渚の影 06
「うーん、やっぱり…何も覚えてない」
思い出せる気もしない。ただふらふらとノボリさんのマンション近辺を一人で歩いていた。
ノボリさんが完全にお仕事に行った後、まずは近辺調査だと思い立って、私も玄関をくぐりぬけた。
ノボリさんはおそらくあの駅の駅員さんか何かなにかなのだろう。あの黒いコートからは少し何の職業か分からなかったかもしれないけど、あの関係者以外立ち入り禁止の扉を開くことが出来たということはそうに違いない。ノボリさんのことだから、平社員じゃなくて車掌さんとか偉い人なんだろう。彼と出会ってまだまだ間もないというのにそう思った。
しかし、ノボリさんが駅員さんということは、あの駅に近づかなければ彼に会うことはないということだ。まあ実際はあそこまで行けと言われても、昨日はあそこからは半分眠った状態でタクシーで帰ってきたからそこまでの道も私はよく覚えていないのだけれど、それでもノボリさんと顔を合わせることがない安心感にほっと胸を撫でろした。
家を出て小一時間は経った頃か。街には大きなビルや華やかな店が並んでいる。どこも活気に包まれていて、それが私には疲れを感じさせるほどだった。(たぶん)平日の昼間だっていうのに人通りは多いし、おちおちぼーっとしながら歩いていられない。でも、またマンションに帰ってこられるようにほんの近いところのものだけだったけど、その光景を目に映して何か思い出さないか必死にそれだけに意識を集中させていた。その建物ひとつひとつやすれ違う人に何か引っかかるものはないか、地道な作業だった。
しかし、それにも疲れてきて近くのベンチによろよろと腰を下ろした。
「ここはどこだろう」
何も思い出せなくても何も思うこともなかった。思い出せないことに対する焦りとか、悲しみとかまったくもってそんな感情を抱くことはなくそれは自分でもびっくりしてしまうほどだ。
この街を歩く前から何となく何も思い出せないんじゃないかという予感はしていて、まさにその通りで私は単に疲れてしまっただけだった。心のどこかでもう思い出すことを諦めていたのかもしれない。どうせ頑張っても無理なことだと。
同時に私にとって、そんなに記憶は大事なものではないような気もしていた。その失った記憶はとても重要なものだとしても、今の私にはその重要かどうかすらも分からないのだ。こうして記憶を探すこともただ疲れてしまうだけなら、別になくたっていいなどとベンチに座って一息つくと、そう思ってしまった。飽きずにここから目に入ってくる景色を眺めても何も思い出せやしない。街の名前すら私は知らない。
「そろそろ帰ろうか」
歩いてきた道の中でいくつか求人広告に目が留まって立ち止まったときもあったけど、思えば私には記憶がないのだからアルバイトしようにも履歴書も書けないことに気がついた。住む家にしても私の経歴が必要だ。
可哀想な人であるふりをして人を騙して住み込みでバイト、とか。そんな漫画のような都合のいい話はあればいいのだろうが、現実はそんなにいい話が簡単に転がっているはずもない。途方に暮れて情けなくマンションに戻るだけだった。無駄に大きいマンションの自動ドアをまたくぐる羽目になって、これからどうすればいいなんて分からない。そして私一人で考えないということに不安を覚えた。
その時に頭に浮かんでしまう彼の顔にため息が出た。
*
「なまえさま!?このような場所でどうなされたのですか!!」
「…あ、ノボリさん」
「あ、ではないでしょう!風邪を引いてしまいます!」
「だって、鍵なくって」
「私、なまえさまに鍵は渡していますよね?」
「そんなもの知りませんよ」
「ですが、いつも貴方さまは持っていたはず…」
「…だから、朝言ったじゃないですか」
朝私が言ったことを思い出したのか、はっとして彼は目を丸くした。
本当に情けないことに、家まで無事戻ってこれたのはいいけどその中にまでは入れなくって、私は外で地面に座ったまま夜までノボリさんの帰りを待っていた。つまりは私は鍵を持っていなくて、このようなことになってしまったということ。でも、ノボリさんの家なんか知るわけがないし、そもそもオートロックなんて分からなかったんだ。何回がちゃがちゃと音を立てながらドアノブを捻ったって一向に開かなくて、行く宛てもないし、なによりノボリさんには絶対に頼ってはいけないと思った私はどうせいつかノボリさんは戻ってくると思って今まで待っていた。ノボリさんにだけは頼りたくはなかったから自分で自分を抱きしめるようにして座っていたんだ。
