ポケモン夢 | ナノ

引き戻される恋は愛となり、

「よォ。一応上司として改めて自己紹介するわ。オレさまはキバナ。知っての通りナックルジムのジムリーダーだ」

人懐こい笑みでニカッと犬歯を見せた男は、グローブをはめている大きな手をわたしに差し出して握手を求めている。あくまでこの場では上司であり仕事だと言わんばかりに挨拶を交わす男を前に、わたしの喉から発せられた声は自分が思っている以上に低かった。

「ど、どうも」
「んっふふ。不服そうだな」
「別に…そういうんじゃありませんけど」

チョロネコが悪戯したみたくクスクスと空いた手で口元を隠す彼に、自然と眉間に眉が寄る。

その通りです。不服です。本音は戻りたくなんかなかったです。そんな気持ちを込めて差し出された手に手を重ねたが、多分本人は気にしてない。

人事異動が決まったのはつい2週間ほど前のことだ。半年前に我らが無敵のチャンプ、ダンデさんが10年という月日を経て現在の新チャンピオンに勝ちを譲った。ガラル全域が沸き立ちテレビ番組は勿論、号外が配られ世界ニュースにまで取り上げられるほどのお祭り騒ぎ。それからダンデさんは前任のローズ社長にリーグ委員長の仕事を受令し心機一転、バトルタワーを建設。それに伴いわたしに声が掛かった訳だ。仕事的には今まで働いていたナックルジムとあまり大差はなく、バトルを申し込みに来たトレーナーを誘導するのが主な仕事。だけど慣れている仕事とはいえ場所が変わり人も変われば疲れはいつもの倍になる。それでもそれなりにこの環境にも慣れてきたところだったのに、僅か3ヶ月で元の職場へ戻ることになろうとは。

「ダンデからはなんて聞いてる?」
「"キミは実に頼もしくこちらとしても惜しいんだがあっちがどうやら人手不足らしくてな。返して欲しいと駄々こねられた"って」
「ハハッ、なるほどな。間違いじゃあない」

ダンデさんのことを信用してない訳じゃないけど、この男が駄々こねたってのはきっと嘘だ。だってそんなことをこの男がする訳ない。それは一番、わたしがよく理解しているつもり。

元は1年契約の更新でシュートシティのバトルタワーで働くことになっていた。「キミの仕事っぷりは俺の耳にも届いているぜ!流石はアイツの下で働いていただけはあるな。これからも頑張ってくれ!!」なんて腕を組んで豪快に笑っていたダンデさん。これはあんまりですよ。

「んじゃ来週から頼むぜ?スタッフさん」
「……はい」

ひらひらと手を振る彼の背にまたひとつ眉間に皺が寄る。"気にしてません、オレとオマエは何もありませんでした"とその背が語っている気がしてなんだかちょっと胸にモヤが掛かる。

どうせここにはダンデさんに用があったついでにわたしへ挨拶をしに来たんだろうが、嬉しくない。

ナックルジムのジムリーダーキバナ。ジムの仕事だけでなくメディアやSNSでも忙しいこの男をガラルに住んでいて見ない事は無理な話だが、もう直接会いたくなんかなかった。


…これも、このバトルタワーで働いている以上無理な話なんだけど。


だってこの男はわたしが3ヶ月前に別れを告げた男だったのだから。








ポケモントレーナーとして食っていけるのなんてたったのひと握りであり、大体は歳を重ねていく内に夢は夢で終わってしまう。

わたしもそうだった。推薦状を書いて貰い、旅をして、チャンピオンとまでいかなくてもポケモントレーナーとしてガラルを巡り、そうして自分の実力を知って旅に筆を置き就職した。こういったトレーナーは結構多い。旅は思い返せば思い返すほど今でも胸が熱くなるし良い人生経験ができたと思う。だからこそ旅は卒業しても夢を追いかけるトレーナーの応援と、ポケモンに携わる仕事をしたくてこの仕事を選んだのだ。

「んな畏まるなよ。ここで働く奴らは皆良い奴ってオレさまが保証するし、なんかあったらいつでも言ってくれ」

一見近寄り難く感じる長身の彼はよく見なくとも目鼻立ちが整っていて眉目秀麗といった言葉がぴったりな人だった。それでいて一緒に働く部下を気にかけることが自然と出来て、その部下からの信頼も厚い。

