昼に寝ていた時は見ることはなかったけど、今夜眠って私は初めて夢を見た。それも今となってはぼんやりと霧がかかったように鮮明な映像ではなくてはっきりとは思い出せないけど、たしかに私はその夢の中に登場していた。そしてその存在していた場所も本当にぼんやりとではあるが覚えていた。



渚の影 05



ぱっと目が覚めて身じろぎして時計を見ようとすると、すぐそこにはノボリさんが眠っていた。一瞬ぎょっとして後ずさりしてしまったが、寝ぼけた頭が昨日のことをだんだんと思い出してくるうちに安堵の息が出た。
私の寝顔は散々見られたとは思うけど、彼の寝顔を見るのは初めてだ。それになんだかどきどきした。閉じられた目にくっついているまつげが長く綺麗な銀色だった。気づけばしばらく見入ってしまっていて、慌てて私は首を横に振り、感情に流されてはいけないと思ったが目は私の意思に反してその綺麗な顔を見たいと願ってノボリさんから視線を逸らしてくれなかった。しかし、これが見られるのも今のうちだと思うともっと視線を逸らせなくなってしまう。私は起き上がってノボリさんを起こさないようにそっと近づき、顔を覗き込むようにして彼を見下ろした。やはり文句のつけようのない綺麗な顔である。

「ん、なまえ…さま?」

「あっ、すみません」

「いえ、…もう起きなければいけない時間ですし」

肌もすべすべそうで思わず触ってしまいそうになったところで、ノボリさんの目が半分ほど開いた。びっくりしてすぐに手を引っ込めようとしたら、その手を逆に引っ張られて彼の首筋に顔を埋めてしまった。そのまま私の髪をとかすように撫でて、時折すりすりと顔を寄せてきてくすぐたかった。まだ寝ぼけているようなしっかりとした声ではなくて、あいまいな声が直に耳に入ってきた。
そして、ちらりと目を時計に移したノボリさんはもう起きる時間だと言って私を抱きしめたまま起き上がり、額に軽く唇をつけてから寝室を出てしまった。

「かっこよすぎるでしょう」

もう私の顔は赤く熱を帯びていて、思考はさっきのことしか考えられない。というか、それ以外の仕草とか雰囲気とかがいちいちかっこよすぎてすごく困る。あんなことをされていちいちこんな風になっていたら、このままずっとノボリさんの傍にいたら、絶対に色んな意味でもちそうにないなと深々と思った。

まだ寝起きということもありぼーっとしながらベットの上で未だ一人で固まっていると(非常に間抜けな光景である)、寝室の扉の向こうから水の流れる音がして、それから少ししたら何か痛めているようなキッチンでよく聞くような音が聞こえてきた。ひょっとしてご飯を作ってくれているのだろうか。

何かを想像したところでやっと私の体は動き始めた。

「ノボリさん!手伝います!」

「っふふ、結構ですよ」

今出来上がったところですと、テーブルにはすでに完成されていた朝食が並んでいた。女としてこれはいかがなものだろうか。しかも、テーブルに並んだ簡単ではあるが、いかにも美味しそうな料理を見たら俄然なぜか負けたと感じた。別に勝負もしていないというのに、やはり私にも彼に恩を返したいという気持ちはあったのだ。
それを見て肩を落としてしまった私をノボリさんが見てまた笑った。それから黒いエプロンを外して同じくテーブルについた。そのエプロン姿に気を取られながらも、あまり見ていてはいけないと思い目をそらしながら私の分まで用意されていた朝食を見て反射的に私も座る。

