人間という生物について


鬱蒼と繁る。
なんて言葉が正しく似合いそうな光景が、私の周りをパノラマで囲っていた。
もう一面の、木、木、木。
そのどれもが苔むしており、或は蔦が絡み付き、また或は枯木となり朽ち果ている。そこには爽やかな開放感など微塵もなく、冷たい深海を思わせる静けさと薄暗さと心細さが混然となってひっそりとした空気感の演出に一役かっていた。なるほど。と、私は思う。

なるほど、確かにそれらしい。


暫く散策を続けるが、滅多に人の踏みいる事の無いその地はただ歩くにも苦労を伴う。大地を這う木々の根が、悪意を持って行く手を阻んでいるとしか思えないのだ。脛の辺りまで隆起した根っ子を跨いで、私は此処にしようかなと跨いだばかりの立派すぎる根っ子に腰を下ろす。座るには最適、とは言い難いがまずまずの及第点はあげてもいいかもしれない。

背負っていたリュックを肩から外して湿った落ち葉の上に下ろす。
中からアルミ製の水筒を取り出して、温かい紅茶で一息つけばどことなく気持ちも落ち着いてきた。
口寂しさに何か無かったかなとリュックを漁るとキャラメルが見つかった。迷うことなく包みを剥いて口に放り込む。甘い。
舌の上で転がすと、香ばしい甘味が口の中でほどけてゆく。いつもは直ぐ様奥歯で噛んで味わうところだけれど、なんとなく今日はころころと四角い形を確かめながらじんわりと溶けるのを待つことにした。少し甘ったるくなった口の中を紅茶で満たせば爽やかな優しい茶葉の香りが鼻を抜ける。相性バッチリ。
そう言えば、此れが最後の晩餐になるのかな、なんて。


「ねえ、あんた…何してんの」

え?
突然、何処からか聞こえてきた人の声に私は慌てて周囲を見渡す。
しかしこんもりとしたシダ草の茂みにも、乱雑に並ぶ木立の間にも、人影は見当たらない。

気のせい、か。
首を捻りながら手元の紅茶に視線を落とし、気を落ち着かせようと再びごくりと喉を湿らせる。

「気のせい、とか思ってる?」

再びあの声が、何処からともなく聞こえてくるあの声が、私の思考をなぞるように静かな森にこだました。
一体、なんなんだ。誰かいるのだろうか。もしいるのなら姿を表して欲しい。
姿が見えず、声だけ聞こえるというのは純粋な恐怖だった。よもや幽霊や妖怪なんてオカルトじみたことは言わないけれど、それに近い不気味さを感じるのは確かだ。

「誰?」

私の声に呼応するかのように、ざわざわと木々が音を立てる。
姿は、見えない。

「どこにいるの?」

枝葉が擦れあう気配に、私は咄嗟に首を反らして空を見上げた。目を凝らすと大きな影が目に入り私は、ああ――と胸中で呟く。上、だったのか。

視線の先にとらえた影。そのシルエットを見るに到底人とは思えなかった。ならば、一体何なのか。私が理解するより先に巨大な影はのそりと動くと木の上から滑り落ちるように降りてきた。

「きゃ、」

驚きに短い悲鳴が私の口から飛び出た。けれど目の前に立つ存在を認めると同時、私は恐怖のあまり咄嗟に押し殺した悲鳴が漏れ出ぬように口を両手で強く覆い、ただただ驚愕の思いで眼を剥くしかなかった。

大地を踏みしめる四つの太い足。足元から覗く禍々しい程に鋭く伸びた爪は私を切り裂くには容易すぎる程だろう。
小さなうさぎくらいならば丸呑みできそうな口から生えるのは、獰猛な猫科の動物を彷彿とさせる立派な牙。
巨大な体躯は金色の毛に覆われていた。極め付きは、堂々たる毛並みに走る独特の黒い縞模様。


