凶事に踊りゃんせ


「不運だよねえ、あんたの人生。何がって、一番は僕に出会ったことだよ」

 初めて彼に出会った時に言われた言葉は、今も頭の奥にこびりついている。果たして、本当にそうなのだろうか。

 確かに私は不幸の星の元に生まれたのだと、自分でも昔から考えてしまうくらいに運の悪い人生を送ってきた。おみくじはいつも大凶だし、旅行や大切なイベントがある日はいつも雨。試験や面接の日は決まって電車が遅延して、財布や携帯を紛失したこと数知れず。スーパーへ買い物に行くたった5分の道のりの間にひったくりに合ったり、たまたま入ったカフェで隣の席に座っていたカップルの喧嘩の巻き添えをくらって水をぶっかけられたりしたこともあった。
 そんなこんなで生きてきた二十余年、ある日、私が突然降り出した雨にずぶ濡れになりながら一人暮らしのボロアパートに帰宅すると、家の中に見知らぬ男が立っていたのだ。

「だ、だれ、誰ですかあなた……!人の家に勝手に!どうやって……?!」
「……ああ、別に怪しいものじゃないんで」

 虚ろな瞳でそう言った男は、どこからどう見ても不審者以外の何者でもない。すぐさま通報しようとその男と距離を保ちながら鞄に入っていたスマホを取り出す。しかし、さっきまで部屋の奥にいたはずの男は私が一瞬目を離した隙に、どういうわけかすぐ目の前に立っていて、スマホを握りしめている私の腕を掴んだのだ。ひっ、と声にならない声が喉の奥で鳴って、しかし視線をそらすことも、その場から走り去ることもできず、私は1ミリも動けないままその場に固まった。

「抵抗しても無駄だよ……今日からあんたが僕の獲物だから」
「え、獲物って……何、それ……や、やだ、離して……!」
「とりあえず通報したいならしてもいいけど……どうせ意味ないよ」
「意味ないって、何で……」
「だって、ほら」

 掴まれた腕はそのままに、男が促すように顔を向けた先へ同じように視線を動かせば、私の目には到底信じられないような光景が飛び込んでくる。玄関に備え付けられている全身鏡には、本来ならばそこに映っているはずのものが映っていなかった。私の腕を掴んでいる、男の姿だ。

「ば、ば、ばっ……化け物……!!」

 私の姿しか映し出されていない鏡に向かって大声で叫べば、確かに目の前にいるはずの男が「……正解」と言って、笑う。
 そこで、私の意識は面白いほどに軽やかにフェードアウトした。


 それが、彼との出会いだ。
 今でも時々信じられなくなるが、彼は人間ではなく、フィクションでしかないと思っていた『妖怪』という存在であるらしい。その中でも、貧乏神という、そういった知識に疎い私でも知っている名前を持つ妖怪だった。さらには人ならざるものであるのに、人名まであると言う。一松。それが彼の名だ。
 妖怪にも名前があるものなのかと驚いて尋ねれば、見た目のよく似た兄弟がいるから区別がつくように名付けられたらしい。妖怪にも兄弟がいるのかとさらに驚いたけれど、それ以上は私も何も聞けなかった。

 それから私の部屋に住み着くようになった一松くんと、奇妙な共同生活は始まってしまったのである。私の住んでいるアパートは築年数も古く、部屋にはクローゼットではなく押し入れがあるのだが、その中はほとんど彼専用の小部屋状態になっていた。一松くんが住み着いてから早くも数週間が過ぎようとしているが、未だに朝起きて押入れから彼が出てくると思わずびくついてしまう私がいる。

「お、おはよう、一松くん」
「……おはよう」

 私より少し遅れて起きてくる一松くんと、朝ごはんを一緒に食べるのが何故か日常化していた。一松くんがここで暮らし始めたころ、数日間なにも食べていない様子だった彼にご飯は食べないのかと聞けば、「別に食べなくても平気」と言っていたのだけれど、どうせなら一緒に食べようと一度提案してから、二人そろってご飯を食べるようになったのだ。それから私は毎日二人分の食事を作っている。

