聖女の痴態

わたしの生活に滲んだ赤が、じわりじわりと貪欲な心臓の中で血液と混ざりあって、溶け込んでいくような錯覚を覚えることがあります。

幼い頃から外の世界を知らない子でした。周囲の人間からどんな目を向けられ、見下ろされても、わたしは絶えず笑顔を浮かべる愚かな女の子で、幼い頬の柔らかい肉の下では強固な筋肉の仮面が潜んでいたのです。

イイ子ネ、カワイイ子。
とっても大切な、私たちの子。


暗示のように耳元で唱えられた母の言葉はどの子守唄よりもくっきり頭の中に残っています。どこまでも続く柵の中、にへら、と笑うわたしの笑顔を、言葉が腐りきるほどに褒めたたえ、守り続けてきたのです。


そんなわたしが外の色を知り始めたのが、わたしが教会に付属された小さな小学校に通い始めた頃でした。



神様に祈りを捧げ、とても優しい修道女のおばあさまとおねえさま達と過ごす時間は、いつのまにか母と過ごす時間よりも長く、そしてわたしの瞳に、荒々しく絵の具をぶちまけるように世間を教えた彼女らに、私は何の不信も抱かず、笑顔も絶やさず。

愚かなわたしは、外の世界を歩くようになりました。




はじめは近くの小川の道から。わたしのおうちとは違う、古くてさびれた古民家の間、そして、激しく煙を吹き荒らす車の走る大きな道路。


赤い夕焼けの綺麗な空でした。あんなに蒼く澄んでいた空が、あっという間にどろりとした赤黒い雲に覆われ、赤く染まる空に気味の悪さを感じました。はじめて指から赤黒い血が吹き出た、あの幼い頃を思い出しました。



白い白帯の続く先で、赤く光った信号ランプを見上げ待つわたしの影を、そっと包むように夕焼けが照らす中、わたしは不意に、反対車線に視線を巡らせました。




横断歩道の先で、真っ直ぐわたしを見つめて、信号を待つお兄さんがいました。

じとり。絡みつく目線が異心地が悪くて、思わずその人の足元に視線を落としてしまったわたしは、いけない、といつものようにその人の視線を包み込むように、でも明らかに流すように見つめ返して、にへ、と微笑みました。すると、そのお兄さんは、なんとも口の端をいやらしくあげて、わたしに微笑み返すのでした。


きひ、とでも卑劣な息が漏れるかのように。


そして、どこもかしこも、赤い信号で包み込まれたその一瞬の世界で、お兄さんは、ゆっくり白帯を踏みしめながら、わたしに近づいてきます。

危ないよ、赤信号だよ、お兄さん。




声は掠れて吐息となって消えていきます。すべての呼吸が止まって、わたしとお兄さんの心の臓の音だけが、静寂の中音を落としていきました。

ぴたり、とわたしの一歩手前で立ち止まったお兄さん、怯えてか声も出ないわたしを舐めまわすかのように眺めた彼は、また不気味な声を漏らして笑って言うのです。


「かわいいかわいい、お嬢さん」

「こんなところでお1人なのかい」

「いい子はおうちに帰りなよ」




子守唄のような、ねちりねちりと染み込んでいくこのお兄さんの声はここちよくて、幸せでした。そっと温もりのないこの人の指先が、わたしの頬に触れたとき、肩は怯えたようにひくりと跳ね上がったのに、その柔い肉の下にある固い筋肉の仮面が、じわりじわりと溶かされていくようにも感じたのです。


なんとも心地が良かった。
愛おしげにわたしの頬を撫でるその人の優しさをふんだんに貰った気分になった愚かで馬鹿な女のわたしは、「ふふ、」と嬉しそうに鼻を鳴らして微笑んで、すっと目を細めれば、そのお兄さんは満足そうに、答えるように鼻を鳴らしたのでした。





____そのあとの記憶はありません。

きっとあれは夢だったのでしょう、と。瞼の裏に映るあの夕焼けと耳にこびりつくあのお兄さんの乾いたニヒルな笑い声が、わたしがみた確実な『夢』であることを証明しているのです。