「さて、いただきましょうか」

「うう、…すみません」

「では、いただきます」

「…いただきます」

「ああ、そういえば」

申し訳ないと思いつつ、箸を取ってご飯に手をつけると見た目通りの味で美味しくて、箸が止まらないでいると急にノボリさんが口を開いた。

「昨晩は何故あのように泣かれていたのでしょうか?何か嫌なことでも?」

「えっ」

「私、あのように拒絶されるのも久々ですし、気になりまして…」

「ひ、久々って…」

「毎晩のように私の下で」
「いいです。その先は結構です」

「ともかく、何か辛いことがあったのでしたら私に言ってくださいまし。いえ、言いなさい」

「命令形?」

「どんなことであろうとなまえさまが一人で抱え込む必要はないのです。少しでも私に助けられることがありましたら、遠慮なくどうぞ」

「そうですか。じゃあ、私のことは忘れてください」

とは、とてもじゃないけど言えなかった。
ノボリさんが私の目を見てそう言った時、私はどうしてもその目を見ることは出来なかったし、口も開けなかった。なによりこんな突拍子もないことをしてくれるとは最初から期待していないし。私に出来たのは苦笑いくらいだ。
私はノボリさんから離れていくけれど、記憶もない私としては彼なくしてどこに行けばいいか分からないし、お金というものも当然必要である。今の時点で何一つ持ち合わせていない私は簡単にはノボリさんから離れられなかったんだ。

とりあえず職探しと住むところを探さなければいけないなとノボリさんの顔を見て思った。

「なまえさま?」

「あっ、大丈夫です。なんでもないです」

「昨日からやはり様子がおかしいですよ」

「ああ、もう、言っていいですか」

「はい、どうぞ」

「私、記憶喪失みたいで昨日からノボリさんのことを全く思い出せないんです」

「はあ?」

「(というか、あなたのことなんか知らないんだけれど)」

「それは、…本当なのですか?」

「疑うなら何か質問してみてください。何一つ答えられない自信があります」

「またご冗談を」

まあ当然だよなあと昨日に引き続き、彼の双子の人と同じく100点満点な返答をくれたノボリさんは冗談だという顔をして信じてはいないようだった。彼の双子の方がまだもの分かりがよかったというのに、しかしそれもまた普通なことだと思うので特に理解してくれない苛立ちも感じることはなかった。
あまりにも私が変然とした顔で朝食を頂いているので、ノボリさんも流石に何かおかしいと感じ取ってくれているのか箸は動いていなかった。

「私を忘れてしまうなど、酷い冗談でございますね」

「すみません」

「…まるで本当に忘れてしまったかのような口ぶりですが」

「本当にあなたを知らないのですが」

「……はあ。分かりました。この話はまた夜にいたしましょう。もう家を出なければ」

ノボリさんのため息に私も気を落としてしまった。
重たい空気のまま美味しい朝食を食べ、出勤の時間になったノボリさんは早々と準備をして玄関へと向かった。いろいろと迷惑をかけてしまったしせめて私も見送るべきかと思って彼の後を追って玄関へ向かった。
ノボリさんのその背の高い体を折り曲げて靴を履いている間も思うことはたくさんあった。それは主に恐怖で、これから上手くやっていけるのかとかノボリさんは偽物の私のことをどう思うかとかそういうことばかりだった。
ピカピカの高そうな、大きな靴を履いてそのまま出て行けばいいのに、ノボリさんは最後に私の方を振り返ってこう言った。

「冗談でも私を忘れたなど言わないでくださいまし」

いってきますのキスも加えて。
ノボリさんの顔を見上げると眉を下げて悲しそうな顔をしていた。その顔が言いたいことなんて、言葉がなくても私には痛いほど分かる。そしてすぐにくるりと振り返って帽子のつばを下げ、扉を開けて出て行ってしまった。
でも、私にはどうすることも出来ないことで、このまま彼の傍に居続けるなんてことは私自身が許さなかった。こんな生真面目な性格だったとは知らなかった。とはいっても、記憶自体がないからすべてこの表現になってしまうのだけど。

心がじくじくと痛むのを気にしないふりをして、私は食器の後片付けをして、出かける身支度をした。身支度と言っても気持ちの整理くらいだった。



まえ つぎ

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