虎だ。と、私は思う。
虎。そう、虎だ。
でもなぜ、ここに虎が?
こんな状況で理論的な考えなどできる筈もなく私の思考はなぜ?から一歩も進まない。

そんな私を嘲笑うかのよう、虎がゆっくりと私に歩みよった。
大きな身体に相応しい悠然とした足取りはまるで勝利を確信しているかようで、私は慌て立ち上がる。逃げなければ。

「あ、ぁ……」

しかし、私の足は身体を支えるのがやっとだと訴えているかのように震えている。え、嘘だ。そんな馬鹿な。動け、動けと念じようとも、足の震えは止まらない。
このままでは食い殺される。絶望的な確信が、私の身体を恐怖という鎖で支配した。動けない。一歩も、この場から。

「い、や……た、」

助けて、なんて言葉も通じない相手に言っても意味はない。理解はしていたが、それでも口にせずにはいられなかった。

「っ、た…助けて……助けて、たすけ、」

「……あ。もしかして、今食べられるとか思ってる?」


声がきこえた。あの声だ。一体何処から?
自ら出した問いの答えを求め、ゆっくり前を見据える。
そう。答えは、目の前、だ。
私はぱちぱちと瞬きをしながら目の前の巨大な獣を見つめた。彼方から見れば私は随分と呆けた顔をしていたに違いない。
もしかして、と私は思う。今、この虎が、喋ったのか、なんて。
私たちはしばし見つめあった。虎がいるというだけで驚きなのに、その虎が人語を介す可能性が出たのだ。普通に生まれ、普通に生活をして、普通にここまで生きてきた私にはこの状況は異様過ぎた。脳の情報許容量が足りなくて、思考力が落ちるのも致し方ないと思う。
棒立ちの私を見かねたか、虎はぱっかり口を開く。私に食らい付く為でないことは、彼が纏う雰囲気でなんとなく分かった。

「座れば?」

虎の口から聞こえてきたのは、やっぱり人の言葉。
喋った。喋った…虎が、喋った。
かもしれない、が間違いない、に変わる。
これは、夢か何かだろうか。冗談にしてはあまりに手が込みすぎているし、そもそも誰がなんのためにこんなことをするのか分からない。
言われるがままにストンと腰を下ろしたは良いが、未だに理解が追い付かず呆然とする私に、虎が呆れたように声をかける。

「で?」

で、って?
言葉も発せずに首を傾げると、虎は淡々とした口調で問い掛けてきた。

「こんな所で何してんの」

「あ、はい…」

そのあまりにも自然な様子に流されて私は口を開きかける。
けれど、その問いの答えをそっくりそのまま口にするのは憚られた。迷った末に私は口を閉じて答えるのを止める。
それに、質問をしたいのはこっちの方だ。しゃべる虎という訳のわからない存在をそう易々と受け入れられるほど私は頭がやわらかくない。一体この虎は何者なのか。私は抱いた疑問を残らず全て、一気に捲し立てるように吐き出した。

「私よりも貴方、でしょ。何ですか貴方。どうして人間の言葉が喋れるんですか。貴方、虎ですよね?虎が喋るっておかしいでしょ。意味が解らない。何かトリックあるんですか?それともきぐるみ?ロボット?ていうか虎ってまだ日本にいるんですか?」

「……まあいるんじゃないの。俺がいるんだし」


虎はたっぷりと間を取った後に悠然とそう答え、じっと私を見詰めた。その瞳は獣と言うにはあまりに無気力だ。

「本物、なの?」

待っていてもそれ以上虎が話す気は無さそうで、今度は一つ一つ質問をぶつけてみる。

「本物だね。なんなら触る?別に構わないけど」

「い、いい…大丈夫、です」

「ふーん……」

どうやら質問に答えてくれる気はあるようだ。
それにしても、本物の虎だなんて。どう見ても作り物には見えなかったのでそれはそれで納得だけれども、ならば何故虎が人の言葉を喋ることが出来るのか。謎だ。

