それにはすごく身に覚えを感じた。そう思っている今も、私の前、後ろ、左右、つまりは四方八方に人が行きかって、私はその大きな渦の中の中心にいるかのようだった。私はその忙しなく動く渦の中で、ひとりぽつんと立ち尽くしていた。しかし時たま前を向いているのに私にぶつかりそうになるサラリーマンに気をつけながら、私はその場で必死に思考を巡らせた。

私はどうしてここにいるんだろう。いや、その場所すらも私には分からなかった。まるで今まで寝ていたかのように、気づいたらこの雑踏の中に立っていたのだ。気がついた最初は人に気をとられてよく考えられずにいたが、今はその余裕がある。私はどうしてこんな雑踏の中にいる?
目の前の不特定多数の人間に聞いても答えが返ってくるはずもない。こんな見ず知らずの人間に耳すら傾けてくれないだろう。そうでなければ、こんなに早足なわけがない。

まあ、それはいいとして。ここはどこだろうと思うと同時に私は何をしていただろうかと思った。通勤か学校?どちらにもしっくりこなかった。まず私がここに立っていることすらも覚えていないのだから、そんなことを覚えているはずもないけれど、困ったことに私はそれ以前のことも思い出せなかった。最初に朝は何をしたかを思い出してみた。たぶん朝ごはんを食べてここに来ただろうに、その朝ごはんのメニュー、その食卓の風景すらも思い出せない。本当に、真っ白く塗りつぶされたような。私の記憶は真っ白だ。生まれてからの記憶が全くない。
ふと、人に肩がぶつかって睨まれた。

しかし、特に動揺することもなかった。正確には動揺しようと思っても、不安に思うことがないから私にはどうにもパニックに陥ることも出来ないのだ。記憶がないといっても、特に今危険にさらされているわけでもない。私は本当に立っているだけなのだ。
でも、さっきの人に睨まれたのが今一番新しい記憶なので、せめて壁際にと思って流れに沿ってついに私は歩き始めた。

「なまえさま!」

「はい?」

この瞬間、自分の名前は覚えているのだなと思った。おかしな話だ。人に呼ばれるまで気づかないなんて。しかし、少しほっとしたような気もした。何一つない記憶の中で名前だけはとりあえず憶えていた。それでもほんの少し安心した程度なのだけど。
私は後ろから飛んできたその声の先を見た。

「?何故、なまえさまはここにいるのです?今日の私の勤務は21時に終わる予定ですが」

「え、」

「も、申し訳ございません。言いそびれてしまったのでしょうか…、いえ、それでもまだ朝方でございます」

「あ、あの」

「すみません。なまえさまにも外出をする予定くらいございますね…最近は家にいることが当たり前のように感じてしまい、お恥ずかしい」

もう目の前の男の人に言い返そうとは思わなかった。実際は、一方的に話を進めてくるから言い返す暇もなかったのだけど。生憎、私は目の前の人の記憶も持ち合わせていない。明らかに知り合いに向ける口調だったが、彼に全くの違和感も感じなかった。人違いではないかと言おうともしたが、綺麗な銀色の目が私を掴んで離さなかった。一瞬だけ、すべてを持っていかれた気分になった。その瞬間、私はこの人から逃げるタイミングというものを失った。
年上だろうか。背は私より頭一つ分くらいは悠々に越しているし、その顔つきはとても綺麗でしっかりしていそうだ。きゅっと口は閉じられているけれど、それに怖さは感じられなかった。彼が私に向けた言葉の数々が、なんだか優しい気がしたのだ。その内容はいまいち頭の中には入ってこなかったけど、それだけは分かった気がする。

「どこへお出かけですか?」

「いや、分かりません」

「分からない?散歩ですか」

「…分からないです」

「?そう、ですか。ふふ、なまえさまは不思議な方ですね」

きゅっと結ばれた口がほどけて、ほんの少し笑った。整った顔をが崩れて、私も思わず笑ったような気がした。もちろん、私がしたのはそんな綺麗な笑顔ではなく苦笑なのだが、無意識にそうなっていた。

「なまえさまのこの先のご予定がなければ、私の勤務終了まで執務室で待っていらっしゃってもよろしいですが、いかがなさいますか?」

「いき、ます」

「そうですか、わかりました。ですが、本来は禁止されていることですので、お静かにお願いします」

私の唇に伸びてきた手に思わずビクッとする。慌てて目を閉じて、まもなくむにゅっとそれが押し当てられて、目を開けてみると目を細めて私を見ていた。なんでこんな顔を私に向けるのかが未だに分からない私としては非常に心苦しいものだった。きっとそれは私以外の誰かに向けられているものだ。とっさに私は行くと言ってしまったが、これも単にこのままほおっておかれれば行き先がないと予感したからだ。それなのに、こんな優しいものを向けられる権利はないと思う。ましてやそれは他人に向けられたものなのに。
けれど、こんなに柔らかい目を向けられてその人はすごく幸せなのだろうと思った。


渚の影 01


まえ つぎ

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