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ずっと、ずーっと見ていたんだ。君が欲しいと感じたのはどれくらい昔だったのか。今はもう、それすらも覚えていないよ。

「え?」

時計の針が深夜0時を回った時、春奈は自分を呼ぶ声に後ろを振り返った。しかし今春奈がいる場所は、この合宿期間に割り当てられた個室であって、当然だが、そこに自分以外の誰かの姿があるわけもない。空耳だと言い聞かせつつも少し気になった春奈は、そろりとドアを開いた。途端、廊下の奥の曲がり角へと消えて行った鮮やかな赤が目に入る。

「あれ、ヒロトさん?」

その大きな瞳に鮮やかな赤色が映ったのはたった一秒にも満たない一瞬の出来事であったが、春奈にはヒロトさんを見間違えるはずがない、という確信があった。この合宿に参加している者で、あんなに目立つ髪色をしているのが彼だけというのも一つの理由であるが、何より春奈が密かに思いを寄せている相手でもあるのだ。好きな人を見間違うはずがない。
春奈はキョロキョロと辺りを見回した後、そっと部屋を抜け出した。理由はもちろん、こんな時間に出歩いているヒロトを追いかけるためである。
夜の廊下は寒い。薄着で部屋を出て来てしまった春奈は、誰もいない薄暗い廊下を静かに進みながらそれを真っ先に後悔した。それに加え少し前から雨が降り始めたらしく、土砂降りの雨音と窓を叩く風の音がなんとも不気味だ。
春奈が探していた基山ヒロトは、その土砂降りの雨の中に傘もささないで立っていた。真っ暗な闇の中でヒロトの周りだけ切り取られたように明るく見えるのはなぜだろう。背景の黒と対照的な髪色の赤のせいか。春奈は誘われるようにふらりと外へ向かった。

「ヒロトさん、何してるんですか?」

先日買ったばかりのお気に入りの傘をさして、ずぶ濡れのヒロトに傘を差し出す。彼はその傘を受け取るのでもなく拒むのでもなく、ただニッコリ笑った。

「風邪、ひきますよ?」

「雨冷たくないんですか?」

「明日も早いのでもう寝ないと起きられませんよ」

何を言っても無反応だ。「早く戻りましょう」と引っ張っても足はまるで粘土のようにびくともしないし、春奈が何を言っても貼り付けたような笑顔を浮かべるだけなのだ。
恐ろしく感じた。ぞわりと背筋が凍ったのは寒さのせいだけではないと思う。ヒロトさんはこんなふうに笑う人だっただろうか。私を見ながらこんな冷ややかな笑みを浮かべたことがあっただろうか。そこではて、と考える。もし仮に目の前にいる彼がヒロトさんでないとしたら、この人は誰なんだろう。ヒロトさんのカタチをした、ヒロトさんではない誰か。と、そこまで考えてはっと我に返った。
バカバカしい。少しオカルト系のテレビ番組を見すぎたようだ。春奈はもう一度「帰りましょう、ヒロトさん」と言った。

「春奈、ちゃん?」

その時、春奈の背後から隠しきれない動揺を孕んだ震える声が風に乗って聞こえてきた。ひゅっ、と息を飲む。ガタガタと体が震えるのがわかった。脳は状況を理解出来ていないのに恐怖で体が震えるなんて妙な話だが、春奈はたしかに今、何かに怯えていた。
ゆっくりと振り返る。振り返った先には、鮮やかな赤があった。

「ヒロトさっ……」

驚きを隠しきれない険しい表情をしたまま、こちらに駆け出した男の名を呼ぼうと口を開く。だが、その視界は一瞬にして何者かに覆われ真っ暗になった。そして、耳元で一言。

「俺が、ヒロトだよ。春奈」
「春奈ちゃんっ……!」

耳元の囁きも遠くから聞こえる叫び声も、たしかにヒロトの声だった。そのまま春奈の意識は、闇の中に落ちて行ったのである。

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