パルデア地方に行ったら、まず最初にここでしか見られない景色を見てみたくって。パルデア十景でしたっけ?雑誌で見たとき必ず行きたいと思ってたんです。オージャの大滝はきっと写真で見るよりも実際に見た方が迫力があるだろうし、ありがた岩って場所はご利益ありそうだし。夜は100万ボルトの夜景を見て綺麗だねってお話するんです。
あっあと、有名なサンドウィッチも食べてみたいなって思ってて。ポケモンたちも一緒に食べられるんですよね?わたしの相棒最近進化したばかりの子がいるので食欲旺盛で。絶対喜ぶと思うんですよ。
その後はわたしの住む地方には生息していないポケモンを見て、最後にはお買い物して…。
「そんな風に…計画してたんですけど…」
1ヶ月前に、一緒に旅行へ行く予定だった彼氏と別れてしまった。だから本当はこの旅行もキャンセルするつもりだったのに、ウジウジ泣いていたらいつの間にキャンセル期間が過ぎてしまったのだ。せっかく有給も取ったし、こうなれば1人で目一杯楽しんでやる!と訪れたパルデア地方はやっぱり訪れてみたかった分、1日目にして最高に楽しかった。今日の疲れを癒すようにお酒でも飲もうと思ってテーブルシティのシティホテルを出た裏通りにあるバー。この場所はホテルのフロントで静かに飲める場所を聞いて教えて貰った飲み屋である。
そこで何杯目かのカクテルに口付けていた。そうしたら、空いた席はいくらもあるのにわたしの横に1人の青年が尋ねてきたのだ。
「ご一緒してもいいですか?」と。
釣り眉に赤みが掛かった瞳の目元はタレ目がちで、端正な顔立ちに思わず持っていたグラスを落としそうになってしまった。パクパク口を開けるわたしに彼はニコリと笑うと返事をしていないのにも関わらず隣に腰掛ける。そうしてわたしの方へと目線を合わせた彼に、まだ出会って秒のクセに心臓が不覚にも跳ね上がってしまった。
「あっえっと」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。あ、ここのオリーブ漬け食べました?絶品なんですよ。良かったらどうぞ」
そう言った彼は店のマスターに声をかけ品を注文する。そんな手馴れたナンパのような対応に普段ならば軽くあしらう事ぐらい出来るのに、突然の顔面600族登場に脳内はバグってわたしの口からは変な声しか出ない。
なっなんだこのイケメン!モデルかなんかなの!?
彼の頼んだオリーブはパルデア地方の特産らしく、皿を向けられたって緊張してしまい手が付けられない。多分、彼はきっとその事を分かっていたんだと思う。だってわたしの反応を見て随分楽しげに笑っていたから。それが余計と恥ずかしくて、勢いよく酒を飲み干したのが1時間前。それから昔はトレーナーに憧れていたことや、自分の仕事の話なんかを話してこんな調子で酒を飲みまくっていたら、ドキドキしていたって脳内は酒に侵食されていくワケで、気付いたら行きずりの人に自分の恋愛事情まで話してしまった。他人のこんな話、つまらないだろうにちょくちょく相槌まで打って聞いてくれるだなんて、イケメンのクセに聞き上手とは何事か。
「へェ。こんな可愛いのに振ってしまうなんて勿体ないことする男もいるもんですね」
「えっっ!?いっいやぁ…ははっ。お兄さんに言われると照れますね。へへ、冗談が上手いなぁ」
重すぎない爽やかめな香水が鼻を掠める。それが余計と心臓の音を大きくさせる。彼の長い指がそっとわたしの顎へと伸びてきて、視線が重なり合う。
「本音やねんけどな」
「……へ」
顎にかけられた指先がわたしの唇をなぞると、彼は指に付いたグロスなんかも気にせずわたしに微笑んだ。
「チリ」
「あっ、」
「チリって呼んで欲しいんやけど?」
空いた片方の手で頬杖ついて、サイドに流している前髪がゆらりと揺れた。雰囲気十分の薄暗いオレンジの照明に照らされた彼の顔が妖艶で、酒とは別の熱が顔に帯びていくのが分かった。
「あっ、やっ!?チリさっ」
「ん?」
ボルドー色の瞳が細まって、視線を逸らしたいのに逸らせない。
