口を噤んだ無神論者

神はいないけれど鬼はいるんだね、と言えば真っ赤な着物をゆるく着こなした男は鼻の下を擦ってまあね、と笑った。そしてしばらく考えたあとに神様だって実在すると言い出したので首を横に振って否定してやる。神様がもしもいるのなら、私はこんなに面倒なのに報われない難儀な人生をおくっていない。
そもそも神様がいるのならこうやって、鬼に追い詰められるなんて事は起こらない。

「離して、おそ松」
「やーだよ、ナマエちゃん」

こっちは混乱していてどうしようもないっていうのに、こういうときに限って状況とは矛盾するような顔で笑うのだ。


松野おそ松。高校時代の同級生。当時よりも卒業後1年と少しがたった頃にばったり再会した時からの方が絡みが増えたと思う。当時密かに恋い焦がれていた気持ちが再会の途端燻るなんてこともなく懐かしさに話をして連絡先を交換して。
酒を飲み交わし、共に食事をして、色んな話をした。彼の兄弟と食事をした時、そういえば六つ子で有名だったなと思い出したくらいには、当時私はおそ松しか見ていなかったのだなあと思った。だって未だに彼らは見分けられない、おそ松以外は。
ニートなのはカミングアウトされたし(しかも兄弟全員ときたから思わずうわあと言った記憶がある)、集ってくるしセクハラ紛いもしてくるし言動もストレートであまり隠し事をしない。着飾らないような男と言えばいいだろうか。まあ、彼と話すのは楽しく、こうして交流を続けたわけだが。


今日から数えて十日ほど、前だっただろうか。
おそ松の家で食事をご馳走になり、送るなんていう言葉に甘えた日。彼はふと隠し事をしていたと投げ掛けてきた。
なあに、と言った時には先程まで真っ赤なパーカーに身を包んだおそ松はいなくて、代わりに真っ赤な着物と真っ黒な帯を身に纏い、二本の牙を口から覗かせ、これまた二本の角を髪の隙間から生やしたおそ松がいた。手には絵に描いたような金棒まである。おそ松はいつものように笑いながら、鼻の下を指で擦りながら、口を開いた。

「実は俺、鬼なんだよね。でさ、俺、我慢するの限界だから。遠慮しないから。ナマエちゃん、覚悟しといてよ」

言うだけ言って、状況を飲み込みきれずぽかんとしたままの私をそのままにその日は帰ったおそ松が踵を返すときに、彼の瞳の奥が赤く光ったように見えた。


マジック?夢?そう思ったがどうやらこれは紛れもない現実のようで。だからこうして今日まで毎日、私は着物を着て牙やら角を生やして金棒を持ったおそ松に追いかけられた。純粋に鬼ごっこを楽しんでいるかのように追いかけられた。絵本で見たような角や牙や金棒。それを携えた成人男性に追いかけられるというのは、いくら相手が友人とはいえ大変恐ろしい。「ナマエちゃん!ナマエちゃあぁーん!?待ってよー」なんて言われながら笑顔で走ってくるのは妙に迫力があるのだ。私は全力で走っては自宅のドアに滑り込み、残念そうに悔しそうにしたおそ松の声をドア越しに聞き、荒い息を吐きながらももうやんなくていいよ、おやすみなんて答えていた。

それが昨日までの話である。
では、今日は?

今日はここ数日通り、ある十字路でおそ松に声をかけられ、彼の姿がまばたきひとつで変わり、追い掛けてくる。逃げて、逃げて、自宅のドアはすぐそこ。鍵を取り出した、その瞬間。
腕を掴まれる。つぅかまぁえたぁ、と語尾にハートマークでも付きそうな声と同時に器用に鍵を引ったくったおそ松はドアの鍵を開けて私ごと中に入り、自信の体と壁で私を挟み、肩を掴んでさらに近付いてくる。
…学生時代の友人は人間でなく鬼でした、なんて誰に相談すれば信じた上にアドバイスくれるんだろうなあなんてぼんやりと現実逃避をしながらせめてもの抵抗として彼の胸元に置いた腕は突っぱねたまま。でも腕力の差は大きいようで、じわじわと、でも確実に距離を縮めてくるのだから嫌になる。
熱くなる顔を、震える体を、隠せない。逃げるように言った言葉も意味をなさない。それでも口を開かずにはいられない。黙ったら食べられてしまうと本能が叫んでいるのだ。


「何、どうしたの本当に」
「腹減ったの」
「は?…人、食べるの?」
「腹が膨れるなら鬼はなんだって食うよ。もちろん人間も」
「そういうものなの?」
「そういうもんだよ」
鋭い牙が目前で光る。燻る気持ちはかつての恋じゃない、恐怖だと言い聞かせる。怖いんだ、そう、怖いんだと。
「これでもさぁ、学生の時から我慢してたんだよ?ようやく見付けたらナマエちゃんってばまあ美味しそうになっちゃってさ」
暢気な声で言いながら唇が弧を描く。意味わかんないよ、と逃げるように言えば喉をくつりと鳴らしてとうとう笑いだした。

「ナマエちゃん、鬼は恋をした相手を食べたくて食べたくて仕方なくなっちゃうの、わかる?」
そんなの聞いたことない、という言葉がおそ松の手で塞がれる。手、大きい。よく見れば爪の先が鋭い。彼の目を見ればそれはそれは楽しそうで、月明かりは逆行になっているはずなのに瞳が赤く光っている。その瞳には甘い熱がこもっていて、それの意味を知らないほど子供じゃない私は、心臓の音がどんどんうるさくなる。やめて、違うの。こんな状況で勘違いを起こさないで心臓。ばくんばくんと音をたてているのを、おそ松は聞いている。彼が嬉しそうに得意気に笑うのだから、絶対に聞かれている。その顔が、唇が、鎖骨の間に触れてきた。触れたまま唇が弧を描いていく。もう、逃げられない。

「ね、ナマエちゃんさぁ」

かぷり、と首もとに噛み付かれる。ぷつ、と牙が皮膚に食い込む。痛い。すぐに離れた牙の代わりに熱い息が触れてじわじわとまた痛む。これまた熱い舌が傷口を這って、舐めて、ぐりぐりと抉って。角が頬に当たってちくちくして。傷口がじんじんとして、痛いのに。抵抗していたはずの手は指ごと絡めとられていて、赤い瞳の熱を向けられて、心臓が跳ね上がる。熱っぽい声で、ナマエ、と呼び捨てにされてまた跳ねる。


「神様はいなくていいけれど、鬼はいた方がいいと思わない?」
「…思わない」
「思わない?嘘だぁ。こんないい匂いさせてるんだよ?だから、ほら。ね、俺に食べられちゃおうよ。だって俺とナマエはさぁ、」
両思いだもんね?と甘ったるく吐くおそ松に文句を言おうとしていた口を噤むしかなくなる。無言は肯定だよと言われても、噤んだまま。いいの?と聞かれても、噤み続ける。結局はそういうことなのだ。つまりは、こうなってしまったという事実しかないのだ。
噤んだ唇をおそ松は幸せそうに食べ始める。塞がれて、吸われて舐められて食まれて。舌を絡められて。そうして愛しさをたっぷりと詰め込んだ瞳で笑う。

「ほらぁ、やっぱりナマエ、超美味い。…ね、もっと。たんねーよ、ナマエ」

ほら、神様なんていない。いるのは誑かしてくる悪魔のような鬼だ。だから真っ赤な鬼に食べられた私の運命を知る存在なんて、いないのだ。