「…………か?」
最後まで、というかその途中ははっきりと聞き取れなかった。しかし、いずれにせよその声はノボリさんだということは分かる。私と一番話した人だ。新しい記憶で一番多く話した人だ。だけどその声も眠さに負けて上手く頭に入ってこない。私はそれほど長く、深く眠っていた。なんだか体がものすごく疲れていて、私はあの白い人がいなくなってからずっと寝ていた。ひょっとしたら記憶がなくなっていることと何か関係があるのかもしれない。記憶も抜ければ力も抜けるみたい、な。本当にとんでも理論だけど、それ以外に考え付くものもない。でもまあ、別に理由がなんであれ疲れているものは疲れているんだから体は正直に休みたがっていた。私はそれにしたがって寝ていただけ。
ソファに横になっていて、ドアが開く音に少しだけ意識をこっちに戻されて、視界の端っこにノボリさんがいたのが見えた。霧がかかったようにその姿ははっきりとはとらえられないけど、ノボリさんは私に約束した通りちゃんと戻って来たらしい。かつかつと足音を立てながら、私の傍に歩いてきて、ソファの端っこに座った。そして、私の前髪をそっと払うと、やはりあの優しい笑みを作った。

単純にそれがすごく綺麗だと思う。好きなのかもしれない。恋愛感情とかそういうのではなく、一枚の絵を見るように、そのわたしに向ける一つ一つの顔が好きなのだ。ノボリさんは本当に綺麗な人だけれど、それが表情を作ったらより綺麗になるということを間近で見て知った。そしてよく笑う人だとも。
私は未だにぼやける視界の中でそれを感じ、撫でてくれる手がくすぐったくてまた目を閉じた。するとまだ残っている眠気に誘われそうになる。ノボリさんがまた何か言っている。しかしそれも聞き取れない。本当に私は相当疲れているようだ。

「なまえさま、もう帰宅の時間です」

「んー…」

「…仕方ありませんね」

ああ、また額に柔らかい感触。何もないと言える記憶の中で、これは覚えている。またうっすらと目を開くと、ノボリさんの顔が近くにあったのでそうだと確信した。だけど、私はまた眠たさに負けて目を閉じる。心の中で謝りながら、もう少しだけと願った。
しかし、私に起きるつもりがないことを悟ったのかノボリさんは私の体が持ち上げた。流石にそれには意識を持ってかれざる負えない。

「帰りますよ」

「…すみま、せん」

「いえ、愛する人を抱けるなど、これより幸せなことはありませんから。いいのです」

「………ん」

優しすぎるだろう。これはちょっと、私には優しすぎる。こんなに素直に感情をぶつけられて恥ずかしいとさえ思えてきた。

しかし、ずっと思っていたことなのだが、この人の恋人ってどうして私になっているのだろうと思った。こんなに愛しているなら、私ではないと気づきそうなものだけど、どうにもこの人は態度を変えない。私はその人本人であるのか。もっともその答えは私にも分からないけど、何度も考えたように私はその人本人ではないのだと思う。確信を持って言えることではないけれど、もしそうだったとしたら最初からそう思っていることにこしたことはない。ノボリさんに対して一線引けば本人が現れた時に助かるのは彼の方。私はそこに介入してはいけない。優しくしてもらう権利はないんだ。
しかし、今だけはノボリさんに抱き上げられて宙に浮かぶという怠惰を許してほしい。私達はおそらく家に帰るのだろう。私のそっくりさんはノボリさんと一緒に住んでいるらしい。

「お疲れのようですね」

「ん……」

「もう少しで家につきます。すぐにベットに降ろしますから、それまでもう少々起きていてください」

「んー…」

建物の玄関から外に出て、一気に煌びやかな夜の街へと出た。私にはそれが眩しすぎるけど、目を閉じればさほどでもない。ノボリさんはそのまま歩いていき、タクシーを呼んで私を中に入れて自分も乗った。先に乗せた私を自身の肩に抱き寄せてから、全く覚えのない(あるはずのない)目的地を告げて車が動いた。

そのタクシーの揺れがまた心地がよくて、ついあられもないことを考えてしまっていた。もういっそのことそっくりさんに成りすましてしまおうか、なんて。彼はとても優しいし、愛してくれる。その甘さにつけこんでこのまま黙って彼の隣に居座ってしまおう、と。私はこのタクシーよりも心地のよい空間にいれるということは言わずもがな分かることだ。
でも、やっぱりそれは出来そうにないと私はすぐに思った。この人の優しさを裏切ることなんて私には出来ない。怖いのは、私の嘘がばれる日が来なくても私の後ろに一生付き纏うだろう罪悪感と、何より本当の恋人が戻ってきてしまって私が簡単に捨てられてしまうのだと思うと傷つくことだ。安心しきった矢先に食らう絶望の味は想像できる。
私はタクシーに乗せられて、そのまま目的地までノボリさんの肩に寄りかかってその恐怖を想像してしまい、体を縮こまらせた。捨てられたら私はどうなるのか分からないけれど、それは少なくとも今すぐではないと思うので、それまでにはなんとかしよう。
甘い考えだった。今すぐではないと言い切れないのに。だけど、そうでもなければこの人の傍から離れる準備が出来ない。

「ほら、着きました、よ」

(だめだ、出来るだけ早く)

「ふふ、今日の貴方は一段と世話が焼けますね」

「!」

「なまえさま」

ふと目が合って嫌な予感がしたと思ったら、やっぱり唇を合わせてきた。なんだってこんなにキスをしてくるんだろう。本当にこの人はこれが好きだなと、思うけど拒めない私も私で十分に悪い。いくら急にしてきたからと言って抵抗くらいしてもいいのに。でも、何故か拒めないんだ。キスをされるたびにもっとしてほしいと思ってしまう。息を吸うために一旦離れてしまうその間が寂しい。どうしてこんなことを思ってしまうんだろう。
とりあえず目を思いっきりつむって終わりを待っていたら、ノボリさんのまつげが私のまつげと触れ合って、普通に触られるよりずっとくすぐったかった。それから顔のいたるところを顔を擦り合わせて、まるで動物がじゃれてきているようだ。
真面目そうなくせに、こんなギャップは反則だと思う。



渚の影 03



まえ つぎ

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