乙女、真骨頂
 これは天から与えられたご褒美だ。とミョウジナマエは思った。最近通り魔が世間を騒がせている。連日ニュースで議論されているのもこの通り魔についてだ。街を歩けば、警察の貼った手配書だってある。
なんでも、一人でいたところを後ろからすうっとやられるらしい。すうっと、というと呆気ない響きだが、事実やられた方は本当に呆気ない。外傷はなく、直前の記憶さえ眠りに入る一瞬のことのようにすっぱりと断絶しているらしいのだ。被害は携帯のメモリー、名刺入れ、とにかく人脈となりうるもの。──それから、被害者の記憶。というのも、被害者は近しい間柄の人間のことをすっかり忘れてしまうというのだ。
 通り魔、なんて言われているが、ネットでは陰謀やら新種のウィルスやら全く関係のない画像やらが上げられており、ミョウジは頭を振って携帯の電源を落とした。好奇心ばかり先走って根拠がない。毒にも薬にもならない情報ばかりなのに、つい目を留めて時間をとられる。しかし彼女が求めていたのははっきりとした事実だった。通り魔の服装。どこに出没するか。記憶は本当に消せるのか。彼女は、熱望していたのだ。
巷を騒がすその通り魔に会ってみたい、と。

 ミョウジは、数日前、近しい友人を亡くした。自殺だった。ちょうど通り魔のニュースがちらほらと報道され始めた頃のことだ。数ヶ月後の成人式に向けて、お揃いの振り袖を着ようね、と約束した友人。それなのに死んでしまった。首を吊っていたのだそうだ。遺書はなかった。だが、なかったといえば語弊があるかもしれない。#ミョウジ#は彼女が死ぬ直前、メールを受け取っていたのだから。
『就職、遠いところに決まったよ。成人式が終わったら地元を離れるけど、ナマエ、忘れないでね』
 今となっては『忘れないでね』という言葉だけがべっとりと記憶に張り付いていて、いつまでも生々しい。ミョウジはメールに気づかなかった。受信時刻は深夜であり、彼女は眠っていたから。そのことを悔やんでいる。しかし忘れたいとも思っている。薄情なのか、卑怯なのか、そもそも咎められるべき悪いことなのかは分からない。強いて言うならば、ミョウジは楽になりたかった。



 久方ぶりに携帯のバイブ音がミョウジの耳に入った。ここ最近誰かからメールや電話が来ようとも一方的に無視していたので、ほぼ置物状態だった。ドアを急に叩かれたみたいに心臓が跳ね、ミョウジは恐る恐る携帯に手を伸ばす。
 数日触れていなくても指は慣れた様子で受信ボックスを開いた。薄目で宛先を確認する。母──ではない。女友達──でもない。サークル関係──でもない。うっすら瞼を下ろしていた目を、徐々に開いていく。もしや業者メール? 彼女の眉間に皺が寄った。
 “松野トド松” その表示に、ミョウジの指が止まった。


 ミョウジは呆然としながら街を歩いていた。ここはこんなにザワザワとうるさいところだっただろうか。彼女の片手には買った服の入った紙袋が握られている。
「それ、かさばるよね。持つよ」
 そう言って横からひょいと紙袋をさらっていったのは今朝方メールを送ってきた松野トド松だ。ミョウジを一緒に出かけよう、と外に誘ったその人である。にこやかな笑みを浮かべて、隣を歩いている。
 会ってすぐ彼は「ナマエちゃん、今日は僕が奢るから! 新しい服買いに行こう!」と言ってミョウジの手を引いた。服屋の立ち並ぶショッピングモールの一角に連れられ、勧められるがままに試着をしていれば既に新しい服が手元にあった。なんの錬金術だとトド松を見れば、「すごく似合うよ」と褒め殺される。ミョウジはわけがわからないまま、彼について行った。
 その後も喫茶店に入って軽い昼食を食べたし、モールの屋上に設置された小さな観覧車に乗ったりもした。二人は今、ようやく帰路についている。空は赤い。