「人間の言葉が喋れるのは?」

「あー…僕元々人間。気付いたら、いつの間にかこんなになってたんだよね」

あんまり覚えては無いんだけど。
あっけらかんと言ってのける虎の言葉に、私はそんな馬鹿なと顔をしかめる。元々人間だと主張する虎。意味がわからない。でも、それを言うなら虎が喋るという時点でもう既におかしい。理解できない。馬鹿みたい。意味なんて求めても無駄なのかも、しれない。

私は考える事を止めて、疑問が浮かぶまま虎に問い続けた。
どうして虎になったの?
虎になる前はどんな人間だったの?
人間には戻れないの?

投げ掛けたいくつもの問いかけに、虎はたいてい「覚えて無い」と答えた。
それでもちゃんと答えてくれた質問もあって、彼の話を要約するとつまりこういうことらしい。
虎になる前は人間だった。気が付いた時にはもう既に虎になっていた。虎になった原因も分からない。戻る方法も心当たりはない。
記憶は人間の時のものと、虎になってからのものがあるが、人間の時の記憶が徐々に無くなっているような気がする。
時折、意識が曖昧になりその状態ではおそらく虎としての本能のまま行動しているのだろう、食事とか。

話を聞きながら私はふと思い出す。そう言えば昔、似たような内容の小説を読んだ気がする。
中学か高校時代の教科書に載っていたあの話。虎となった主人公が昔の友と語らった後、結局あの主人公はどうなったのだったか。

「名前は?」

私の問い掛けに、虎は少し考えて、「一松」と呟いた。

「数字の一に、松の木の松。で、一松」

「一松?」

変な名前、と浮かぶ率直な感想は自分の胸に押し止めておくことにする。敢えて言うことでもない。

「そう、一松。松野一松」

一松と名乗る虎は噛み締めるように自分の名前を口にして、それから随分とぼんやりした様子で虚空を見上げる。その何処を見てると知れない瞳を覆い隠すように閉じかけた瞼は、何かを後悔しているようにも見えた。けれどそれを指摘する程彼の事を知っているわけでもないし、虎の表情なんて実際問題よくわからない。結局、私は黙ってその姿を見つめるだけに留める。
一松は暫くの間じっと半開きの瞳で空を見つめていたかと思うと、ぼそりと息を吐き出すように声を上げた。

「僕さ、六つ子だったんだよね」

「六つ子?」

それはまた珍しい。私は相槌の要領で彼の言葉を繰り返す。
しかしいくら珍しいと言えど、目の前にいる自称元人間の喋る虎と比べてしまえば六つ子だろうが七つ子だろうが全然普通だ。
そんな私の胸の内を知ってか知らずか、一松は記憶を辿るようにぽつりぽつりと語り始めた。私はそれを、静かに聞く。

「そう、六つ子。自分とおんなじ顔が六つある…悪夢だろ。性格も多少の差はあれど揃いも揃ってみんなクズ。まあ、僕が一番のクズだったけど」


彼は唇をつり上げて牙を見せた。
それはおそらく自嘲の表情なのだろう。そう思うと、私はなんとも言えない気持ちになってしまった。彼には自虐の傾向があるのかもしれない。


