「あ、なまえ」

「ん?…ええっと」

「ああ、そっか。僕、クダリ」

「すみません」

「…本当に記憶喪失だったの」

「うーん…正確にはそうじゃないのかもしれないんですが…」

「そうじゃないかもしれない?」

私は首をかしげる白いノボリさんに何日かぶりに会った。



渚の影 08



白いノボリさん、もといクダリさんという人は首をかしげてそう言った。そういえばこの人にはきちんと事情を話していないのだったと思うのと同時に、やけに物わかりのいい人なんだということを思い出した。人が記憶喪失になったと言ったのにあまり驚かなかったということを覚えている。出会い頭にいきなり抱きついてきたような人だったから、私と親しい人だったのかと思ったけど案外私にはあまり興味を持ってないのだろうか。まあ、そんなことはどうでもいいのだけど。

ギアステーションまでノボリさんと一緒に行き、ノボリさんは仕事なのでそのまま別れた私は今日は駅の構内をぶらぶらとしていた。今日はちゃんと鍵も持ってきたことだし、これでいつでも家に帰れる。まずは帰る場所があるという安心をしっかりと準備してから私は歩き出した。しかし、相変わらずのにぎわいようである。まったくこの街の人口はとても多いようで私はその人の多さに少しうんざりしてしまいそうだ。
そんな中、一通り歩いてみようとしていたところにまたクダリさんに出会ったのである。ノボリさんの双子の弟さんであるらしい。

「ねえ、僕にもくわしく聞かせてくれる?」

「……はい?」

「じゃあ、執務室行こう」

でも、なんだか怖い雰囲気があるのは気のせいだろうか。にこにこと顔には笑顔が張り付いているし、それはとてもこの人に似合ってる。本当に人がよさそうというか、明るそうな人なんだけど、そう思ってしまって知らず知らずのうちに一歩後ずさりしていた。ひょっとしてノボリさんに見慣れちゃったから、彼と重ねて見てしまって笑顔が不自然とか、そんな感じかな。前に会った時は全然そんな風に思わなかったのに、おかしなことだ。
だけど、心の中がざわめいてしかたがない。会ってものの数分話しただけなのに、クダリさんにそう感じてしまうのがとても不思議だった。
だけど、私の手をがしりと掴まれてそのまま歩き出されてしまったのでそのままついていくしかなかった。この人もこの人なりに心配してくれているんだろうか。きっとそうだと信じたい。

「はい、とうちゃーく」

「し、失礼しまーす」

「そんなかしこまらなくて大丈夫!なまえ、何回もここ来てるし!」

「そうなんですか」

「うん、そう。あ、今飲み物入れるね」

私を部屋に通して、そそくさと簡易キッチンへと行ってしまった。私はとりあえず、ソファに座っておく。

「…なまえ、コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーで」

「…、そっか。わかった!もうちょっとまってて」

そう言って少し経つと、湯気をたたせたカップを二つ持ってクダリさんは戻ってきた。私の隣に座ってテーブルにことりと置く。さっきとは打って変わって雰囲気が違っているのがわかった。
口元が笑ってないんだもの。本当にノボリさんになったみたいだった。本当にそっくりで、だけど私はそれが怖いと感じている。

ありがとうございますと言ってから私がカップを取って、コーヒーを一口、口に含んだ時だった。

「僕、なまえが本当はどっちなのかわかったよ」

「何がですか?」

「記憶がないのか、そうじゃないのか」

膝の上に肘をついて手を組んで、真面目な顔をして言った。私でもどっちか分からないことをこの人は今簡単に分かったのかと、半信半疑で話を聞く。コーヒーを飲みながら心の中で、どうせ勘で言っているようなものだろうと思った。

「なまえ、コーヒー苦くない?大丈夫?」

「え、あ、はい…コーヒーは好きなので大丈夫です」

「…………」

「どうかしました?」

「あのね……、なまえコーヒー飲めなかった」

「え?」

「飲み物選ぶときいっつも紅茶。砂糖とミルクたっぷりでね」

核心をつかれたような気がしてならなかった。私は思わず目を見開いていて。
クダリさんが私には目を向けず、静かに言った言葉に私の中で歯車がかみ合ったようにしっくりときた。心臓が途端に早く動き出す。私が忘れていたことが思い出せるような気がした。それを得るにはもっと、