わたしの髪を耳にかけ、チリさんがそっと触れるように耳打ちした。
「じゃ、"チリちゃん"とええことしよっか」
その発言は、成人超えたわたしにはこの先何を示す言葉だろうかだなんて安易に想像ついた。彼のペースに飲み込まれてはいけないと思うのに、頭は別のことばかり考えている。
ダメだって。彼氏と別れたばかりなのにこんなのいけないって。
心臓はバクバクと音を上げて、呼吸だって上手く出来ているか分かんない。先程よりもずっと崩れた口調なんかを気にするよりも、もっと近付いたその香水の香りがすると、断るなんて事が出来る筈がなかった。
「ええ子やな」
大人しくなったわたしの頭にチリさんの手がポンと優しく置かれた。
傷心旅行という名の旅先で、こんな出会いがあるだなんて誰が思っただろうか。どうせ一夜なのだ。1回だけの夜だから、今日が終われば彼と会うことはきっとないのだから。と誰に言う訳でもないのにそんなことを思った。
▽
チリさんが「酔いが覚めん内に」とか言うものだから、わたしが取ったホテルにチリさんを呼んだ。部屋に行き着く前のフロントで、ホテルマンがかなり驚いたような顔をしていたが、チリさんは相変わらず楽しげに笑っているだけ。ハテナを浮かべていたわたしにチリさんはぐいっと肩に手を掛け引き寄せる。気にするなとでもいうかのように。
そして部屋に着いたと同時にぶわっと襲ってくる緊張に体は思わず今になって固まってしまう。その姿はきっと実家で暮らしているウソッキーそのものだった。あれくらい、今のわたしは動けないでいる。
「ナマエちゃん」
いつまでも場を動かないわたしに、チリさんは初めてそこでわたしの名を呼んだ。それまで緊張し過ぎて俯かせていた顔を咄嗟に上げれば、彼は困ったように笑って、わたしにおいでと手招きする。
「緊張しとる?」
「そりゃ、……はい。かなり」
「ふはっ自分正直もんやなぁ」
「……チリさんめちゃくちゃイケメンなんで。こんなの緊張しない方がおかしいですよ」
ムードもへったくれも無くバカ正直に思っていることを素直に伝えてしまったせいか、チリさんは一瞬目を大きく開けるとより一層綺麗なお顔を崩して大笑いしだした。
「そっそんな面白かったです!?ちょっ、笑い過ぎですって!」
「んん、ごめんなぁ。余りにナマエちゃんが素直過ぎて面白くなってしもたわ。感情表現豊かなんやな」
それは褒められているのだろうか。喜んでいいのか分からず悶々としているわたしに笑い終えたチリさんは鼻先が触れ合う距離まで顔を近付けると口開く。
「そんなヘコまんといて。可愛いっていう意味やから」
あっ、と思ったのは束の間で、気付けばわたしの唇はチリさんの唇により塞がれてしまった。
そのままお喋りは終了。ベットに寝かされて、着ている洋服の中に少しひんやりとした手が忍び込む。反射的にピクリと跳ねたわたしをチリさんは見逃すことはせず、何度も「かわええな」と褒めてくれるのだ。
そう言われる度に胸がドキンと音を鳴らしてすぐ沈んでいく。一々胸をときめかせたってどうせこの場限りの関係だと少しの理性を保って脳内に言い聞かせた。それでも恋人のように甘く囁かれてしまったら、今のわたしには効果は抜群で胸がきゅうっと苦しくなる。
大丈夫。きっと明日になればお酒も抜けて、目が覚めたわたしは普段通り。ドキドキするのも雰囲気のせいだって、とそんな事を蕩けていく思考のなか繰り返し思って、甘くて堪らない夜を過ごした。
のだが。
「……チリさんが女性だとは思わなかったです」
ふわふわのベッドは疲れを癒すには十分な寝心地で、カーテンを開けた大きな窓からはココガラ達が気持ち良さそうに空を飛んでいる。だけどわたしの体は正直で、ポスンとベッドに身を預けたまま起き上がれない。わたし、多分骨抜きにされてしまったんだと思う。
わたしの声に気付いたチリさんはもうとっくに脱いでいた服を着替えており、シャツのボタンをとめるとわたしへにっこり昨日同様微笑んだ。その笑顔はどう見たって元気そのものである。
「ん?男なんて一言も言ってないんやけど?」
「そりゃそうだけど!」