「僕は、人間だったんだよ。すげークズだけど、生きる価値もないゴミみたいなやつだったけど、でも人間だった。その時の記憶だって持ってる。今まで忘れてたこともあるし、今も忘れてることだってあるけど、でもあんたと話してる内に思い出してきたよ、だんだん。
俺は松野一松。六つ子の四男だった。兄弟には適当なやつとか痛いやつとか腹黒いやつとかいて、でもそれなりに居心地は良かったんだよ、今思えばさ。
僕は独りになりたかった。独りになりたいって思ってた。でもそれ多分、思い込みだったわ。本当に独りになってから、こんな姿になってから気付きました、ってやつ。よくあるパターンだよ。使い尽くされてる。ネタにもなりゃしない。
今さら気付いてももう遅いって。気付いた時にはどうしょうもなくなってる。そりゃそうだ。だって俺は今、虎なんだから。そりゃ、戻れるなら戻りたいよ。まあ、そんな気持ちも等の昔に消えたか……うん、どうなんだろう。
でもさ例え虎として生きるにしたって、人間の時の記憶なんて邪魔なだけだろ。成りきれないんだよ。だって僕人間だし。虎じゃない。でも姿形は虎で、中身だってだんだん虎に近づいているんだろうなって、分かる。いや、なんとなくだけど。
こんなことなら、今までの記憶なんて全部消えてくれた方がましだろ。全部全部忘れたい。でも、やっぱり忘れたくない。なんだろうな、この矛盾。あー…、俺なに言ってんだ。
とりあえずさ、誰でもいいから、松野一松っていう存在を誰かに覚えていてもらいたいって、それだけ。それだけだから……てかなんだよそれ、今さら過ぎる。でも、今さらでも、なんでも、俺は、僕は…僕は、独りになりたくない。誰かと一緒にいたい。

あんたも―――」

彼は一度ここで独白を止め、ぼんやりとさ迷うだけだった視線を私に向けた。

「――あんたも、多分そう思うよ」

私も?言葉の意図が掴めずに、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
一松は私を見据えたまま、少しばつが悪そうに唸り声を上げる。威嚇されているようにみえ、ちょっと怖いから止めて欲しいなぁなんて呑気な事を考えていた私の不意を突き、彼は至極軽い調子でこう言った。

「君、自殺しに来たんじゃないの」

と。
ずしりと身体を纏う空気が途端に重たくなったような気がした。粘度の高い液体の中にいるかのように、指先一つ動かすのさえも億劫で、どろりとまとわりつく何かのせいで酷く愚鈍な動きになる。
逃げ出したい。けれど気持ちとは裏腹に、そうはさせるかとまるで私を押し潰すかのように増していく圧迫感。私はピクリとも動けずにただじっと、耐えるしか無かった。
そうなのか、バレていたのか。重たい口を開けて、私は絞り出すように声を上げた。

「ど、して…分かったの?」

「なんとなく。つうか、こんな場所に一人で来るとか、それしか無いでしょ」

「そう……もしかして、私以外にもそんな人、見かけたことある?」

「あんまり数は多くないけど、何人か。でも、生きてる人間はあんたが初めて」

「そう……」

私は顔を伏せて唇を強く噛みしめた。
そう、私は今日、この場所に、死ぬつもりでやってきたのだ。一松のせいで予定は狂ってしまったが、本来ならもうとっくに薬を飲んでいた頃で、今、息をしていたかも分からない。