 こんな風に彼の存在を受け入れてしまっている私にも問題はあると思うけれど、それでも一緒に暮らしていて特に厄介だと感じることはなかった。いや、貧乏神なんて、存在自体が厄介であるのかもしれないけど。それでも、私の人生はもともと不運続きだったのだ。貧乏神に取り憑かれたところで、ちょっとやそっと、風向きが変わるわけでもない。
 本気でそう思っていた。今日、仕事をクビになるまでは。

「もう明日から来なくていいよ」
「……え……どういうことですか?」
「だから、今日で君クビだから」
「な、何でですか?!私、仕事上でミスは何も……」
「いや、ミスとかじゃなくてね?とにかく、もう辞めてもらうのは決まった事だから」
「そんな……!」

 理不尽極まりない解雇に申し立てる暇もなく、あっさりと首を切られた私はその日中に荷物をまとめて会社を追い出された。
 不運続きの人生だったけれど、こんな仕打ちは始めてだと途方にくれながらアパートの一室に帰れば、呑気に湯のみで茶をすすりながら私を出迎えた一松くんが口元を歪ませて笑う。

「……ついてないよねぇ」

 そこで、私は会社でクビを言い渡された時から家に帰ってくるこの瞬間まで、溜めに溜めていた気持ちを爆発させるように声をあげて泣いた。……何で私がこんな目に遭わなきゃいけないの?それは、この何年もの間、何度も考えてきた疑問だった。そしてたどり着く答えはいつも決まっている。不幸な星の元に生まれたから。私の人生は、そういう人生だから。それに、尽きてしまう。
 加えて今は貧乏神まで呼び寄せて憑かれているのだから、どんどん運が下降していっても仕方ない。……仕方ない?そう、仕方ないんだ。だけど……。

「……何でこんな事するの」

 もう全て誰かのせいにしてしまいたかった。私のせいじゃない。私の人生がダメなのは、私の運が悪いのは、全部誰かのせいなのだと。その誰かに打ってつけの相手が今まさに目の前にいる。
 一松くんは大泣きしている私をぎょっとした顔で見つめていたが、その問いを耳にすると、無表情に戻り淡々と口を動かし始めた。

「他人の不幸は蜜の味って言うでしょ……そういうもんだよ」
「何で……?そんなの、私じゃなくてもいいでしょっ……」
「……まぁあんたじゃなくても他の誰でも同じようなもんだけどさ、でも……」

 一度言葉を区切り、もったいぶるように息を吐くと、一松くんはにやりと嫌な笑みを浮かべる。

「あんたの泣き顔最高にいいね……」

 その不気味な笑みにぞくっと全身に鳥肌が立って、今度は声をあげることもなく、こみ上げてくる何かに耐えられなくなったようにボロボロと泣いた。
 もうやだ、こんな人生。やめたい。やめたい。やめたい!!全部この貧乏神のせいだ、悪いのは私じゃなくって、この得体の知れない存在が起こしたものなんだ。だから、悪いのは私じゃない。
 最悪な日だ。心の底からそう思った。けれど、この日から私は少しずつ、こんな貧乏神に踊らされたまま永遠に嘆いているままでいいのかと疑問に思い始める。そうして仕事をクビになって1週間経ったある日、私はあることを決意したのだった。

「もう、思うようにはいかないから」
「……は」
「もう一松くんの思うようにはさせない」
「……何の話」
「私を不幸にして喜んでるみたいだけど、こんなの全然平気だから!もう嘆いたりしない!絶対幸せになってざまあみろって笑ってみせるから!!」

 もう不幸だ不運だと悲しむだけの日々は嫌なのだ。その場に立ち上がり、あぐらをかいて座っている一松くんを見下ろしながらそう言い放てば、彼は驚いたように目を丸くする。

「何それ、宣戦布告?……ま、何でもいいけど。あんたの運全部なくなるまで、どっちにしろ僕は離れられないし」
「……え?そうなの?」
「うん。不幸のどん底味わうまでこのまま」
「……そんな……何で?」
「さぁ。そういう決まりだから」

 とりたて気にする様子もなく、さも当たり前のように言ってのけた一松くんは、何事も無かったように呑気にお茶をすすっていた。その姿を見て、私の決意はさらに強いものへと燃え上がっていく。決まりだか何だか知らないけれど、絶対に絶対に不幸せだなんて嘆いてやらない。幸せだって、貧乏神がいても私は幸せなんだって、いつか心の底から叫んでやるんだからと固く心に決めてふふんと鼻を鳴らした。