一緒に仕事をしていて分かった彼の人柄。ポケモンに対する思いや扱いだとか、部下が無理をしない為の最善策だとか、そういったことが出来てしまうのがキバナで、そんな男を近くで見ていて好きになるのに時間は掛からなかった。

「そりゃたまにはアイツらも飯連れてったりするが…今日は違ぇよ。そんなオレさま優しくない」
「そ、そうなんですか?」
「おう。だから…まぁアレだ。オレさまの、あー…と、オレの彼女になって欲しくて今日は飯誘ったんだけど」

誰に対しても分け隔てなく接する彼が食事に連れて行ってくれた日。この日だってわたしが残業をしていて帰るのが遅くなったのをキバナがたまたま見つけて食事に誘ってくれたと思っていた。嬉しさと驚きが交互に混じって「え、え」と吃ってしまうわたしの横で、キバナはそのとき少しだけ頬を染めて不安げにわたしの返答を待っていたのは、後にも先にもこの時だけだろう。

キバナと付き合って、それなりの月日を過ごした。元よりキバナは忙しく、2人の時間なんてものは普通のカップルからしたら少ない方だったと思う。それでもわたしがキバナの前で笑顔でいられたのは、きっとキバナなりにわたしのことを大事にしてくれたからだ。

仕事の合間にワイルドエリアへ足を運び、げきりんの湖で雨のなかヌメラを探しに行ったのはいい思い出だし、野生のフライゴンを見つけたときなんかは目を輝かせて向かって行くから手持ちのフライゴンに怒られていたのは可愛く思えた。記念日とか、誕生日とか、そういったお祝いごとの日はどんなに忙しくても必ず覚えていてくれるような、一緒にいて楽しいと思えるような恋人だった。

「キバナはさ、将来のこと…考えてる?」
「なんだよいきなり」
「最近これからのこと色々考えてて。キバナはどうなんだろうって」

自分でこんなこと言うのもどうかと思うけど、付き合ってもう時期3年。わたしも結婚を意識した年齢になっていた。喧嘩にするつもりもなかったし、催促するつもりもなかったけれど、キバナの「あー…」と含みを持たせたトーンに、期待していた未来とは違う未来が見えてしまった気がした。

「…おい、お前今変なこと考えてるだろ」
「そ、そんなことないよ!」
「嘘つけ。お前は顔に出やすいからすぐ分かる。考えてねぇ訳じゃねぇよ。ただ…そん時が来たらオレさまから言うから」

ぽん、とわたしの頭を撫でた際に香るキバナの香水の香りが好きだ。だけどこの日は何故か切なく感じて、胸の奥がきゅ、と痛む。

結婚を焦っていた訳じゃない。ただわたしはこの先一生を共にするならキバナがいいとそう思っていた。だけどキバナは違ったみたい。

だって今キバナは、わたしに気を使った。

キバナの仕事はチャレンジャーの実力を確かめ次のステージへ導くことだ。でもそれだけが仕事ではなくワイルドエリアの巡回や宝物庫の管理も任されていて、多忙期には家に帰らずジムで寝泊まりすることも少なからずある。

本当はね、分かっていた。フリーの時間が元から少ないのにも関わらず、自分のやりたいことを我慢してキバナは今までわたしとの時間を作ってくれていたこと。わたしにとっての一番はキバナだけど、キバナにとってわたしは1番じゃないこと。キバナが付き合う前に言っていた「オレさまこんなんだからあんまし彼女とか作ったことねぇんだよな」と言っていた意味だって、今になれば理解が出来る。

キバナはダンデさんにバトルで勝つという一番の目標がある。その為に空いた時間を使って日々鍛錬している。そんな毎日を送っていたキバナの日常に、わたしが入り込んで彼の時間を奪ってしまっていた。

キバナはわたしを好きでいてくれている。それは充分に分かっていた。大好きな人を1番近くで支えることが出来るなら、彼女にとってこんな幸せな事はないでしょ、と思うのに、そんなの実際は綺麗事で好きになればなるほどそう考えるのは難しくなった。

