なんて厭な恋だろう


「ねえナマエちゃん。やっぱりさ、大事なものは、卑劣な奴から守らないとだよね?」

 卑劣な奴が処刑されるのは、当然だよね。私はその言葉に瞼を何度も瞬かせる。どうしたの、突然。彼の言葉に返す言葉が見当たらず、ゆるゆると首を傾げてみせた。身体の弱い私の為に、毎日毎日足蹴なく通ってくれる彼。こうして考えると赤ずきんを連想させる。童話の中の女の子。弱くて、無垢で、純真なあの子。あの中での私の役はきっと、衰弱しきって狼に飲み込まれる祖母だ。抵抗さえも許されず、血肉を啜られて飲み込まれ、食欲のはけ口となるだけのそれ。それにしてもトド松くんはよく、分からない。彼が唐突にこんな事を言うのは、実は始めてではないけれど。宝物。大事なもの。蓋をして鍵をかけなくてはいけないものが、彼にはあるのだろうか。卑劣なものから守らなければならないものが、彼には。

「僕にはナマエちゃんしかいないんだ」
「……トド松くん?」
「だからさあ、卑怯な奴は断罪を受けるべきだと思うんだよ」

 彼は歌うように続ける。決して狂気など含まれていない、穏やかな声だ。けれどそこには確かな威圧が含まれていて、私は彼の瞳を見つめ返すばかりだ。優しさと冷たい部分を併せ持つ彼の怒りがこれならば、何故だか恐ろしい。冷たい汗が自分の背中を伝うのが分かって、ふるりと震えた。「ね?」と続ける彼に、私は曖昧に頷いてみせる。すると彼は、心から嬉しいと言わんばかりに笑った。花が咲くように美しく。喜色に顔を染めて。ありがと。と喜ぶ彼の反面、私は淡々としていた。ただ彼の言葉に同意を示しただけの私は、どうして彼が悦に酔っているのかも分からない。初めて、彼の瞳の桃色が怖ろしいと思った。赤ずきんだと思っていた彼は、いつの間にか狼にでもなったと言うのか。そんな筈無いだろう。彼は何時までも私を純真な瞳で見つめる赤ずきんなのだ。そうでなくては、ならないのだ。神が定めた不可侵のルールは、犯されてはならないのだから。


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「本当いい加減にしてほしいなあ」

ぐり、ぐり。肉の潰れる嫌な音が耳に反響し、踏み潰し続ける靴の裏からの感触が気分を更に悪くする。靴を染める赤色。気持ちの悪い。汚い。汚らしい。汚れまみれの癖に、僕のナマエちゃんに近寄ろうなどとほざくのか。ほの暗い感情は、激情と共に頭の中をかき混ぜる。理性など其処にありはしない。同種族に殺される、絶望の淵で呟かれた「どうして、」はとても快楽を生み出したけれど。
 どうして、など。愚問だ。僕は彼女が好きだ。愛している。例えこの思いは花開くこと無くとも。それでも、僕は。彼女に焦がれているのだ。僕が居なければ、死んでしまうような彼女に。外に憧れる悲しき姫のような彼女。力を少し入れただけで折れてしまいそうな程華奢な肢体を持つ弱くて脆い存在。それが彼女。守ってあげられるのは、僕はだけなのだと自惚れていて。きっとこれはアダムとイヴよりも許されない罰。犯されてはいけないはずの罪を僕は背負うのだろう。けれどそれでいい。僕以外に食まれる彼女などあってはならない。自分と同種だった筈の肉塊にもう興味はない。彼女を救うのは僕だけで。彼女を咀嚼するのも僕だけだ。

「ナマエちゃん……会いたいよ」

 会いたい。そうして汚れたこの爪も、頭の上で揺れる耳も、忘れてしまいたい。人になりたい。人に、なりたい。満月じゃあ無くたって、狼は人を襲うんだよ。弱々しい獲物の首筋を食い千切り、鮮血を啜り、肉を貪るんだよ。貪欲だろう。獣は。僕は。
 いったい何度、信頼に満ちたその瞳を汚そうと思ったか。何度、その細くて白い腕に食らいつこうと思ったか。何度、種を残す生存本能……所詮、性欲に犯されそうになったか。知らないのだろう。きっと彼女は僕の事を聖母だとでも思っているのだろう。赤頭巾を被った、清らかな子。そんなこと、あるはずもない幻想の物語だ。無垢で清らかで、純潔を纏うのは君しかいないのだから。だからこんな、汚れた厭な恋を受け入れてくれませんか、僕のサンタマリア。


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「おはよ、ナマエちゃん」

 ふと、頭に感じる違和感に目を開く。まだ明るさに慣れない視界の中で目を凝らせば、私の頭に手を乗せているのはトド松くんだった。なんだ、私はてっきり。てっきり……お母さんかと、思ってしまった。お母さん。もう輪郭の境界線も曖昧だけれど、確かに血の繋がっていた、私の唯一の。私を置いて出ていってしまった、お母さん。あの日の事はまだ鮮明に覚えている。まだ家から出られていたあの頃。家に帰ると、何時もの後ろ姿が無かった。母親らしいエプロンの結び目が見えない。ただ、嫌な予感と早鐘を打つ心臓のままに家中を走り回れば、テーブルの上に書き残しがひとつ。あの日から、私のお母さんはあっけなく紙切れになってしまった。たった一枚の紙切れ。死刑宣告にもよく似ていた。「トド松くんに、後は任せます。」最後の一文がやけに、生々しかった。けれど今思い出すと、あれは母の文字だっただろうか。見覚えのない、母にしては少し不器用な字だった気がする。

