ロマンス・イン・ザ・ナイトメア

子どものときから虫は別に怖くなかった。だが、蜘蛛だけは嫌いだった。というか、脚が多いものが嫌いだ。たくさんの脚がウゾウゾと動き回る様子は本当に見るに堪えない。何故あのような嫌悪感を全力で掻き立てる見てくれをしているのか、本当に理解ができない。それくらい嫌いだというのに…


「ね、ナマエちゃん……これでも同じことが言える?」


彼の脇腹から生え出るそれは、紛れもなく…



松野チョロ松とは、高校生の時の同級生だった。当時はとても仲良くしていたし、それこそ放課後に一緒に勉強していた仲だ。今となっては甘酸っぱい思い出、私はチョロ松のことが好きだった。ただそれだけ。告白することもなく私はそのまま卒業し、大学に進学した。そしてそのままチョロ松への恋心を忘れていった。

そう、仕事帰りに駅で彼と再会するまでは。


「あれ、ナマエちゃん?」
「あ、チョロ松?」
「わ、本当にナマエちゃんだ!久しぶり、元気だった?」


心底嬉しそうな顔をしているチョロ松を見て、恐らく自分も同じ顔をしているんだろうなぁと内心苦笑する。久しぶりに会ったにも関わらず不思議とまた打ち解けて、あの時のように仲良くなって、高校生の時のように私はまたチョロ松に恋をした。そして一緒に遊びに行ったり、飲みに行ったりしているうちにその気持ちは加速していった。



きっかけは、残業で遅くなった帰り道で見知らぬ男に絡まれたことだった。金曜日の夜だからだろうか、相手はかなり酔っているようだった。そのせいかやけに強気で、どんなに素気無くしても執拗に絡んできた。


「なぁ、いいだろぉ?ちょーっと付き合ってくれるだけでいいんだって。」
「…………。」
「えー無視?無視しないでよお姉さーん。」
「っ…!?」


足早に立ち去ろうとしたら手首を強く掴まれて阻まれる。同時に手首を掴む力がやたら強くて私は恐怖を感じた。本当に恐ろしいと悲鳴なんて出てこないものだ。少なくとも私はそうだ。


「その子、離してもらえる?」


そこに響いた聞きなれた声。男の手が引き離されると同時にグイッと引き寄せられ、ぼすんと胸元に収められる。顔を上げればそこにはやっぱりチョロ松の顔があって、私はとてつもない安堵感に包まれた。見知らぬ男のほうを振り返れば、男はチョロ松を見てみるみる青ざめていった。


「どっか行ってくれる?」
「ヒィッ!!」


チョロ松の冷めきった低い声。男は見るからに怯えきった様子で、まるで殺される!とでも言いたげにチョロ松に掴まれていた手を振り払って全速力で逃げて行った。それを見送った後、チョロ松は大げさにため息をついて私をそっと離した。


「大丈夫?何もされてない?」
「大丈夫…ありがとう、チョロ松。」


単純なもので、さっきまで恐怖に怯えていた私の心臓は、チョロ松に対するときめきを素直に訴えていた。

だってまさか、好きな人に助けてもらえるなんて思わないでしょ

安堵感から思わず涙が出そうになるが、ここで泣いてしまってはチョロ松を困らせてしまう。零れそうになる涙を必死に堪えて、私は精一杯笑顔を浮かべた。それを見たチョロ松はすぅ…と半目になり、不満ですという顔でこちらを見てきた。


「送ってく。帰るよ。」
「……うん、ありがと…」


何故そんな顔をしているのかさっぱりわからなかったので、どこか釈然としない気持ちを抱えてチョロ松の隣に並んだ。それでも怖い目に遭ったばかりで少し心細かった私は、チョロ松に気づかれないようにパーカーの裾をそっと摘んだ。そのまま特に何を話すわけでもなく、家までの道を並んで歩く。何も話さないチョロ松に、何だかとても居た堪れない気持ちになって俯いてしまう。


