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「お兄ちゃんコーヒー飲めたっけ?」

「飲めるようになったのはつい最近だな。うちは毎朝コーヒーだから」

「そうなんだ……」

お兄ちゃんと話してる時、私が嫌いな瞬間がある。それが今だ。今まで交流を絶っていたのが原因だろうけど、私達はあまりにもお互いのことを知らなすぎる。私の中のお兄ちゃんは幼い頃のままで止まっている。だからコーヒーを飲むお兄ちゃんを知らない。新聞を読むお兄ちゃんを知らない。正義感の強いとこは昔のままだけど、今のお兄ちゃんを知れば知るほど違う人みたいで悲しくなる。昔より大人っぽくなったお兄ちゃんとは裏腹に私はあの頃のままな気がして、テーブルの上に置かれたコーヒーカップとオレンジジュースがちょっと腹立たしく見えてしまった。

「春奈、どうかしたのか?」

無意識の内にコーヒーを睨みつけていたらしい。新聞から顔を上げたお兄ちゃんと目が合った。いや、目が合ったというのは語弊があるかも。お兄ちゃんはゴーグルをしてるから目が合ったかどうかなんてはっきりとはわからないんだけどね。

「ううん、なんでもないの。ねえ、お兄ちゃん。そのコーヒー、一口ちょうだい」

「あ、おい」

お兄ちゃんが何か言う前に私はカップを傾けていた。独特な香りを漂わせる黒い液体を口の中に流し込む。今まで経験したことのない苦みに私は大きくむせてしまった。「春奈っ!」なんて切羽詰まったようなお兄ちゃんの声がする。心配性なとこも変わってないみたい。コーヒーが苦くてむせたくらいでそんなに心配しなくても大丈夫なのに。中身をこぼさないように右手のカップを慌てて取り上げた後、お兄ちゃんは優しく背中を撫でてくれた。
ぽん、ぽん、と一定のリズムで背中を叩かれる。そういえば小さい頃泣いた時はいつもこうやって慰めてくれたっけ? そう思い出した瞬間、むせて涙目だった目からぼろぼろ涙があふれてきた。

「俺のコーヒーは砂糖もミルクも入れてないんだ。大丈夫か?」

「お兄、ちゃん……」

顔を上げると驚いた顔のお兄ちゃんと目が合った。今度はちゃんと目が合ったのがわかる。隣にいるんだから。
ゴーグルが反射して私の泣き顔を映し出す。ぐしゃぐしゃな泣き顔はお世辞にも可愛いものではなかった。「お兄ちゃん」と呼べば「なんだ?」と返事をしてくれる。私のことを「春奈」って呼んでくれる。当たり前のことなのに涙が止まらなくて、私はお兄ちゃんにしがみついた。お兄ちゃんも戸惑いながらも受け止めてくれる。私は、嗚咽混じりにぽつりぽつりと話し始めた。

「あのね、私お兄ちゃんから置いて行かれた時悲しかった。捨てられたんだと思ったの」

お兄ちゃんの背中を撫でていてくれた手がぴたりと動きを止めた。息を飲む音がすぐ側で聞こえてきて、なんとなくお兄ちゃんの動揺を感じる。「でも違ったんだね」顔を上げ、真っ直ぐお兄ちゃんを見ればくしゃっと顔を歪めた。それは泣くのを我慢しているようで私が初めて見たお兄ちゃんの表情だった。
今思えば、お兄ちゃんの泣いた顔なんて見たことがない。一つ違いにも関わらず、泣き虫な私と違ってお兄ちゃんはどんな時も泣かなかった。

「それでも私は、……一緒にいたかったよ」

小さい頃に当たり前だと思っていたこと。ずっとずっと兄妹二人で生きていけるんだと思ってた。でも世の中って甘くない。頭の良いお兄ちゃんは私の幸せを考えて何も言わずに置いて行ったんだろうけど、私は一緒にいたかった。どんなに辛くてきつくても一緒にいたかったんだよ、お兄ちゃん。

「だからもう、どこにも行かないで。私の知らないところで大人になっていかないで」

「春奈……」

お兄ちゃんは優しいから、また同じ状況に立たされれば私を置いて行くだろう。私の幸せのために自分を犠牲にして行ってしまう。だからはっきり言わなきゃって思ったの。「私の幸せはお兄ちゃんといること。辛くても悲しくてもお兄ちゃんがいれば私、幸せだよ」って。
この日私は、初めてお兄ちゃんの泣き顔を見た。

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