それに、ねぇ、だって。
毎日、あの愛おしいお兄さんは、わたしに会いに来て下さるのですから。





* * *







「ナマエちゃんは、こんな真夜中に、こっそり、ベットを抜け出す悪い子だね」
「だって、今日もお兄さんが会いに来てくれるから」

「たはー、俺のせい?そりゃ、ごめんね」




今日も、お兄さんは、真っ赤なお兄さんは、わたしに会いに来てくれる。
綺麗な赤だ、廊下に飾られている真紅の薔薇より、わたしのなかに流れる血潮より、目が滲んじゃうくらいの赤色。


またあの日のように、優しくわたしの頬をなぞり、首筋を撫でて、そっと抱きしめてくれる。愚かにも簡単に火照るほっぺたをくりくり、甘える子猫のように、彼の胸板に擦り付けた。




「ナマエちゃんの柔らかいほっぺが真っ赤だね」
「お兄さんと、おそろいだね」
「ふふ、くふ。そうだなー、ナマエちゃんかわいいなぁ、すんげえ綺麗な子。おそろいだって、ねぇ、ふは」



ナマエちゃん、とってもいい子。
かわいいかわいい、俺の大事な子。




なぜだろう、母と同じわたしを可愛いがり閉じ込めて、蔑み恐れ笑う、その言葉とは違って、心臓が締め付けられて、とくとく鳴るの。



「ナマエちゃんの、赤いのも、もっと見たいなぁ」


「俺ね、知ってるよ。ナマエちゃんがはじめてお台所で包丁持って人参切ってたときに、人差し指、そー、この指切っちゃって。綺麗な切り傷、そこから流れる血を、怯えながら舐めてたこととか」


人差し指の古傷がじくり、と疼いた気がしたけれど、もうそこは完全に無くなって元の健康さも感じない真っ白な指の肉。

じっと指を眺めてしまったわたしから、優雅に指を絡めとって、ちう、と線の細い何の役にも立たないようなわたしの指に音を立てて吸い付くお兄さん。

蠢く舌に指の神経がチリチリと傷んでいくように感じたけれど、その舌さえもこの人はいやらしく美しい赤色をしているのかと思えば、我も忘れてうっとり彼の、わたしの指を美味しそうに咀嚼し嫐る様子を眺めていた。






庭園で生い茂る薔薇に、刺にびくびくする姿とか。赤い生の食べ物が食べれないこととか。ナマエちゃんが、真っ赤な夕焼けが怖くて。

「夕方は、こっそり俺の名前を呼びながら怯えて息をしてることとか、ぜーんぶ」

俺知ってるから。





いつも、綺麗なわたしを穢すように言葉を吐くだけのお兄さんは、また、朝がきたらどこかに消えてしまう。

あのどす黒い夕焼けの陽の光とともにお兄さんは現れて、怯えるわたしを抱きしめて、そっと耳元で汚く下劣な言葉を吐きながら、触れて、そして朝にはその赤は跡形もなくなくなってしまう。


そうまるで、夕焼けは底知れぬ彼の怒りの魂胆のようだ。
じとりじとりと悪魔が押し寄せる姿に、わたしは無意識に恐れを成しているのかもしれない。

それでも、いつもわたしを抱く彼の笑顔は。不気味で下劣で、優しい。やさしい。


「いつも綺麗でかわいいナマエちゃん、汚くて恥ずかしくて、愚かな顔が見たいなぁ、汚したいなぁ、ぐちゃぐちゃなナマエちゃんが見たいなぁ。真っ赤な血は綺麗なんだろうなぁ、はぁ」


ぐりぐりとわたしの首筋に鼻を埋めるその仕草は子供っぽくて、思わず笑ってしまう。

見せてあげたい、柔いわたしが何年も築き上げてきた肉の仮面を繊維から解いてしまったこの人に、痴態でも何でも見せてやりたい。


「ああもう朝だ、眠たい、」
「わたしも、眠たい」
「ほら、君の大好きな がくるよ、くく、まぶたが重たそう、人間は大変だなぁ。ねぇ、さいごに、いつもみたいにさぁ、ね」


俺の名前を呼んでくれよ。












「、おはようございます。おそ松お兄さん」



今日も、見渡す限りの巡る青い空、白い朝には、あなたの赤はありません。
また今夜、会いましょう。

そして食い尽くされるよりももっと甘美で、その牙の甘噛みで、いい夢を見させておくれ、と。