私とあなたとキムチ鍋
家に帰ると母が熔岩を錬成していた。
「キムチ……鍋……??」
まるで意味がわからない。亜里香は困惑した。
なぜこんなクソ暑い日に、キムチ鍋なんてものを作っているのか。もしかしたら母は連日の暑さに頭がやられてしまったのか。というか、もしかしなくてもそれは私達の晩御飯ではないのか。
そんなことを思いながら、目の前の鍋に次々入れられていくキムチを、ただただ眺めていた。
亜里香には料理がわからない。包丁を握ったことさえない。ただ母や従業員や他の子供達が作る料理を口に運ぶだけだった。嫌いな食べ物も調理法もない。夏にカレーだって食べられるし、冬にシャーベットも望むところだ。
しかしこれは違う。このキムチ鍋に入っているキムチは尋常な量ではなかった。見ているうちに、スーパーで売っているパックが5個は消えた。ちなみに今また新しく1パックが赤の海に消えた。グツグツと煮え滾る土鍋からは、赤いマグマが泡を立てている。今焼けた石が入った。スープがジュンッっと音を立てて、白い湯気へと変わる。
これは夏に食べるものではない。亜里香は本能で察知した。
「理御がね」
母が口を開く。右側に置いてあった赤唐辛子の山を掴む。
「賭場に行ったんだって」
そして、鍋の上で、思い切り握りつぶした。
「明日香さん、執政府からお電話……が……」
廊下に続く別の戸から覗かせた男の顔は、たちまちのうちに凍りついた。その反応も最もだろう。
ボコボコと煮え滾る血の釜と、沸き立つあぶくで揺れ動く触手。そしてそれを無言でかき混ぜる自らの上司。
控えめに言って、ひどすぎる。
亜里香は憐れんだ。
しかし男は挫けなかった。地に着けてしまっていた片膝を鼓舞し、再び明日香の元へと歩き出した。その双眸に宿るのは未知への恐怖。しかしそれ以上に使命感に燃える炎が、きらきらと雫となって頬を流れていた。
「明日香さんッ!!!執政府から」
「あ」
「あギャっうっうわあアアアァァああああああ!!!!!!」
しかし悲しいかな、理不尽は時と場所を選ばない。
魔女の鍋は気まぐれであった。
「目がっ!!!!目がああああぁぁぁぁああ!!!!!!」
スープのあぶくがパチンと弾け、飛沫が天高く飛び散る。そしてそれは運悪く、男の眼球へと直撃した。
ごろごろ、ごろごろごろごろ。
男は顔を抑え床を転がり回り、廊下の端へと消えていく。
ーーーこれは冬でも食べられない。亜里香は本能で恐怖した。
「亜里香」
「フヒュッ」
思わず肩が跳ね上がる。まさか自分の名前が呼ばれるなど想像もしていなかった。喉が引き攣り息が漏れ、返事には可笑しすぎる声が出た。
ーーーまさか、味見じゃないよね?
ーーーそんな馬鹿な。
ーーーそもそもそれは食い物じゃない。
ーーー材料を買いに行く所からやり直して。
ーーーというかさっきの職員さんの話は何だったんだろう。
ーーーきょうは、いいてんき、ダナー。
様々な思考が渦を巻いては、口から出かけ、そして目の前の現実に屈していく。
亜里香はただ、自らの母からの死刑宣告に、恐怖し、身を震わせることしかできなかった。
運悪く通りがかった防衛局の青年が、好奇心から鍋を覗く。
ーーー目を押さえて走り去った。
携帯端末に喚きながら走っていたから、恐らくはそこまで重傷ではないはずだ。
どうか強く生きて欲しい。亜里香は心の中で名も知らぬ青年に合掌すると、再び石畳の街道を歩き始める。
ーーーこれ、バカ統主に持ってって
母はそう言うと、キムチ鍋を私に差し出した。
私は、ただ何も言わず、深く深く頷いた。
統主が賭場に行くこと。
母がキムチ鍋を作ること。
キムチ鍋の具材、とくにあの、途中で見えた触手。
亜里香にはよくわからない。わかりそうもない。
だから今、とりあえず思うことは。
「私達の晩御飯じゃなくてよかった……」