「朝から元気やなぁ」
「チリさんに言われたくないよ!」
ケラケラと笑ってチリさんはわたしが寝ているベッドに腰を下ろす。ほんの少しベッドが沈んで見上げれば、チリさんの手がわたしの頭を優しく撫でた。
「…後悔してんの?」
「え?」
後悔…?後悔はしていない。元々は1人寂しく傷心旅行の予定だったのだ。昨日だってチリさんに出会わなければきっとわたしは1人で飲んだくれてやさぐれていたに違いない。たったの数時間を共に過ごしただけだけど、嫌なことも忘れて楽しいと思える時間を過ごせた。女性ということは知らなかったから驚いただけで、初めから知っていたってきっと。
「それは、」
「まぁでも歴代カレシのなかでチリちゃんが"1番"良かったやろ」
「え??」
瞬く間に火を噴いたように赤く染まるわたしに、チリさんは得意満面に口端を上げる。そうしてそのまま触れるだけのキスを落とした。
「で、どうなん?」
「あっえっと……そっそういうとこ狡いと思います」
「チリちゃん言わせたい主義やから。ってか教えてくれへんの?」
虐めるようにからかうチリさんに、羞恥心でいっぱいになったわたしは布団で顔を隠そうとするも、チリさんはそれを許してくれない。細いのに何処にそんな力があるんだ。
暫くそうしていれば、スマホロトムが着信を知らせた。でもそれはわたしのものではなく、チリさんのものだ。
「おはようございます。……えぇ、はい。いえ、今年もこれくらいの時期になれば忙しいのはお互い様ですよ。あぁ、じゃあその学生たちの資料を送って下さると助かります。はい、お願いします」
先程の柔らかげな印象とは随分変わって少しだけ空気が変わったかのように感じた。仕事の話だろうか。というか学生ってことはチリさんは先生か何かなのだろうか。この顔立ちならばさぞ女生徒からオモテになるんだろうなぁ。
程なくし通話を終えたチリさんは申し訳なさそうにスマホロトムからわたしへと視線を向き変えた。
「悪いんやけど、今からもう出なあかんくて」
「そっ、そうなんですね!大丈夫、です」
「そんな寂しい顔されると行きたくなくなるんやけど」
「してないですよ!してないっ」
慌てて弁解するもチリさんには見透かされているような気もする。だけど本音はチリさんが言った通り、寂しいと思ってしまっている自分がいる。どうせこの旅行が終わったら自分の住んでいるジョウト地方に帰らなければならないのに。布団を掴んでいる手に力を込めて、平気な素振りで笑顔を作る。
「あっ、チリさんは先生やられてるんですか?」
「先生?あー…そういうんじゃないんやけど」
「そうなんですか?学生って聞こえたから先生なのかなって」
チリさんはわたしの問になんて答えていいのか分からないのか含みのある表情を浮かべる。
「すっすみません!なんか真面目な話し方だったので気になっちゃっただけです!深い意味は特になく!」
「そりゃ仕事相手にヘラヘラしてたらアカンやろ」
「確かに、っそうですね!すみません!」
「こら、謝ることじゃないから」
支度し終えたチリさんはもう行かなきゃいけないだろうにわたしを見つめてその場を動かない。
「あ、その…チリさん?」
「んー…ナマエちゃんていつまでパルデアにおるの?」
「えっと、一応4泊5日なのであと3日ほどいると思いま、ひゃっ!」
驚いた。チリさんが急に飛び切りの笑顔を見せてきたものから。それだけじゃない。布団を掴んでいたわたしの手を取りぎゅっと握ってきたのだ。
「それほんま?もう帰る言うたらどないしょうかと思ったわぁ。チリちゃん、明日の夜時間空くんやけど、一緒に過ごさへん?」
「え?」
「まだ夜景は見に行ってないやろ?昨日見たい言うとったよな。連れてったるわ」
にっこり笑った顔にわたしの瞳は大きく見開く。次の約束なんてないものだと思っていたから、自分が思ったよりもきっとずっと変な顔をしているに違いない。たったの一夜過ごしただけなのに、チリさんにまた会えると思えば途端に寂しく曇っていた心は晴れ渡る。
「連絡するからそれまでは危ないとこ行ったらあかんよ。ちゃんと待てが出来たらご褒美あげるから」
