりを引いたらしい彼女は、はい!、とドローフォーカードを投下した。当たりって、そっちの当たりか。
「あはは、参ったなぁ」
僕は渋々4枚のカードを引く。2枚がリバースカードで、2枚はワイルドカード。
・・・・・・最初からやり直せば、彼女と結ばれるだろうか。または僕がもっと違う人間になれば、彼女は振り向いてくれるだろうか。
いや、もしそうだとしてもどちらもしてはいけない。この魔法を使えば容易くできるけど、就活と同じで自分の力で恋をしないと意味が無いのだ。それに何より、僕が一番恐れていること――他人の運命を狂わせることになるじゃないか。
「ねえ、ナマエ」
「何ー?」
「その付き合ってる人といて、幸せ?」
すると彼女ははにかみつつ、
「うん!」
と笑った。
それなら、いいんだ。
彼女が幸せならそれでいい。好きな人には幸せになってほしいから。
僕は一度、深く呼吸した。
そして心の中で強く願う。
『君が一生幸せでいれますように』
その時、
「ウノ!」
と彼女が声を上げた。それから間もなくして彼女の手からカードが消え、
「やった、また私の勝ち〜!」
ふふっと笑う彼女が勝者になった。
僕はこのゲームにも、長い初恋にもやぶれたのだ。
もう彼女が僕に振り向くことは無い。
それでも僕はまだこの気持ちを捨て切れない。
苦く、悔しく、つらい初恋。
しかし魔法でそれを消し去ろうとは思わなかった。いくら忘れようと、きっとまた君に恋してしまうから。
これからもこのどうしようもない恋心を抱いたまま、過ごしていくのだろう。魔法使いとしても人間としても未成熟な情けない僕にはお似合いの生き方じゃないか。
目の前で彼女が笑っている。こっちもつられて笑ってしまうような、魔法みたいな笑顔。
哀れな魔法使いは、今でも魔法にかけられたままだ。