彼の後ろには丸い月が浮かんでいた。気づけば辺りはとうに真っ暗になっていて多かった人気も少なくなっていた。そんな時間まで私もよく待っていられたなと思う。けど、待っていなければ私は路頭に迷っていた。寒いし、座っているのにも疲れたし、もう記憶を思い出すことなんかすることもなくノボリさんのことだけを考えていた。早く帰ってきて散々疲れ切った私に優しい言葉がほしいなあ、と。私はなんて傲慢なんだろう。
ノボリさんの声が聞こえて顔を上げると本当に心配そうな顔をしてくれていた。すごくそれが嬉しいと思った。
「…とりあえず、中に入りましょう。話はそれからです」
「ごめんなさい」
「まったく、あまり心配を掛けさせないでくださいまし。立てますか?」
「はい」
「まず家に上がったらお風呂に入ってください。体が冷えたでしょう」
少々険しい顔をしながら背中を押して、有無を言わさずお風呂に入らされて、やっと体もあったまって髪を拭きながらリビングに戻ると、ノボリさんが「ちゃんとドライヤーで乾かさないと駄目です」と言って私をソファに座らせて私がぽかんとしている間に洗面所からドライヤーを持ってきて、私の髪を乾かし始めた。私はそのどれにも上手く笑顔を作ることは出来なかった。
ノボリさんの大きい手が優しく噛みに触れて、たまに撫でられて、私はとても苦しく感じる。嬉しすぎて苦しい。こんなに人に優しくされたのも、くすぐったいほど好かれたのも初めてだと感じる。そして、これが間違っているということに胸が痛んだ。もう少しこの時間が長く続いてほしいと思ったのは、きっと気のせいだと思いたい。
「さて、なまえさま。お話しましょうか」
「あっ、はい」
「まずは…そうですね。…率直に言いましょう」
「、はい」
「…自分でも、どうかしているとは思いますが…記憶喪失の件が、おかしくないと…思えてきてしまいました」
「…そうですか」
「昨日からいささかおかしすぎます。今日、私が帰ってくるまで待っているくらいならなまえさまは私を頼ってくださるはず…」
「なんでですか?なんで私がノボリさんを頼ると?」
「約束したのです。ここに同居する際にお互い遠慮するのはよしましょう、と」
「…そう、なんですか」
「自分の体をあのように冷やすくらいなら私の元へ当然来るでしょうし…ああ、でも、約束も覚えてらっしゃらないのですね」
ノボリさんは力なく笑った。
「ノボリさん」
「なんでしょうか」
「もう一つだけ言わなければいけないことが」
「……はい」
「私は…あなたのいう“なまえ”さんではないと思うんです」
「それは、どういうことでしょうか」
「私、本当に記憶を失ったかどうか分からないんです。記憶喪失って、何らかの衝撃とか、そういう何か起こったから失うものでしょう?いきなり記憶がなくなるのは少しおかしい」
「…申し訳ありません、言っている意味がよく分からないのですが」
「私、気がついたら駅のホームに立っていて、その時何の痛みも感じなかった…」
「つまりは、…初めから私のことなど知らない、とおっしゃりたいのですか」
「そうです。記憶喪失じゃなくて初めから知らない。人違いなんじゃないかって」
「……ふふっ」
「?」
「っふ、そんなわけがないでしょう」
「何が、そんなにおかしいんですか…」
「顔が同じであったとしても、仕草や性格まで同じなのですか?」
「それ、どういう…」
「なまえさま。貴方さまはちゃんと私の知るなまえさまですよ。その仕草や癖、今まで私がどれほど見てきて…愛してきたか」
急にノボリさんの手が私の頬に触れて、体がはねた。ゆっくり目を開けると、相変わらずの顔だったけど思っていることはすぐに分かった。
そのままずっと彼の手は私の頬にあった。その間、とてもじゃないけどノボリさんとは目を合わせることは出来なかった。
「記憶がなくなっても、そのようなものは変わらないのですね…」
「そんなの、違いますよ…」
「どうせ違うという根拠もないのでしょう?」
「うっ」
「私には、どうしてそこまでして私を拒むのか理解できません」
たしかに、理由を聞かれれば私がそう思ったからとしか言いようがないけど、それでも私は変だと思う。ノボリさんの恋人ではないと思う。
でも、まだどっちか分からないのなら距離を置いて確かめる時間が欲しかった。
「私は……」
「記憶を失くされてしまわれたのは残念ですが…また作ればいい話のことです」
軽く触れるだけのキスをしてすぐに私を抱きしめた。この人の大きな体はかわいそうなほど震えていて、その時私はこの人は抱きつくのが癖なのだと思った。
まえ つぎ
戻る