ポケモンが好きなのも、バトルが好きなのも、ライバルとの対戦が楽しいのも勝ちたいという気持ちも、悪いことじゃないしわたしも気持ちは痛いほどよく分かる。分かり過ぎたから身を引くことに決めたのだ。

わたしが将来のことを聞いてしまったとき、キバナは一瞬気まずそうにわたしの目から視線を逸らした。普段のキバナにすぐ戻ったけど、3年近く職場も一緒で共に過ごしていると、こういった些細なことには嫌でも気付いてしまうものだ。

あ、キバナはわたしとの結婚は考えてないんだな。わたしキバナのお荷物になってるのかもしれないなって。

それ以上聞く勇気は持てず女々しく縋る女だけは嫌だった。キバナの夢は前チャンプ、ダンデさんに勝つこと。その夢の邪魔をしてはいけない。丁度良かった。別れた後も職場が一緒なのは正直しんどいものがある。だけど好機と呼べるのか分からないが、このタイミングでわたしに移動の話が舞い込んできた。

「……別れたいって思ってて」

ナックルジムで働く最終日。夜キバナの家に着いたタイミングでわたしは別れを口にした。

「…なんで?オレさま何かした?」
「別に、何もしてないよ」
「じゃあ、なんで?」

気持ちが悪いくらい心臓の音が鳴る。
泣きそうになるのをグッと堪えてその代わりに握っていた拳に力が入る。キバナは優しい。優しいからここで泣いてわたしの気持ちを晒せば、きっと彼はそんなことないと言って引き止める。それが分かっていたから、わたしは嘘をついた。

「もうね、好きじゃなくなっちゃったの」
「は、」
「最近お互い忙しかったし、ジムで会えても2人で会える時間って減ってたでしょ?それで1人の時間に慣れちゃったっていうか」
「…なんだそれ」

明るく振る舞ってみるもキバナの低いトーンに体は小さく跳ねる。顔が見れず俯いているわたしの肩を、キバナは無理矢理自身の方へと向けさせた。

「きば、」
「そういうちゃんとしたことは目ェ見て話せよ。なぁ、本当にオレのこと好きじゃなくなっちまったのか」

光が消えた碧色の瞳はわたしをしっかりと捕らえている。瞬きひとつしないキバナにわたしが頷くと、キバナは唇を噛み締めるかのように口を噤んだ。

「…そうか。分かった」
「……」
「悪かったな。あんまり時間取ってやれなくて」
「ちが、そうじゃなくて」
「帰ってくれ。一人になりたい」

キバナはわたしから視線を逸らした。
ゆっくり立ち上がって、最後に見たキバナの表情に今度こそ鼻が痛み出す。

キバナの家から外へと出れば空気が冷たくて、空をなんの気なしに見上げると星がきらきらと瞬いている。空気が澄んで少し肌寒いと感じるのは、冬が近付いてきた証拠だった。







「ナマエ、この資料の確認頼んでもいいか?」
「あ、はい。分かりました」
「さんきゅ。助かるぜ」

元の職場、ナックルジムに戻り1週間が過ぎようとしていた。数枚の書類をわたしに差し出したキバナは用が済んだはずなのにここから立ち去る様子が全くない。わたしが資料に目を移している間ずっとこちらを見ながらニコニコと笑みを浮かべている。

「あの、キバナさん」
「サンはいらねぇって。何?」
「っ、ごほん。この資料わたしが対応しなくても良いのでは?」
「あーそれな。でもお前仕事早ぇしさ、今他の奴ら月末月初挟んでるから忙しいんだよ。んで、敬語も使うなって」
「はあ…?」

エキシビジョンマッチも近付いているし、来年度のジムチャレンジに向けての会議も控えている。確かに忙しいとは思うんだけど、どれもこれもわたし達というよりキバナが対応する仕事が主なのでは?