「着いたよ。」
「え、あ、うん…」


住んでいる部屋の玄関先まで連れて来てくれたチョロ松が中に入るよう促す。いつもだったら下のオートロックの自動ドアのところまでなのに、珍しい。


「…………。」
「ハァ…貸して。」


ぼんやりとしていることに痺れを切らしたのか、チョロ松は鍵を私の手から引ったくって玄関を開けた。そして私ごと部屋に入り、そのまま鍵を閉めて部屋に上がり込む。そしてリビングに入るなり「そこ座って」とラグの敷かれた床を指す。
ここ私の家なんだけどな、と言いたいのを飲み込んで私は素直に従った。


「ねえ、ナマエちゃん、今自分がどんな顔してるかわかってる?」
「…え?」
「え、じゃなくて…」


仁王立ちで私を見下ろすチョロ松はやや苛立ったように頭をガシガシと掻いた。


「何でそんなぼんやりしてんの?まあ変なのに絡まれて怖かったのはわかるけどさぁ、でもその危機感のない顔は何?何なわけ?事の重大さ全然わかってないよね?簡潔に言うと襲われたんだよ、あれ。夜遅くにあんな人気のない道歩いてたら襲って下さいって言ってるようなもんでしょ、わかってる?」
「チョロ松…?」
「今だってそう。今のこの状況わかってる?まあ僕が鍵取って入ったのもあるけどさぁ、何で素直に鍵渡してんの、おかしいでしょ!?僕だからいいようなもんだけどさぁ、間違いが起こったらどうすんの!?」


えええ、何で急に説教されなきゃいけないの…
私怖い目に遭ったばっかなんだからさぁ、せめて慰めてから説教に入るでしょ

思わず半目になる。おかげで少し頭が冷えた気がする。


「ほらね、やっぱり危機感がない。だからさっきみたいに、」


私が何も言わないのをいいことにグダグダと説教を垂れるチョロ松に、私の中で何かが切れた。チョロ松の手首を掴んでグイッと引き寄せ、おしゃべりな口に人差し指を押しつけて無理矢理黙らせる。


「あのね、私だってそこまでバカじゃない。間違いが起こっても大丈夫な相手だから招き入れたに決まってるでしょ。」


みるみる見開かれる目を見て、まるで悪戯が成功したような優越感に口の端を吊り上げる。チョロ松はしばらく呆けたように口を三角にしていたが、一度目を伏せたかと思うとそのまま俯いた。


「ねぇ…それって、さ……僕のこと、好きってこと…?」
「そう。私はチョロ松が好きだ。」


私がはっきりと口にすると、チョロ松はゆっくりと顔を上げた。ばちりと視線がかち合い、私は思わず息を飲んだ。その瞳は、暗い淵のような闇を孕んだ翡翠色をしていた。
その目がうっそりと笑みの形に歪む。


「嬉しいな…僕もナマエちゃんが大好き。でもね…」


そこで一度言葉を切り、チョロ松はパーカーとその下に着ているシャツを脱ぎ捨てた。

突然の奇行に思わず突っ込む。


「え、え?何でいきなり脱ぐの?」
「だってこうしないとさ、」
「っ!?」


目を疑いたくなるような光景。上半身裸になったチョロ松の脇腹から、節くれだった長い脚が左右2本ずつにょっきりと生えたのだ。その脚はまるで虫、しかも私の大嫌いな蜘蛛のそれにそっくりで、悲鳴が喉に引っ掛かるのを感じた。


「服が破けちゃうからね。」


手首を掴んでいた私の手がチョロ松に絡め取られる。抵抗しようと出した反対の手も掴まれ、そのまま床に押し倒される。至近距離にあるチョロ松の前髪で隠れた額に翡翠色の煌めきが6つ確認できて、やはり蜘蛛だと再認識する。


「ね、ナマエちゃん……これでも同じことが言える?」
「っ…や、」


長い蜘蛛の脚が腰に絡みつき、同時に頬を撫でる。あまりのおぞましさと恐怖で身が竦み、悲鳴すら上げられない。それでも抵抗しなくてはと必死に身を捩る私の首筋にチョロ松がおもむろに顔を埋めた。かぷ、かぷ、かぷりと何度か甘噛みをされた後、チクッとした痛みが走る。どうやら咬まれたらしい。