「死ぬの?」

一松が問う。

「うん、死ぬ。死にたい」

私が答える。

「それ多分思い込みだと思う」

「違う。私は貴方と違うから。私は貴方と違って独りなの。誰もいないの。私がいなくなったって、誰も気付かない」

「そんなわけないじゃん。思い込みだって、それ」

「違う。思い込みなんかじゃない」

「ねえ、本気で死ぬわけ?」

「そうだって、言ってるじゃない。何でそんなこと聞くの?もしかして、自殺を止めてるつもりなの?だったら迷惑だからやめて」

「別に、僕に止める義理無いし。本当に死にたいなら仕方ないんじゃないかって思うけど……ただよく考えろよって話。後悔しても、遅いから」

そんなこと、分かってる。
何も言い返さない私に、一松は背を向けた。あ、行っちゃうんだ、と少し心細く感じた自分に嫌気が差す。

「あとここで死んだら多分俺に食い散らかされるから。それだけは覚えておいて」

じゃあ、と言い残して彼はわしわしと落葉を掻き分けて遠ざかる。去り際はなんとも呆気ないものだ。
徐々に小さくなってゆく足音と共に、やがて一松はその姿を消した。

あれは、なんだったのだろう。
ポツンと一人残された私はあの卑屈で素直じゃなくて不器用な性格の喋る虎、一松の事を考える。
よく考えろ、と彼は言った。

私はリュックの内ポケットに仕舞われた青いカプセルを思い描く。
それから、今まで生きてきた私の記憶を辿り、その合間合間で一松の話を思い返す。

このまま帰ってしまおうか。ふと過る選択肢の一つを選ぶのはとても容易なことだろう。
でも多分、このまま森を出て今までの暮らしに戻ったとしても私はまたこの衝動を繰り返す。
死ぬ気でやれば何でも出来るなんて嘘だ。だって死ぬ方が頑張るよりも数倍も簡単。ただカプセルを一錠、飲めばいい。それだけなんだ。

気付けば、握りしめていたコップに残っている紅茶はすっかり冷たくなってしまっていた。
一度中身を地面に捨てて、もう一度新しく温かい紅茶を注ぎなおすことにした。アルミ越しに感じる熱で指先を温めながら私は紅茶を口に含む。美味しい。
一口、一口と、味わいながら飲んでいるとどうしてだろうか、たまらなく悲しくなってきた。理由も分からないまま涙を流して、私は泣きながら紅茶を飲む。
そんな状況でも、やっぱり紅茶は美味しくて、温かい。
死んでしまえばもうこの美味しさを味わうことも、出来なくなってしまうのか。

当たり前の事をぼんやりと考えながら、私は一松の言葉を思い返す。後悔しないように、なんてそんなの無理。


ねぇ、どうしよう。困ったなぁ。


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松野一松は、人の心を持った虎だった。

ただ常に人の心を持っているわけではない。
一松は時折自我が途切れる事があった。自我が失われている間の記憶は曖昧だったが、その曖昧な記憶の中で一松は自分が何をしていたか、満たされた腹と鼻腔にまとわりつくような血の生臭さから理解もしていた。
当然、その時は人の心など持っていよう筈もない。


だから、一松が自我を取り戻した時、森で出会った少女があれからどうなったのだろうかと気にかけたのは、当然のことだった。

あの場所に行こう。と一松は思った。
少女と出会ったあの場所に。


一松にとってこの森は庭のようなものだった。あの場所が何処にあるかだって、彼にはなんとなく感覚として理解出来るのだ。

しばらくも歩かない内に目当ての巨木が見えてきた。彼はそちらに歩み寄り、ぐるりと辺りを見渡した。
そこは少女と出会った場所に間違いは無かった。その証拠に、彼女が腰かけていた根の傍らにリュックサックが残されている。

だが、どうにもおかしい。
一松は不思議に思い首を傾げた。

確かに彼女の臭いが残っていたその場所には、けれどあるべきはずの女が存在してはいなかった。生きている少女も、死んだ少女も。
まさか意識が途切れた間に食ってしまったのだろうかと不安に思ったが、よくよく探してみようとも血の一滴肉の一片すらも残されてはいなかった。
どういうことだろうか。

あのまま帰ったのだろうか。しかし、鞄を置いたまま帰るだろうか。それとも、別の場所に移動したか、それとも……考え込みかけた一松の目に、地表を這うように存在する花が映る。そいつはもう枯れて萎れて、けれども確かに生きていた。

なるほどな。
一松は我知り顔でひとりごつ。

人間が虎になることもあるのだから、花になることもあるのだろう。
そういうことで、いいんじゃないか。

枯れた花はちっぽけで、惨めで、けれど胸を突くような凛々しさがあった。
それにあいにく虎となった自分が見てもちっとも美味しそうには感じられず、食い散らかす心配もあるまいと一松は心の底から安堵した。

良かったんじゃないか。
一松は鼻先を萎れた花弁に近付けて、僅かに触れさせた。


「ねぇ、あんた名前は?」

彼の口から紡がれた言葉は、とても優しく響いた。
枯れた花はそよりとその身を震わせただけで一松の問いに答えることは無かったが、それでも彼は構わなかった。