「ん?あぁ、嘘じゃないぜ?リョウタ達もこの時期てんてこ舞い。オレさまも一人じゃ手が回んねぇの。エネコの手も借りたいってヤツな」
「へぇ…?そ、ですか??」
「そうそう。だからウチの仕事に慣れてる優秀な人材が一人でも欲しいワケよ。お前が来てくれて助かるわ」

言いたいことが顔に出ていたのかキバナはわたしが口を開く前にテンプレのような言葉を口にする。キバナの背後にいたリョウタさんに目だけを移すとサッとあからさまにわたしから視線を逸らされた。怪しい。

ここに来て1週間、ずっとこんな調子。
別に仕事量が少し増えるのは構わない。前働いていたときもそうだったから。でも明らかにこの男、キバナは毎日毎日わたしの元へ現れてはこうして仕事を持ってくるついでにただ世間話をしに来たり、たまにお菓子を持ってきたりとわたしの元へやって来る。部下を気にかける、というよりも短い会話を伸ばそうとするような、そんな感じだ。つまりすぐに仕事へ戻ろうとしない。付き合っているときでさえ忙しくなるとキバナとは挨拶程度でしか言葉を交わさない日も少なくなかったから、ちょっと頭にハテナが浮かんでる。

「なぁ、今日の夜空いてる?」
「え"っ!?あ、空いてませんよ!!」
「連れねェなぁ。じゃあいつ暇?」

空気を吸うかの如く自然とわたしを誘ってきたものだから、咄嗟に断りが口から飛び出たものの持っていた資料が手から滑り落ちた。

「いっいつ暇って、キバナさんお忙しいんですよね?」
「忙しい…が、お前との時間くらい作れる」
「は、」
「また頃合を見て誘うわ」

慌てて資料を拾い上げるわたしが石のように固まると、キバナは何処か勝ち誇ったように口端を上げている。それ以上キバナは何を言う訳でもなくリョウタさんと共に会議があるとかなんとかでジムを出て行ってしまった。

ぽつんと取り残されて動揺を隠せないわたし。

「え、なに?なんで?」

キバナの香水の香りが未だこの場に残って鼻を掠めるから、胸の奥がなんだかむず痒く感じる。3ヶ月前に別れてからキバナとは一切連絡を取っていない。それなのに今になって誘ってくるキバナの事をいくら考えても意味が分からず、暫く仕事が手につかなかった。







「どうしたらお前の時間をオレにくれる?」

仕事を終え私服に着替えてロッカールームを出たタイミング。壁に背をつけて腕を組んでいたのは、紛れもなくわたしの元カレだった。

「えと、今日はシュートシティに向かっていた筈じゃなかったでしたっけ?」
「切り上げてきた。お前と話したかったから」
「はい?」
「だってオレさまが何度誘ってもオマエ時間作ってくんねぇんだもん。ってか敬語はいらねぇって言ってるだろ。すげぇ距離感じてヤなんだけど」

グイッと距離を縮められ、気付けばわたしが壁に背をついていた。後ずさり出来ないこの状況に、碧色の瞳がわたしを見下ろしているのが目を合わせずとも分かる。

「なんでオレから逃げんの?」
「逃げては、ない…けど」
「逃げてるだろ。毎日毎日お前に話しかけてもすぐ終わらそうとするし飯やら何でも誘ってもこっ酷くフッてくるしよ」
「わっわたし達別れてるんだし、今更そんな2人で話すこともないでしょ?」

あの日から来る日も来る日もキバナはわたしを誘うから、どうにか断り続けて2週間。喧嘩別れをした訳じゃない。だけど絶対に今考えてみても良いお別れの仕方じゃなかったわけで。決まって誰かしらいる時に誘ってくるせいでキバナが本気なのか冗談なのか分からなかった。だから急に時間を作って欲しいと言われてもわたしの心情がその都度混乱を起こしてる。

キバナの視線の圧がこわい。

「あ、」

キバナの指がわたしの顎にそっと手をかける。
合わせないようにしていた彼の瞳とわたしの瞳が重なった瞬間、キバナは口元に弧を描いた。


「やあっとオレさまと目が合ったな」








ナックルシティにある隠れ家的なバーは、前に付き合っていた時にも何度か連れて来て貰ったことがある。キバナは有名人な為変装していたってすぐファンにバレる。だからたまにこういう店で静かに飲むらしい。見られることには慣れているけど、たまには誰の目も気にしたくない日もあるだろって前にキバナが言っていた。その頃のわたしは彼のプライベートの一面に入るのを許された気がして、嬉しかったのを覚えている。