「やめ、やめて、チョロ松…」
「やめない。やっぱりさ、好きな人には自分のことをちゃんと知ってもらいたいじゃん?でもナマエちゃんならきっと僕のこと受け入れてくれるでしょ?だって僕のこと好きだもんね?」


その言葉に目を見開く。強気な言葉とは裏腹に縋るような眼差しが私を射抜いていた。

そして、その瞳の奥に宿る熱に気づいてしまった私はみるみる顔が熱くなるのを感じた。
ああ、何でよりによって蜘蛛なのかと思う反面、徐々に絆されている自分もいる。


「ん…ちゅ……っふ、ちゅ…」


頭上でまとめられた私の手首にチョロ松は執拗にキスを繰り返す。時折舌先が皮膚の薄い箇所を掠め、ピクッと指が動いてしまうのが恥ずかしい。手首に施される愛撫に陶酔していたからこそ、私は手首が動かなくなっていることに気づくのが遅くなった。気づいた時には私の手首は白い糸によって絡め取られていた。それだけじゃない、私の身体は妙な痺れに支配されていた。


「な、何で…」
「うん?ああ、身体が動かないんでしょ?当たり前だよ。さっき咬んだときにちょっとだけ毒を流したからね。」
「毒!?」


蜘蛛は獲物を喰らう時に毒を注入して身体の自由を奪い、消化液を流し込んで獲物を内側から溶かして体液を啜る。
いつか図鑑で読んだような一文が頭に過ぎる。その瞬間にパニックに陥った私の耳には、チョロ松の言葉なんて届くわけもなかったのだ。


「優しく、するから…」
「いや、いやっ!」
「おとなしく抱かれてよ。」
「食べないでっ!」
「好きだよ、ナマエ…」


暗転。


目を覚ました私の目に飛び込んできたのは見慣れた天井。次に目に入ったのは、同じベッドに当たり前のように寝そべっている裸のチョロ松。何が起きたかは察してほしい。


「あ、起きた?」
「っチョロ松…」
「いやぁ、昨夜はありがとう。ナマエの精気とっても美味しかったよ。」
「…………。」
「それにしてもさぁ、ナマエって結構Mっ気あるよね?あんまりかわいい反応するもんだから、つい調子に乗っちゃったよ。何回も付き合わせちゃったし、僕もちょっといじめすぎたかなとは思ったけど、ナマエも最後には泣きながら腰振ってたし、満更でもなかったでしょ?」
「もういい!もういいから!!」


…察して、ほしい。


「僕とっても嬉しかったんだよ?ナマエとおんなじ気持ちで、ナマエとえっちできて、しかもナマエの身体ととっても相性が良いなんて、こんなに幸せなことなんてないよ。」
「っもうほんとに黙って!!」


ぺらぺらとよく回る口を手のひらで塞ぐ。浮かれているのかへらへらとしただらしない顔をしているチョロ松に軽い殺意が湧く。
何故私はこんな奴が好きなんだろう、本当に理解に苦しむ。
チョロ松は私の手のひらを掴んでそのまま指を絡め、更に言葉を続けた。


「本当はナマエを巣に連れ帰ろうと思ったんだけどさぁ、蜘蛛が怖いみたいだしさすがにかわいそうかなって思ったんだよね。ほら、やっぱり好きな人は泣かせたくないし?それに巣には僕の兄弟もいるし、それぞれ女の子連れ込んでるし、そんなとこにナマエを連れて行きたくないしね。だから今日から僕がここに住むよ。」
「ま、待って待って、何言ってるの!」


流れるように問題発言をするチョロ松にすかさず待ったを掛ける。
昨夜本性を現したチョロ松を見たが、あれは本当に無理だ。あんな大きな蜘蛛と暮らせるわけがない。普通に怖い、無理。


「やっぱり好きな人の傍にいたいし、昨日みたいなことが今後起きても嫌だしね。ちゃんと守ってあげるよ。だから、いいよね?」


声色は優しいのに翡翠色の目と口から覗く牙がイエスを迫る。悪夢が終わったなんてとんでもない、始まったばかりだった。うっそりと嗤うチョロ松に私はこくこくと首を縦に振るしかできなかったのは言うまでもないだろう。

かくして、私は蜘蛛の糸に囚われたのである。