ちょっとどうしよう。嬉し過ぎて泣きそうなんですけど。
「……約束、します」
「ん。よっしゃ!チリちゃんこれで今日明日仕事頑張れるわ」
一夜だと思っていたのに、まだ相手のことだって知らない事が沢山あるのに。心臓が半分以上持っていかれてしまっている自分がいる。こんなのおかしいって誰かが叱ってくれなきゃきっとわたしは沼から抜け出せない。
というか抜け出せる筈もない。
だってチリさんのこの笑顔、今が一番嬉しそうだったんだもん。
−−−−−−−−−
「なぁほんまに明日帰るん?」
「飛行機も取ってありますし、帰ります。仕事も残っているので」
「……次いつ来られんの?会えないの寂しいんやけど」
「わたしも寂しいけど、すぐには…」
「………ナマエちゃん旅したい言うとったやん。せぇへんの?」
「え!?旅!?パルデアにですか?ん
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わたしの背から抱きしめるチリさんは、なんとお忙しいのに時間を見つけてはずっとわたしと過ごしてくれた。そのお陰でわたしの心は元カレのことで悲しむこともなくチリさんでいっぱいである。今も仕事があるのにも関わらず抜けてまでわたしを見送りに空港まで訪れてくれたのだ。
「因みになんのポケモン育てとるん?」
「そうですねぇ…住んでる所が海に近かったので水ポケモンに昔から愛着湧いちゃって。ヤドキングとキングドラはわたしの大事な家族です!他にも大事な宝物がいて、」
「えっぐ!!チリちゃんのポケモン泣いてしまうわ」
「えっ!?あ、チリさんは地面タイプの使い手さんなんでしたっけ?」
地面と水、相性悪いもんなぁなんて引き攣ったチリさんを見てちょっと笑ってしまった。しかしすぐにチリさんはにぃっと両口端を上げて言ったのだ。
「そうやけど、まぁ…うん。苦手なタイプがなんぼのもんじゃい!この四天王と呼ばれるチリちゃんが蝶よ花よと育てたポケモンたちで弱点なんて克服したるわ!」
ん??今なんて?
暫しの沈黙、小首を傾げるチリさん。
「え?あれ、幻聴かな。四天王って聞こえた気が」
「ん?あぁ、ホンマやで。別に隠す気はなかったんやけど、四天王のチリちゃん。これからも宜しく頼むで」
え?四天王?え、めちゃくちゃ凄い人じゃない?
地元の四天王達にだってバトルのチケットが当たらなければテレビ以外でお目に掛かることはまずない人種。
そういえば、ホテルマンもチリさんを見ては驚いていた顔をしていたことを思い出す。
………。
なっなんて人と過ごしていたんだわたしは!!!
「え?あ…は?」
「ふふっ。感情表現も豊かやけど、ほんとナマエちゃんは顔にも出やすいなぁ」
こんなの誰だって驚くって!!
観光している間に見掛けたトレーナーの連れ歩きしていたポケモン。今のわたし、きっとあの大きく口をポケッと開けた小さな赤いワニだ絶対。
聞きたいことは山ほどあったのに、ジョウト行きのアナウンスが画面に表示されると時間は待ってはくれない。悲しむ別れの挨拶する余裕もなく、未だ上手く言葉に出来ずひたすらに驚いているわたし。
「…時間か。またすぐ会おうな」
「え、あ…はい」
それまであった体温が離れ名残惜しそうに手を振るチリさん。突然のチリさんの正体に咄嗟に「はい」なんて返事をしてしまったけれど、そんな凄い方とわたしがまた会えるわけない。
夢みたいな四泊五日に涙は流れ、実はやっぱり夢だったのではないかと頬を抓り、放心状態に陥っては心情が落ち着かず、飛行機の中ではスチュワーデスさんに心配されてしまった程。家に帰ってからも暫くはこんな状態から抜け出せずにいた。
何をしていても思い出すのはチリさんで、楽しい旅行の思い出は思い返せば寂しくなってしまって涙がいつでも襲ってくる。
「…また会いたいなぁ」
スマホロトムに1枚だけ一緒に撮った写真を何度も眺めては、虚しくため息が出るばかり。
そうして2週間程経ったころ、パルデア地方へ飛ぶ飛行機のチケットが送られて来ることをわたしはまだ知らない。