やってしまったと思った。
気が付いた時には、私の口はだらしなく中途半端に開かれていて本当に小さな声で「あ」と漏らしていました。私でも、とんだ阿呆面であったと思います。
彼女の手をはたいてしまった私の手は未だに空中に漂っており、行き場もなくしばらくはそのままに。私に手をはたかれたなまえはというと、目を丸くして私の顔を見ていました。私は思わずその目を合わせることもせずに、書類に視線を戻し、手はペンを握りなおしてそのまま作業を再開していました。
なまえはというと、しばらく固まって私の傍を離れないまま少し経ち、持ってきた書類をそっと私の机に置いて執務室を出て行きました。

(shit…)

ドアが閉まる音を背に聞いた時、何故か私は落ち込んでいた。目で見て分かるほどの落ち込み方ではないものの、確かに私の気は落ちていました。ついいつもの条件反射というやつでなまえの手を払いのけてしまったのです。いくらなまえのスキンシップの激しいといえども、あきらかに今のは私の思い違いでした。どこからどう見ても。

しかしなまえが、いつも私に当たり障りなく触ってくるためにこう思ってしまったのですから、私は悪くないでしょう。そもそも彼女は英国人をどこか勘違いしているとしか思えません。日本人とは奥ゆかしく、シャイな人種だと把握していたのですが、なまえは初めて会った時から英国式に合わせようとハグをしたり、本場の人間である私でさえしないというのに、なんという馬鹿で小さな生き物だと思いました。私に会うたびにハグするものなので、私もいちいちそれに怒るのも疲れてしまい、近頃は飽きれる一方でしたがなまえが私以外にそのようなことをしているのを見ると、少しもやもやとした感情が湧きあがってくるのを感じたのです。

(あやまりに行きましょうか)

すぐに私は首を振りました。そして、煙草を口から離して盛大に出たのはため息。どうして私がこのようなことを思うのでしょうか。私があんな女一人に振り回されているとでも言うのですか。ばかばかしい。

しかし、近頃はまた彼女が私に近づくにつれ、私の体に触れる指に大きく反応してしまうのも事実でした。私の思考とは反対に反応してしまう体が腹立たしい。

私は先ほどなまえの手に触れた方の、右手を眺めました。何も残っているはずはないのに、彼女の手の感触はまだ残っている。そうだと思うたびに、口元が奮えていつもより心臓が早く脈打っているような気がするのは杞憂でしょう。

なまえのおかげですっかりやる気というものがそがれた私は椅子から立ち上がって、コーヒーでも飲もうと執務室を出ました。どうせ休憩するなら部屋を出て少し歩いた方がいい。先ほどなまえが出て行ったドアと同じドアとくぐって喫煙室もある休憩室へと向かいました。

「なっ、」

「……!」

椅子に座って、心なしか体を丸めているように見えて普段以上に小さく見える。彼女と目が合ってしまいました。
いつもならここで勝手に休憩してないで仕事をしたらどうですかと言うのですが、その言葉は先ほどの私のした行為でかき消されてしまいました。何故でしょう。私はなまえの手をはたいたことになんの悪気も感じていないというのに。
ここでお互いの存在をしっかりと確認してしまった以上は引き返すのは不自然。ですが、なんと声を掛けていいかも分からずなまえの前を素通りして喫煙室に入って煙草を一本取り出しました。ちらりと横目で彼女を見ると先ほどより丸く縮こまっており、まるで猫のようです。

「…先ほどはすみませんでしたね」

「…………」

「返事くらいしたらどうですか」

「えっ…私ですか?」

「お前以外に人間がここにいますか」

「…いません」

「……手を見せなさい」

調子が狂わされるのに苛立ちを感じながら、煙草を咥えたまま喫煙室を出てなまえの前に立ちました。私に手をはたかれた程度で何をこんなに落ち込んでいるのか。なまえの手を取ってみると少し赤くなっていました。そんなに強くした覚えはないのですが、今私の手の中にある小さな手は明らかに痛そうでした。(もともと肌が白いと言うのもあるかもしれませんが)

「チッ」

(舌打ち…?)

「またこうされたくなかったら、二度と私に気軽に触らないことですね」

「は、……?」

「お前に触れられると調子が狂うと言っているのです」

ついでに、私の調子を狂わせた責任も取って頂きたいのですが、それはなまえには荷が重いと言うものでしょうか。



どこかちぐはぐなきみの笑顔はあいまいにぼくの心を掻き乱していく



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