田原坂の戦は激しかった、とどこからか諦めたように聞こえて来た声が耳内に入り込んだ。二三日繰り返した一進一退の攻防も、政府軍の数が増えた今ではこちらに分があるはずもない。 春の匂いを漂わせる梅が白や薄紅の花弁を散らしているにも関わらず、空はどんよりと重たい灰の雲に覆われていた。 灰梅 肩を貸している体が一段と重さを増してずり下がる。俺と同等の体格の男を支えるのには、随分と力が要った。 後退だ、と叫ぶ声があちこちから聞こえてくる。 「市村、そいつは置いて行け!!」 薩摩に来た時からここまで一緒だった仲間の言葉を無視して、血で濡れた男の体を半ば引きずるように一歩踏み出した。 男というより少年と呼ぶ方が正解に近い気がするこの血塗れの人間は、生まれと育ちが京の都であるらしい。京より遠く離れたこの肥後の地ではそれだけでも親しみが湧くというのに、こいつは幼い頃に沖田さんに助けられたと言ったのだ。五つの頃、不逞浪士に粗相をして斬られそうになったところを、新撰組隊士に庇ってもらったのだと。 幼い記憶ながら、薄萌黄の着物がよく似合い笑顔が子供のような人だということまで鮮明に覚えているらしい。それは、俺が出会う前の、労咳に侵される前の沖田さんに違いなかった。俺の知っている沖田さんは紺や藍の濃い色の着物しか着ることはなかったけれど、彼の部屋の隅に置かれた行李の底に明るい色の着物がいくつも仕舞いこんであったのは今でも覚えている。 沖田さんが救ったこいつを、俺が見捨てることは出来なかった。こいつのためを思ってのことじゃない。俺はただ、沖田さんと間接的にでも関わることの出来たのが嬉しいのだ。 ずるずると引きずって歩いて、小さな鳥居が見える場所まで来てそこに人影があることに気付いた。ずっと荒かった呼吸の音は既に聞こえなくなっていて、それでも優しく寝かせるように地に体を横たえさせる。ただでさえ泥と雨で汚れていた服の右半分に、自分のものでない血がじわじわと染みていくのが見える。 鳥居の前にいる人が味方かどうか分からずに、腰に差している刀に手を添えた。沖田さんから貰った花緑青の下緒は、とうの昔に色褪せて千切れそうになっている。それを補強するため、何のこだわりもない黒地の下緒を共に結んだのは何年前だったか。 「鉄、くん?」 聞き覚えのない声だったが、聞き覚えのある呼び方だった。 俺を“鉄くん”と呼ぶのはこれまで生きてきた中で三人だけで、そのうち二人はもうこの世にはいない。最後の一人の顔を思い浮かべて、確かに面影のあるそれに訝りながら口を開いた。 「銀之助か?」 俺の問いに頷いた男は、記憶の中よりもうんと背が伸びている。函館で別れたきり、今までどうしているか分からなかった友人だった。 「久しぶり、鉄くん」 困ったように銀之助が笑う。その笑顔が引き攣っているのは、俺の足元に横たわる死体のせいか、はたまた俺が敵側の人間だからだろうか。 黒い生地の、袖の縁取りにくすんだ金色を使った軍服を着ている銀之助が、こちらの味方であるはずがなかった。 「あぁ、久しぶり」 出て来た声は、あまりにも冷え切っていた。 どうしてお前がその服を着ているのか、と咎めたくなる気持ちを抑え込む。昔は副長を殺し、今は俺を追い詰めている側の服に何故身を包んでいられるのか。様々な言葉が浮かんでは消えていく。 心の奥底では分かっていた。俺のように、頑なに拘っているのは少数なのだと分かっていた。戊辰戦争で一緒になって戦って生き残った人たちの多くが、明治政府に出仕したのだと、知っている。 俺が、いつまでも過去に捕らわれ続けているのだということは、自覚しているつもりだった。 「――鉄くん。よかったらさ、僕と一緒においでよ。ずっと戦ってるのも、疲れるでしょう?」 手を差し出される。綺麗な手だと思った。剣だこがある他は、傷も何もない。俺の、霜焼けで膨れたあかぎれだらけの手とは違う。 ちらりと哀れみの浮かんだ銀之助の目を見て、そしてゆっくりと首を横に振った。気持ちは有難い、と口にした声は、先ほどよりも和らいでいるだろうか。 「……そっか、残念だな」 どこまでも優しさを含んだ言葉を紡いで、銀之助は一旦口を閉ざした。俺の足元に視線を移して、手伝うよ、と一言告げる。 何を、と問うことはしなかった。 鳥居を潜った狭い敷地の隅に二人で肩を並べて穴を掘り、鳥居の外にずっと横たえたままだった男の体を運んでから穴の中に寝かせた。丁寧に上から土を被せ、境内に咲いていた若い梅の枝を一本手折って色の変わった土に添える。そして、僅かな時間手を合わせた。 穴を掘り始めてから、亡骸に手を合わせ、鳥居から出て行くまで二人とも声を発することはなかった。 手を土で汚した銀之助がこちらを見て、眉を下げる。 「鉄くん、風邪をひかないようにね」 戦の相手にかける言葉としてはどこかおかしいそれを受け取って、俺も同じように口を開いた。 「銀之助も、達者で」 黒い軍服が視界から消えるまで見送って、後退した仲間たちに追い付かなければと踵を返した。 踏み出した足の先には、赤、薄紅、白の花弁がいくつも散っている。風に乗って運ばれてきたそれは、二つ三つと重なり合ってはまた離れていき、二度と混じり合うことは無かった。 2012.08.03. |