「でね、……ナマエちゃん?」
「ぁ……」
「もう、僕の話聞いてた?」
「ご、ごめんね、もう一回良いかな…?」

 しょうがないなあ。と笑う彼はいつも通りだ。いつも通り、清純であどけないトド松くんだ。彼はそのまま私の座るベッドへ腰掛け、手に持った袋を揺らした。私はその中で揺れる錠剤に瞬きをする。初めて見る薬だけれど、もしやトド松くんが買ってきてくれたのだろうか。問いかけるように視線を投げれば、トド松くんは返事のようにくりくりとした瞳を歪ませた。

「これ、博士から貰ってきた薬だよ。毎日三回、水で飲んでね」
「あ、ありがとう、トド松くん……」
「気にしないで。あとほら、ナマエちゃんは忘れっぽいからね」

 はい。と彼に優しく手渡されたメモ。それに何故だか既視感を覚えて私は動きを止めた。この文字を私は、どこかで見た。知っているのだ。この字の書き方を。女性特有の字に似ているようで、よく目を凝らせば似ていない。丸いようで不器用な字を。嫌な感覚に背筋が凍っていく。冷たい汗が伝うたびに、体温が奪われていくのを感じた。違う。トド松くんは狼ではない。あんな野蛮な獣の筈がない。この文字が、母親の書き残したメモに酷似しているなんて、そんなこと。きっと何かの間違いだ。

「ナマエちゃん」
「え、な、なにかな」

 今まで頭上にあった彼の手が、ゆっくり降下していく。どく、どく。と鼓動は耳までも反響する。頬に触れた彼の手が、何故か死人のように冷たく感じてびくりと身体を揺らした。これは、ダメだ。彼の冷たい手には覚えがある。これは私を叱るとき、心の底から疑心暗鬼を持ちかけるような声を出す時のものだ。この彼の声で揺さぶられたら、私は見失ってしまう。自分の中にある全て、否定されてしまう。わたしの畏怖を感じ取ったのか、トド松くんがくすりと笑った。喉を鳴らして、愉快そうに。大きな黒目の奥にあるピンクが鮮やかで、痛いほど目に焼き付く。ねえ、と彼は問う。私の息が詰まり、肺がきりきりと悲鳴を上げているのがわかった。

「無知と無知なフリ。良くないのって、どっちだろう」
「っ、え、」

 問いかけるように、歌うように、溶かすように耳元で囁かれるこれは。これは毒だ。私を叱りつけている彼の、身に秘めた毒。獲物を麻痺させ、そのまま飲み込むためのそれ。縛られてもいない筈の指先は、シーツをぎゅうと握りしめた。彼はそんな私の手をちらりと見たけれど、一瞬で視線から外した。

「無知は良くないよね。無知は人を殺す。何も知らないまま相手を確実に殺すんだ。けれど、無知だからと許される。無知は罪だよねぇ」
「なんの、こと」
「だからって無知なフリも良くないね。知らないフリをするのは良い事だけど、それは本当に幸せかなあ?目を瞑って耳を塞いで、私は無知だって喚けば、清純なままでいられると思ってるんだよね。そんなはずないのにね」
「っ、」
「ああ、ナマエちゃんはどっちだろうね」

 呼吸が荒い。息が出来ない。甘ったるい声に反吐が出そうだ。ガムシロップを無理やり流しこまれたみたい。甘くて、喉の奥で存在を証明し続ける。傷跡として残り続ける。正答は、何。この問いに本当の答えなどあるのか。ただただ彼の瞳を見つめ返せば、彼は満足げに笑った。

「なんてね。びっくりした?」
「え……」

 拍子抜け。呆気なく終わった尋問の時。私の口が間抜けに開いているのがわかる。シーツを握りしめていた指からも、あっさりと力が抜けた。何だったのだろう。今の時間は、今の問いは。先程までの曖昧で歪な空気はすっかりと無くなり、彼も何時もと変わらない純粋な笑みを浮かべていた。

「ふふ、驚かちゃってごめんね。これ、今日の分だよ」

 私の眼前に、まるで試すように置かれた白い錠剤。私はまだ震える指でそれを摘む。錠剤特有の臭いが鼻を擽った。それだけで舌の上を苦味が占める感覚。口に放り込んで無理やり喉奥まで流し込めば、ゆるゆると私を眠気が包んだ。副作用だろうか。それなら、きちんと言ってくれれば良いのに。朦朧としていく。何もかもが曖昧になっていく。彼に感じていた違和感が、もはや何だったのか思い出せない。そうして抗うことなく、溺れていく。泳ぐことのできない鳥は、海に捕まったら逃げられない。無力な赤頭巾の祖母は、狼に捕まっても逃げられない。


「おやすみ。無垢で可愛いナマエちゃん」


 彼の足の間で揺れる尻尾なんて、彼の口元で光る鋭い歯なんて、手袋に隠れた鉤爪なんて、頭巾で隠された獣の耳なんて。私は、知らない。