「さっき、コーヒーは好きって言ったよね」

「…………」

「やっぱり、君は僕の知ってるなまえじゃないよ。別の人だ。今ので分かった」

「っ、あの」

「ばかばかしいと思ったよ。だって別人ならどうやって君はここに来たの?そんなSFチックなことを考えるなんて、本の中じゃあるまいし」

「…………」

「でもね」

僕、今すっごく嬉しいんだ。
急に腕が私に向かって伸びてきて、彼の胸に飛び込む。そのまま締め付けるようにクダリさんに抱かれる。囁くように彼が私の耳に直に吹き込んだ言葉がくすぐったかった。そうされてようやく私は動揺から帰ってきてクダリさんの言ったことを飲みこむ。でも、意味がよく分からなかった。

「僕、なまえが大好き。愛してる。ずっと抱きしめて離したくないくらい大好きだった」

「クダリ、さん」

「でも、双子だったからかなあ。ノボリもなまえのこと好きになっちゃって、結局なまえはノボリを選んだ。僕はね、君が記憶がなくたって別人のなまえだってどっちでもよかったんだよ。君がなまえなら。
普通なら馬鹿らしくて考えないことをすんなり受け入れて、やっとなまえは僕のものになるって思ったんだ」

「はなし、て」

「好き、なまえ。僕のものになってよ、……お願い」

今度は泣きそうな声で私に言う。あ、この声聞いたことがある。最近のことだから記憶に新しい。今のクダリさんの声はノボリさんの声に似ていた。そこで私ははっとしてノボリさんのことを頭に思い浮かべた。
ノボリさんはどうなるんだろう。もし私が今ここでクダリさんを選んでしまったら、ノボリさんはどうなってしまうんだ。私は彼らが知っているなまえじゃないとしても、ノボリさんの中では私はまだ本物で。いきなり彼の元から去って行ってもいいものなのか。それには素直に首を縦に振れなかったが、横にも振ることができなかった。
今のクダリさんとの一連の流れで私はここの世界のなまえではないことが証明された。ぽっと出た私の記憶。それはほんの些細なものだったけれど、私がなんであるかを知らしめてくれた。

それを分かったところで私はクダリさんやノボリさんの元にいていいのか。それは私にとって都合のいいことなだけじゃないのか。

クダリさんの胸を勢いよく押し返し、突然のことに反応出来なかったクダリさんは後ろに仰け反った。その隙に私は立ち上がって扉を出て駅のホームへと走る。責任者以外立ち入り禁止の扉を出ると、相変わらずの人の混雑だった。まるで私がここに来た時に似ている。よく分からない状態で頭が混乱していた最初と似ていた。
と思った瞬間、頭が割れるように痛くなって自然と手は頭を押さえていた。痛みに顔をゆがめてこんなにも痛そうにしているというのに、周りは平然と前を見て歩いている。心なしか視界もぐらぐらしてきて、立っているのがやっとだった。そして、そんな私に声が聞こえてきた。

「なまえさまっ!?」

「う、…あ」

ノボリさんだ。なんでこんなにタイミングよくこの人は!頭がそう判断したと同時に立っているのもやっとだった足は不思議も動いていて、ノボリさんから遠ざかろうとしていた。今私のことで精いっぱいの頭の思考回路がノボリさんまで入ってきたら、それこそショートしてしまう。ノボリさんに背を向けて必死に人の間をかいくぐった。ノボリさんよりかは小柄なわりとすんなり走っていくことができたが、ノボリさんは人に当たって上手く追ってこられないみたいだ。私を呼ぶ声はもう小さい。それでも私は、彼からなるべく遠くへと思って走り続けた。

「えき、………電車」

たどり着いた目の前には線路があって、電車を待つ人の列。


それからやっと私は思い出したんだ。



まえ つぎ

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