 その日から私は懸命に仕事を探して、毎日のように面接や職安へと足を運ぶようになっていた。その甲斐もあり、契約社員として職に就くまではそう時間もかからなかった。仕事が決まった日は浮かれ気味で家に帰り、いつものようにこたつでボケっとしている一松くんに自慢げにその事を伝えたのを覚えている。

「ね、私仕事決まったよ!明日から出勤、すごいでしょ?」
「……ふーん、そう」
「ふふーん、悔しい?私いますっごく幸せだよ」
「……別に。ま、悪いことが起きないといいね」
「起きないって!これから私もっと幸せになるから。あ、明日は張り切って晩ご飯すき焼きにしちゃおうかな」
「あんまり浮かれない方がいいと思うけど」
「そう言って嫉妬してるだけでしょ」

 すき焼き楽しみだなぁ、と見せつけるように口にしてみるが、よくよく考えれば結局その晩ご飯は一松くんも共にするのだけれど。そんな事もお構い無しに私は仕事が決まったことにウキウキと心を弾ませていた。
 一松くんは何か言いたげな目で私を見ていたけれど、それ以上は口を開かず、じっとりとした視線を逸らすと付けっぱなしのテレビをぼんやりと眺めていた。




 やっぱり心の持ちようなのだ。幸せだと思う心がきっと幸せを呼び寄せるのだ。そう信じて、私は来る日も来る日も休まず仕事に励んだ。私が不幸だと嘆かない限り、いつか必ず幸せだと思える毎日が訪れるはずだと考えて。

「あ、ミョウジさんこれ今日中にやっといてくれる?」

 例え理不尽に仕事を押し付けられても。

「今日は残ってこの仕事片付けてくれる?ごめんね」

 残業が毎日のように積み重なろうとと。

「ちょっとこの書類ミスしてるよ!」
「それ私のじゃ……」
「言い訳とかいいから早く直して、時間ないんだから」

 他人の間違いを擦り付けられようと。まだ大丈夫、これくらい大丈夫だから。そう自分に言い聞かせて、毎日重い足取りで仕事場へ向かった。



「……ただいま」

 帰宅するころには、22時を過ぎるのが当たり前になっていた。もう心身がすり減るくらいにへとへとで、本当は家へ帰ってくるたびに今にも泣き出してしまいそうだった。だけど、弱音なんて吐きたくない。家で待っている一松くんに辛い顔など見せたくなかった。そうすれば、そんなの、一松くんの思う壷だからだ。

「帰ってくるの随分遅いよねぇ……仕事大変なんじゃない」
「全然平気!仕事場の人みんないい人だし、残業あるのなんて普通だから」

 笑顔をつくってなるべく明るい声でそう告げれば、一松くんは何も言わずにこちらをじとっと見つめるだけで、その視線もすぐに逸らしてしまう。どうだ、私はこれくらいじゃ屈しないんだからね!心の中で意気揚々と繰り返してから、遅めの夕飯を、スーパーで買ってきたお惣菜で済ませる。パックのまま机に並べたお惣菜に、一松くんと2人で並んで箸を伸ばした。

「……これ好きだよね」
「筑前煮?」
「毎日買ってて飽きないの」
「このスーパーの筑前煮おいしくない?」
「……どれも普通でしょ」
「そうかな?一松くんは飽きた?」
「……別に」

 ま、どうぞお好きに。吐き捨てるようにそう言うと、一松くんはそれでも筑前煮を口に運んでいる。
 毎日がきっと大変なのはこの彼のせいだというのに、私はどうしてか、1日の中で一松くんと過ごすこの短い時間が、いつの間にか1番心の落ち着くものになっていた。本当にバカみたいだけれど、でも、例え人間ではなかろうと誰かが出迎えてくれる場所にはホッと安心感を覚えてしまう。

「……なに」
「え?」
「……じろじろこっち見て。僕なんか見て何か楽しいの」
「楽しいか楽しくないかって聞かれたら……ちょっと楽しいかも」
「……は」
「こんな事言うの変かもしれないけど、一松くんと居るのはちょっと楽しいよ」