「毎日シュートとナックル往復してんだろ?」
「うん。そうだね」

キバナはウイスキーのグラスにある氷を揺らしながら、わたしにそっと口を開いた。たぶん、わたしだけがこの静かな雰囲気の中で似合わない心臓の音を鳴らしているんだろう。

「不便じゃねぇ?」
「慣れればそうでもないよ。ちゃんと交通費も出るし」
「そりゃそうだろうが…こっちに越してくりゃいーのに。どうせお前もう暫くはここで働くんだしさ」
「そっそんな簡単に言わないでよ。向こうに越してそんな経ってないし、また家探しするのって時間掛かかるじゃん。冗談はやめて」
「冗談?冗談でオレさまそんなこと言わねぇよ」

ケラケラと笑うキバナにわたしは口をへの字に曲げた。こういう時に限ってキバナは「そういう事1番知ってるのはお前だろ?」と茶化してくるから、こまる。

「…そ、それで話ってなに?」
「んー…」

いつ見たってやっぱりキバナの横顔は綺麗だと思った。皆が羨む鼻の高さに彫りの深い目元。キバナから離れて前を向いていかなきゃって決めたのは自分のくせに、結局は今でも思うことは昔と変わらない。

「この3ヶ月間、ずっと考えてた」
「え」
「お前のことだ」

キバナの声音は至って落ち着いていて、それでいてほんの少し困ったような口調で自虐めいた笑みを見せる。

「あれからずっと、多分お前が思ってる以上にオレさまはお前のことばかり考えてる。フラれたのに何言ってんだって話だが」
「あ…いや、きば」
「オレのこと好きじゃなくなったとか言ってたよな。…他に好きなヤツでも出来た?」
「それ、は…」

好きな人なんて出来る訳がない。
あの日キバナに将来の事を聞いた日まで、わたしはこの人じゃないとダメだと思えるくらいキバナのことが好きだったのだ。少しすれ違いが続いたりだとか、連絡が減ったりだとか、そういったことが寂しいと感じたのは事実でも、キバナ以外に好きな人を作る理由にはならないし、キバナ以外の人をそういった目で見たこともない。別れた理由はそういうものではなくて。

「…出来る訳、ないじゃん」

とてもとても小さく放った言葉。聞こえていなくてもいいと思った。寧ろ聞こえないでくれという気持ちの方が強い。だけどキバナにはちゃんと聞こえていて、わたしの耳には安堵したような息を吐いた音が届く。

「……よかった」

キバナの短く纏めたその一言で簡単に視界が緩んでしまうから、なんとかして堪えようと下へ俯く。

「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣きそうな顔してんだよ」

そうして5秒、いや10秒。無言の時間がこんなにとても長く感じたのは初めてかもしれない。キバナはわたしの手を取るとそっと指を絡めた。

「あのよ」
「ん」
「どうしたらもう1回オレのこと好きになってくれる?」

絡め取られたわたしの手を握り、不安げに碧色の瞳にわたしを映して揺らいでる。その顔つきは、わたしに初めて告白してくれたときの表情と重なった。


「お前には悪いけどさ。…オレがお前のことどうしても好きだから、お前がオレのこと好きじゃなくなっても離してやれねぇんだよ」


キバナは綺麗な顔を崩して笑う。かっこわりーけど、と付け加えて。それが何処かもの悲しげに見えてしまって、やっと気付いた。約3年という月日を共に過ごしていたのに、わたしはキバナのことを知ったようで知らなかったということ。なんでもっとちゃんと初めから話し合わなかったんだろうと、握られている手を見つめながらそんな後悔が今になって襲ってくる。

「…わたしね、キバナはわたしよりも大事なものがあると思ってたの」
「……」
「将来の事聞いたとき、キバナちょっと濁したでしょ?それでその…もっとやりたいことあるのに、いつもキバナはわたしを優先して時間を作ってくれてたじゃん。ダンデさんに勝ちたいっていうのも付き合う前から知ってたのに、わたしがどうしようもなくキバナの事が好きだったから甘えちゃって。…わたしも一応これでもトレーナーだったからキバナの気持ちも分かるんだよね。だから…それならわたしから別れないとって思って、」
「もういい。分かった」