「ずっとナマエちゃんに会いたかったんだ」ふと、隣にいたトド松がぽつりと呟いた。
「……なんで?」ミョウジは目を瞬かせて尋ねる。
「なんでって、僕もよく分かんないけど。ええと、心配してた……のかも」
「…………」
「ナマエちゃんが返事くれて良かった。結構それだけで安心したから」
「そっか」
「うん。あ、僕に付き合ってくれたのも嬉しいよ。一人で遊ぶと味気ないからね。僕だけかもしれないけど」
 トド松が子供っぽい目をして笑う。ミョウジはここ最近の日々を思い出して苦笑した。確かに一人でいると気分が驚くほど沈む。ほっといてほしいとは思っていたけど、内心携帯のバイブ音に励まされていたかもしれない。だからこそ、ぱたりと音が止むと彼女は本当に一人になってしまう。
「私も」
「本当?」
「嘘。……ううん、ちょっと寂しかったんだ。多分」
 思い切ってミョウジは本心を打ち明け、そして笑った。久しぶりで頬の辺りに違和感があったが、ぎこちなくはなかった。トド松は少し驚いたように目を見開いた後、「そっか」と納得したように頷いた。
「いっぱい遊んで疲れたね。ちょっとそこの公園で休もっか」
 トド松が道の先にある公園を指差す。人の気配はない。ミョウジは「分かった」と答えてトド松についていく。
 公園に入ると、二人は空いていたブランコに座った。トド松が手にあった紙袋を胸に抱き直し、懐かしいなあとぼやく。この時、ミョウジは笑った。ゆら、と体重を乗せてブランコを漕いでみる。上下する視界が懐かしかった。

 「人付き合いは大切だよねえ」

 ミョウジはギクリと身を強ばらせる。トド松がそんなことを呟いたのだ。何かを省みるように、自嘲するように。夕方の公園。二人が占領するブランコがきいと軋んだ。
「うっかり人を雑にあしらうとさ、そういう時だけ相手も気づくから」
 トド松の言葉は止まらない。まるで最初から決まっていたように淡々と、唇を言葉が滑っていく。
「そうなると関係は悪くなる。うっかりだけど、相手にとってはうっかりじゃない。人っていうのは無意識なりに大事な相手を気遣うものだから」
「……松野くん……」思わずブランコを漕ぐのをやめた。ミョウジはトド松をじっと見つめる。彼は何か考えているような横顔で、目が合うことはない。
「大事じゃなくなったってことは、本人にとっては忘れたっていいってことだ」
「そんなことは──、」
 言いかけた言葉が止まった。ミョウジの頭を一つの記憶が占めていく。彼女は今、否定することを迷っている。断言ができないのだ。
 だって深夜のメールだった。意味もなく感傷的なメールになったって仕方のないことだと思った。目も覚めたし、指は動いたけど、寝ぼけていたから適当な返信をするのは悪いから──、

「忘れたっていいよ」

 ミョウジがひゅッと息を飲み込む。トド松の声はどこまでも甘い。足下に伸びる影がゆらりと黒煙のように立ち上る。
「この世の中、覚えておきたくないこと、忘れたいこと、いっぱいあるよね。君達は楽をしない。毎日の中で不安も焦りも怒りも蓄積していく。それを誰かにぶつけるくらいなら、忘れちゃった方がいい。それは楽だから」
「松、野くん?」この青年は何を言っているのだ。
「可哀相だね。ずっと持ち続けるのが大事なんだって、思い続けた結果君の友達は自分の背負い込んだものの重さに潰れて死を選んでしまった。可哀相。その記憶は結局、その子の中にしかない。もしかしたら彼女以外の人は捨ててしまったのかもしれないのに。そんなの、ないのと同じ」
「あ…………」
「分かってほしいでしょ? 理解が欲しいでしょ? 可愛そうだって慰めてほしいでしょ? 誰かと常に繋がっていたいでしょ?」
 ミョウジは動けなかった。今、何か大切なものを失おうとしているのに、動けなかった。少なからず、図星だった。あんなに会いたいと願っていた通り魔だって、今日一日トド松と遊んでいればすっかり記憶の彼方だった。
 それなのに、友人のことだけが忘れられない。いつまでも──、いつまでも、もしや、自分が死んでしまうまで続いていくのではないかと思えるくらいには。だから、

「君の大切だった人、記憶、全部僕にちょうだい」

 つまり彼女は、忘れたかったのだ。



 次に目が覚めたらベッドの上だった。ミョウジはぼんやりとした様子で起き上がる。周りを見渡すと、知らない女と男が傍に立っていた。
「ナマエ!」
 女の方に手を伸ばされ、ミョウジはひっと声を上げて身を引いた。途端、傷ついたように歪む女の顔に、ミョウジ自身も困惑したように顔をしかめる。するとベッドを囲んでいた白いカーテンが引き払われて、白衣の男が入ってきた。恐らく医者だと、ミョウジは思った。
「────、──」
「───── !」
「──、─────」
「…………」
 頭上で交わされる会話が耳に入ってこない。それよりもベッドの下に置かれた真っ白な紙袋が気になる。ミョウジが思わず手を伸ばすと、男と女と医者がこちらを凝視してきたのが分かった。露骨な視線に耳が熱くなる。
 気に留めないようにして中を開くと、新品らしい服がいくつか入っていた。手にとってみると、驚くほど馴染む。誰かが似合うと、と言ってくれた。それだけ覚えている。
「松野くん……」

 呟いた名前に、身に覚えはなかった。些細な幸福感が彼女を包んだが、それもすぐに、消えた。