 ぽかんと口を開けて間抜けな顔でこちらを見てから、数秒。ごくりと息を飲んだ一松くんは視線を外しながら呆れたように箸を置いて呟いた。

「……どうかしてるでしょ」

 全くその通りかもしれない。私はどうかしている。だけど、不幸だと嘆いて現実を投げ出すことなく、毎日を前向きに生きているのも初めての事かもしれないと、それは紛れもない一松くんのおかげかもしれないと、私は元も子もない考えを頭の隅に浮かべていた。





 しかし募る疲労に心は誤魔化せても、体までは誤魔化せない。
 ある日の正午を過ぎた頃から、意識がぼんやりとしはじめて、その日の仕事はいつにも増してミスばかり重ねてしまった。ぼうっとする頭のせいでミスの内容も自分の言動もあまり覚えていないけれど、上司に怒られっぱなしでへこへこと頭を下げていた事は覚えている。
 もう体力の限界かもしれない、と思いながら帰宅途中、いつの日かと同じように突然降り出した雨にずぶ濡れになりながら必死に住んでいるアパートを目指した。部屋につく頃には靴までびっしょりと濡れていて、そうして、玄関でストッキングを脱いでいる途中に私の意識は暗転してしまったらしい。
 ゴトッと体が床にぶつかる音が、まるで遠くの方で鳴っているように耳に響いた。









 目を覚ましたのは、それから翌朝のことだった。まず目を開けて視界にうつった部屋の景色に違和感を覚える。あれ、何で私、自分のベッドで寝てるんだろう……。昨日のことは定かではないが、どう頑張っても自分でここまで足を動かしたことは思い出せない。そういえばずぶ濡れで帰ってきたはずなのに、自分の姿を見てみればいつもの部屋着に身を包んでいた。いつの間に……?そう疑問に思いながらもそもそと布団から出て体を起こせば、そこで、ベッドのすぐ横に転がっている物体に私はぎょっとする。物体というか、それは一松くんが体を丸めて眠っている姿なのだけれど。

「一松くん……?」

 呼びかけてみても返事はない。すうすうと寝息を立てて眠っているその姿は、どこからどう見ても普通の人間だった。
 それを眺めながら、私の頭にはひとつの考えが浮かぶ。もしかしたら一松くんが、玄関で倒れた私をここまで運んできてくれたのかもしれない、と。その考えはどうやら正解らしくて、それから目を覚ました一松くんに感謝を告げれば、「……何のこと」と返ってきた。そのぶっきらぼうな誤魔化し方に、私はおかしくなって声をもらして笑ってしまう。

「ここまで運んできてくれたの一松くんでしょ?」
「……さぁね、自分で布団まで歩いたんじゃないの」
「ねえ、服も着替えさせてくれたの?……下着見た?」

 その言葉に、逸らされていた視線がこちらを向いて、それからまたのっそりと逸らされる。そしてちょっとピンク色に染まった頬と、だらしなく緩んだ口元が見えた。

「……黄色の花柄」








 おかげさまで、と言うのもやはりどこか間違いな気もするが、一松くんのおかげでその日もなんとか仕事に出勤することができた。最初は疲れが抜けきらない体でふらふらと仕事をこなしていたが、夕方にはどういう訳か思考も体もスッキリとしていて、ミスもなく無事に仕事を終える。久々に残業も少なく、20時をすぎる頃にはアパートへとたどり着いていた。

「ただいまー」

 もはや一人暮らしではなく、どう考えても同棲としか思えない生活に違和感を覚えることなくいつものようにそう口にしながら玄関を上がる。しかし、いつも気だるげに返ってくる声は耳に届かない。

「一松くん?」

 狭い部屋をくまなく見渡してみるが、じめっと床に座っているはずのあの見慣れた姿はどこにも見つからなかった。この数ヶ月間、帰ってくると必ず私を出迎えてくれた彼が、今日はどこにもいない。何で?どこかに出かけてるとか?そもそも彼はここの住人ではないけど、でも、だって……。
 混乱気味のまま一松くんが住み着いていた押し入れを開けてみれば、そこはもぬけの殻だった。乱雑に敷いていた布団も綺麗に畳まれて隅に寄せてあり、細々と散らばっていた物も姿を消している。
 そこで、私はなんとなく分かってしまった。一松くんは、この家から出ていってしまったのだと。貧乏神がついに家から出ていった。それは確かに喜ばしい事のはずなのに、どうしてか私は、きゅっと心臓を掴まれるような寂しさを感じて、空っぽになった押し入れをしばらく眺めたまま動けずにいた。