キバナはわたしの言葉を遮る。そうして横に座っているわたしを引き寄せて、触れるだけのキスを落とした。

「結婚してくれ」

「は、」

唇がゆっくり離れると、名残り惜しそうにもう一度キバナはキスをする。頭の思考回路は時が止まり一旦停止。ここがいくら一見さんお断りのバーだとしてもそれなりに人はいる。誰がどこで見てるかも分からないこの状況で、キバナが今わたしにしたことが信じられなかった。

「…写真、撮られちゃう」
「ぶはっ、お前今ここで言うとこかよ。このキバナ様がプロポーズしてんのに」

だって、いやまって。そんな。
状況整理が頭の中で出来ていない。出来る訳がない。対してキバナはわたしの返答にこの場で削ぐわない笑い方をして心底面白いと言わんばかりに笑っている。ツッコミを入れる語彙も抜け落ちているわたしに、一頻り笑い終えたキバナは言うのだ。

「男のプライドっつーもんがオレさまにもあったわけよ」
「…ぷらいど」
「そ。確かにキバナさまの1番の目標はダンデに勝つことだ。それはこの先も変わらねぇ。…だがそこにはお前もいなくちゃダメなんだよ」
「……」
「出来ればダンデに勝って格好良く言うつもりだったのにな。お前に将来のこと聞かれて別れるって言われた時は1人になってずっと後悔してたわ。なんであん時あんな事言わせるまで不安にさせちまったのかなとか、プライドなんて捨ててちゃんと伝えるべきだったなとかな?お前はオレの事をいつも考えていてくれてたのに、自分のことばかりで本当、悪かった」

今度こそ知らぬ間に出た涙をキバナは優しく指で拭う。きっとアイメイクが取れてボロボロになっているだろうに、それすら愛おしいというような目つきでわたしを見つめて、大きな手でわたしの左手薬指に触れた。



「多分この先もっとかっこ悪い所見せると思うし、お前の事を困らせる日もあるだろうと思う。だけど生涯かけて幸せにするって誓うから、オレさまだけのモノになって下さい」



嬉し泣きなんて人生で初めて流したと思う。
キバナの手にそっとまた、自分の手を重ねた。
これから先、きっと小さなことや大きなこと、年を重ねる毎にぶつかる壁がきっとある。だけどそれをわたしはキバナと一緒に乗り越えたいと心から思うのだ。

「わたしで良かったら、是非」

わたしがキバナなしで生きられないくらい好きなのと同じように、キバナにとってのわたしも、そんな存在でありたいと強く願う。







−−−−−−−−

「水臭いぞキバナ!!なんでライバルであるオレがお前の口から結婚の報告を聞かずSNSとやらで知らなければならないんだ!!納得がいかない!」
「ばぎゅあ!」
「そうですよ!これには我々もショックが隠せません!!」

後日、やはりあのバーで誰かに写真を撮られていたわたし達は瞬く間に拡散され、キバナが皆に報告するよりも前に知れ渡ってしまっていた。

態々ナックルジムまで出向いてくれたダンデさんはご立腹だ。その横にいるリザードンも、そしてそのまた横にいるリョウタさん達も。

「あー悪かった。悪かったって。あの場は仕方がなかったっつーか。周りの目を気にしてる余裕なかったんだよ」
「まぁいい!ナマエクンと別れた後のお前といったらオレでも見ていられなかったからな。あんなになよなよしたキバナは初めて見たぞ!バトルをしても性が出ないお前にオレまで悩んでしまった」
「あっ、ちょ、」
「分かりますダンデさん!彼女と別れた後のキバナさまは本当にヌケニンのようでしたからね。あの時のキバナさまの心情を察すると…ッ、涙が出ます。それなのにやっと彼女がジムに戻って来てくれたかと思えば素直じゃないせいであんな横暴な態度、」


「ッッお前らマジでちょっと黙れ!?頼むから!!」


顔を真っ赤に染めたキバナが龍の如く火を噴いた。
ダンデさんにわたしをナックルジムへと戻すよう駄々こねた話が本当だったと知り、またわたしの知らない彼の一面を見れた気がして嬉しくなった。


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