心底死にたいと思っていた



私にはとんでもなくかっこいい恋人がいる。彼は、通りすがった女の子の誰しもが振り向いてしまうような容姿で、それでいてサブウェイボスという世間から憧れられる存在。同時に彼は私の上司であり、女性職員の憧れの的。雲の上の存在と言っても過言ではなかった。
そんな彼が私のことを好きだと言って抱きしめてくれる事実に最初は頭が追いつかなかったものだ。あのいつもクールなインゴさんが顔を赤くして私に思いを告げてくれた瞬間、私はもう死んでもいいような気がしていた。みんながうらやむサブウェイボスのインゴさんの隣にふさわしい人はどんな人だろうと、心の中ですでに諦め半分というような心持でひっそりと彼のことを思っていたから。そんな私がインゴさんの隣に立つ日なんて想像もつかなかった。

「これで何回目だっけ」

ぽつりと呟いてロッカーを閉める。扉を閉めた手が、ずるずるとそのままロッカーのひんやりとした壁を伝って、下に落ちていった。

今日一日の勤務も無事終わって着替えようとしていたところだ。
今日は仕事帰りにインゴさんと食事に行くという約束をしていて、その足取りはいつも以上に軽かった。彼とは同じ部屋に住んでいるから顔なんていくらでも見れるのだけど、いつも忙しくて一緒にどこかに行く機会なんてさらさらない。だからこそ、忙しい合間を縫って私のために何かしてくれようとする彼の気持ちが嬉しかった。旅行でもなんでもない、たかが一回の食事ごときで舞い上がってしまう私は彼と付き合い始めた頃から何も変わってはいなかった。

でも、この涙を我慢する耐えがたい気持ちも何も変わってはいなかった。インゴさんと出かける日だから、いつもより少し良い服を着てきたのに、それが見るも無残な姿になっていた。ロッカーを開けて、手を伸ばしたらただの布きれを私は掴んでいた。肌触りのいいその生地は、出勤してきたときと変わっていない。それを出して広げてみると、明らかにはさみかカッターで引き裂かれていて、とても着れたものじゃなかった。
まだ制服を着ている時点で家には帰れるのはいい。それだけで十分運がいいのかもしれないけれど、これでインゴさんとの約束の日に制服のままという不恰好な格好で過ごしただろうか。怒りというものも湧いたが、それを犯人にぶつけたところで証拠がない。怒りも次第に涙に変わって、心をひどく痛めつけた。

「不釣り合いなのは分かってる」

私が絶世の美女でもなければ、まわりから愛されるような性格を持っているわけでもない。小さなことでよく嫉妬したりしてしまうような器の小さい奴だし、インゴさんのように歩いていたら振り返られたことなんか一度もないような奴だ。私とは何もかも真逆なくらい完璧なインゴさんの隣に立ってるのか私もずっと不思議だった。でも、寝ても覚めても本当の現実で夢なんかじゃない。そんなはずなのに、それは間違っていると周りから間接的に言われているような気がした。

ばらばらになった布きれを更衣室にあるゴミ箱に勢いよくつっこんだ。私が彼の隣に立っているのが間違っているなら、直接そう言えばいいのに。こんな卑怯なやり方、ばかばかしい。そう毎回思って、制服のままギアステーションの入口へと私は向かった。

「すみません、お待たせしました!」

「遅い」

「少し、仕事が手間取ったもので」

笑顔を張り付けて私はすでに待っていたインゴさんのところに駆け寄った。相変わらずの冷たい反応で返されるけど、彼はそういう人なんだともう私は知っているからその言葉に何も思うわけでもなかった。

はずなんだけど、さっきのばらばらになった服を思い出して一瞬にして心が淀んでしまった。インゴさんのことは信じているはずなのに、つい疑ってしまう弱い心。こんなに私が悩んでいるのにどうして気づいてくれないの。こんなに貴方のせいで傷ついているのに、どうしてなにも知らないの。そんなことは私が口にも出さずに、彼の前では笑顔を張り付けているからに決まっている。だけど、インゴさんの恋人という立場に高望みして彼にむちゃくちゃなことを押し付けているだけなのだ。本当に私のことを好きでいてくれるなら、気づいてくれるはずだと。「大丈夫か」と一言言ってくれるだけで、私は救われるのに。

私に背を向けるインゴさんにそう思いながら、早くついていかなければと思って足を前に出そうとした。でも、どうしたって右足も左足も前には出ず、ぴくりとも動こうとはしない。まるで鳥糯にかかったようだ。そうしているうちにも彼はどんどん歩いて行ってしまうのに、私は一歩も動けずにいる。その彼との距離が心の距離を表しているようでもあると、我ながら自虐的なことを思い浮かべた。笑えない。自然と顔が俯いてしまっていた。

「なまえ」

呆れるように声を掛けられた。いたって普通の声のトーン。
わざわざ私のところまで戻ってくるという手間が出来てしまったのだから、当然なのだと思う。私は地面できたインゴさんの影を見つめたまま謝った。

「すみません」

「…………」

「ごめん、なさい」

すると、見つめていた彼の影に涙が一粒落ちて、それが地面に着く頃には次の涙が落ちていった。それの繰り返しで、だんだん視界が滲んでいく。ずっと我慢してきたのになあ。一度ストッパーが取れてしまってはなかなか元に戻らないみたいだった。面倒なことが大嫌いな彼にとっては私なんかすぐに放って自分だけさっさと行ってしまいたいに違いない。私も伊達にインゴさんの隣に立たせてもらってきたわけじゃないから。もう終わりだと思ったら、なんだか気持ちが軽くなっていくような気がする。もう頑張らなくてもいいのだと。

「なまえ」

「っふ、ぇ…先に行っててください。すぐ、っひく、行きます」

「お前、……」

「っや、目に、ゴミが」

「どうして私を頼らないのです」

ここまできてまだ言い訳を続ける私の口はもう私の思い道理に動いてはいなくて、とにかく何か言おうと思って出た言葉だ。まだインゴさんに捨てられたくないと言う気持ちが私の中にあったのか。それにびっくりしつつも、もう楽にしてほしいと願っていた。
すると、彼から耳を疑ってしまうことを言われた。

「私に言えば、すぐにお前を守ってやるというのに」

「だって、」

「私はお前のなんなのですか」

「…………」

「言ってみなさい」

「……彼氏」

「…だというのに、なまえは少しも私に甘えてこない」

「だって、」

「この期に及んでまだ言い訳ですか」

私の心を見透かされているかのように言い放った。そして彼の手が未だに地面へ向けている私の顔を包んで自分へと向かせる。目を反らすなとでも言うように、真っ直ぐ私を見下ろしていた。

「なまえは私にどうしてほしいのです」

「っ、インゴさん」

「お前が言うことなら、私は」

滲んだ視界の中で彼も泣きそうな顔をしていた。ヒーローは遅れてやってくるものだ。



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