 それからの日々は上々、とまではいかないけれど、仕事も安定して人付き合いも上手くいきはじめ、それなりに幸せだと思える毎日を送っていた。

「ナマエちゃん今日の飲み会いくでしょ?」
「あ、はい、もちろん行きますよ!」

 ちょっとのミスや、不運に見舞われることはあっても、前みたいに毎日しんどくてぶっ倒れてしまうような事はなくて、だけど。

 どこか、何かが、足りない気がするのだ。








「それじゃあみんな仕事お疲れさま!」

 幹事の掛け声でいっせいに乾杯をして、適当に近場にいる人と賑やかに話し始める。今日の飲み会も順調だった。悪いことなんて特になくて、なのにどうして私の気分は一向に傾いたままなんだろう。

「どうしたのナマエちゃん、元気ないじゃん」
「え、そうですか?」
「なんかぼーっとしてない?あ、俺が隣なの嫌とか?」
「あはは、そんな事ないですって」

 社内でも仕事ができて女子社員からイケメンだと囁かれている先輩に話しかけられ、笑みを浮かべながら返していると、反対隣に座っている同僚の女の子に肘で小突かれる。そっと顔を向ければにやにやとした顔で、その女の子は口を開いた。

「ナマエってばついてるよね、羨ましい〜!」

 ついてるなんて言葉とはかけ離れた人生を送ってきた私は、不慣れなその言葉に瞬きを繰り返してしまう。なんと答えればいいか分からなくて、曖昧に笑って流してしまった。ついてる……?そっかぁ、私にもやっと運が回ってきたのかな。そう思うのに、何故か、上手く笑えない。心の底から幸せだって思うことができない。

「ナマエちゃん大丈夫?」
「え……?あ、大丈夫で……きゃっ!」

 ぼうっと考え事をしているところに呼びかけられて、我に返りながら顔を上げれば、突然こちら側に倒れてきたグラスから零れたビールの飛沫を浴びてしまった。目の前に座っていた上司がごめんごめんと謝りながら、私にお絞りを手渡してくる。……全然、やっぱり、ついていない。私はやはりこういうトラブルを呼び寄せてしまう体質なのだ。
 そう思いながらビールに濡れてしまった仕事着をどうにかしようと席を立つと、そこで、そそくさと店を出ていくひとつの影を見つけた。

「……一松くん?」

 どうしてか、私の頭には彼の姿が過ぎる。そして気づいた時にはその名を口にして、それから、その影を追うように店の外へと足を動かした。


 店を出て周りを見渡してみれば、人ごみに消えていく背中が、だらしなく丸まった猫背が、視界に映る。それからはもう後先考えず、私は駆け出してしまっていた。走って、人ごみをかき分けて、誰にも見えていないような、ううん、実際に私以外には見えていないだろうその寂しげな背中を追う。

「……一松くんっ!」

 交差点を渡りきったところで、私はついにその腕を掴んだ。びっくりしたように振り返るその瞳と、不審がって横を通り過ぎていく人達が視界の隅にちらついた。そこには確かに、数週間前、最後に見たときと変わらない姿をした一松くんがいる。

「……どこ行ってたの」

 思わず口をついて出た言葉に、私自身も少し驚きながら、けれどしっかりと視線を逸らすことなく一松くんを見つめた。

「どこって……あんたに関係ないでしょ」
「関係なくないよ。だって一松くんは、私の……」
「……あんたのなに」

 そこで言葉は途切れた。一松くんは私にとって、どんな存在なのか。それをどう口にしていいのか分からず、私は躊躇って口を閉じてしまう。
 一松くんは、私を不幸にする存在だ。不運を呼び寄せて、幸せを奪って、不幸のどん底に突き落とすためにここにいる。そうだよね?貧乏神って、そういうものなんでしょ、一松くん。

「……獲物、なんでしょ」
「……え」
「最初に言ったよね、獲物だって」
「……まぁ、言ったかも」
「私の運がなくなるまで離れられないんじゃなかったの?」
「………………」

 その問いに一松くんは答えることなく無言で俯いて、勢いよく私の腕を振り払うとまた背を向けて歩き出してしまう。

「ま、待ってよ一松くん……!」
「……もう充分でしょ、充分ついてないよ」
「……そ、そんなこと」
「これ以上不幸になってどうすんの。もういいでしょ。物好きだよねぇ、あんたも」
「……そうじゃなくて」
「そういうことだよ」

 言い切るようにそう口にして、歩くペースを早める一松くんに、私はまたその腕を掴んだ。道行く人々には、私がひとりで馬鹿みたいに声を荒らげているように映っているんだろうか。一松くんがきょろきょろと居心地が悪そうに周りを見渡す。そんなの、今はどうだって良かった。

「……手、離してよ」
「……一松くん」
「僕なんかと一緒にいない方がいいよ。分かるよねぇ?僕と一緒にいればいるほど不幸になるって」

 薄ら笑いを浮かべて、言い聞かせるように私の顔を見下ろす一松くんに、私は掴んでいた腕をさらにぎゅっと力を入れて握る。

「……じゃあ何で、さっき会いに来たの?」

 一松くんの虚ろな目が、そこで少しだけ見開かれた。
 確かに、一松くんと一緒に過ごした日々は、いつにも増して不運続きで、嘆きたい事ばかりだったけれど。それだけじゃなかった。それと同時に感じる幸せも、ちゃんと存在していたのだ。不幸を対比に置いた幸せじゃなくて、何もないただの平凡な幸せじゃなくて、私は不運な中でも見つけた一松くんと過ごす時間が、一松くんとの幸せが……。

「……別に会いに行ったわけじゃないよ。たまたま居合わせただけ」
「うそ、私に会いにきたんでしょ」
「はっ……よくそういうこと言えるよね……」

 またどこかに消えてしまいそうな一松くんの手を離さないように引いて、その怯えたような瞳を見上げる。

「ちゃんと約束守って」
「……約束って」
「私の運がなくなるまで離れられないって、約束守ってよ」
「……頭おかしいんじゃないの。そもそも約束じゃないし、決まりだから、ただの……」
「じゃあ決まりでも何でもいいから、だから……」

 なんて不運な人生なんだろう。そう嘆いてばかりで、幸せになりたいと願っていたはずなのに、どうして私は不幸に最も近い存在へと手を伸ばしているのか。けれどもう後戻りはできなかった。片手で握っていた一松くんの手に、もう片方の手も重ねる。両の手でぎゅっと掴んだその手は、少しだけ温かかった。

「……そんなに私と離れたいなら、ちゃんと私のこと、不幸にして」

 今度こそ大きく開かれたその目には、しっかりと私の姿が映っている。我ながらおかしな願いだ。それでも、お似合いでしょう。こんな私の人生と、そんな役割の彼に。

「……いいの?」
「うん」
「……本当にいいの、僕で」
「うん、一松くんがいい」
「……やっぱり物好きだよね」

 呆れたように言いながらももう私の手を振り払うことなく、そっとその手を引きながら歩き始めた彼が向かうのは、きっとあのボロアパートの一室だ。私も大人しくその手に引かれながら、足を動かしながら考える。

 明日からまたきっと、更に不運続きの人生が訪れるのだろう。それでも一松くんがおかえりと私の帰りを出迎えてくれるのならば、例え訪れる不幸が彼の手によるものだとしても、それでも私は嘆いたりしない。不幸のどん底はきっと訪れない。運が尽きるまで離れられないというのならば、死ぬまで永遠に離れることはないだろう。彼といることで、私の幸せが満たされるという不幸なメカニズムがそこにあるのだから。

「……本当に不運だよね、あんたの人生」

 少し前を行く猫背を見つめながら、前に自分が口にした言葉をうっすらと思い返していた。絶対に幸せになって見返してやるんだからと、豪語したあの日の自分の言葉を。
 かくして私は、人生最大の不幸であり、幸せである、一松くんという存在を手に入れたのだ。


「ざまあみろ」