宇都宮で負傷した足を診せた医者には顔を顰められ、そこに同席していた島田たちには有無を言わさず会津へと追いやられてしまった。

「鉄之助を“お守”につけますから、大人しくしといて下さいよ」

そう言った中島に閉口しつつ、仲間に一時の別れを告げる。
怪我に効くと言われた療養先は会津屈指の温泉地であり、木々の葉が青々と初夏の訪れを告げようとしていた。




惑ひヶ淵




まともに歩けるようになったのは、大暑を迎えようかという頃だった。寝てばかりで鈍った体を元に戻そうと、市村を誘っては散策に出る。
初めは市村の手を借りながらゆっくりと歩いていたのが、徐々に自分で動けるようになった。宿から一里と離れていないところにある寺に近藤さんの墓を建て、そこに参るのを日課とする。隣を歩く市村に、あるときは戦術の話を、気が向いた時には日野にいたときの話をしながら、あまりにも穏やかに流れる時間にどこか現実味のなさを感じずにはいられなかった。




牛歩のように季節は移り往く。京にいた頃に比べると涼しい夏が過ぎ、白露となった。青々としていた葉は、少しずつその色を薄くしている。
朝の墓参りを終えると昼餉を摂り、暫しの休憩を挟んで市村と共に剣術の稽古をする。その後は書物を読み、夕方に再び散策に出るようにしていた。


木の葉の擦れる音に混じって、滝を落ちる水音が聞こえる。土地柄なのか、この付近には滝が多い。何かと謂われがある滝なのだと宿の主人が言っていたことを思い出す。
水音のする方に足を向けたとき、『土方さん』と呼ぶ声が聞こえた。心ノ臓がごとりと動いた気がした。数ヶ月前に別れた愛し子の声にあまりにも似ている。『土方さん、こっちですよ』と水音に紛れるように、再び総司の声がした。
今まで歩いてきた小道を逸れ、僅かに茂った藪を掻き分けて出た先に、懐かしい姿を見つける。女郎花色の紋縮緬を着て、肩に届かない黒髪を風に遊ばせ、総司は微笑った。『久しぶりですね、元気でしたか』


労咳は治ったのか、とか、どうやってここまで来たのか、という問いは全く浮かばなかった。ただただ会えた嬉しさに目頭が熱くなり、総司に触れようと手を伸ばす。すまねえ、近藤さんが死んじまった、そう告げるために口を開いた。総司が差し出した手は、あと一寸で掴むことができる。

「土方さんっ!!」

後ろから腹に回った手に、思いっきり引かれた。総司に触れそうだった俺の手が空を掻く。ばしゃんと音を立てて、足先で水が跳ねた。

「土方さん、何してるんですかっ!!入水なさるおつもりですかっ!!」

勢いで尻もちをついた俺と同じように地に腰をつけて、市村が顔を歪めて叫んでいる。どうやら怒っているようだと気付き、総司がいたんだ、と指差した先には深い色を湛えた淵が存在していた。あと一歩踏み出していたら、確実にあの淵に嵌っていただろう。

「沖田さんですか……?」

市村は困ったような顔をして、未だ座ったままの俺に手を差し出した。その手を借りて立ち上がった俺の着物に付いた汚れを払うと、市村は水を落とし続ける滝と淵を睨んで口を開く。

「沖田さんは、こんな日の光も差さないようなとこには来ないですよ。来るとしたらきっと、眩しいくらいに光が降り注ぐ場所です」

だから早く戻りましょう、と促す市村に従って淵に背を向ける。きゃらきゃらと甲高い笑い声が後ろで響いたことに、俺は気付かないふりをした。




「ここの主人が言ってました。人を淵に引きずり込む妖怪が出るから気を付けなさい、と」

淹れたばかりのお茶を差し出しながら、市村はそう呟く。副長に手荒な真似をしてすみませんでした、と俺を地面に引き倒したことを謝る声を遮った。
俺がどうかしていたのだ。気持ちが弱っていた。市村の言う通り、木が生い茂り薄暗く、身体に纏わりつくような澱んだ水気を含んだ場所など総司には似合わない。



宿の温泉に浸かり、ゆっくりと足を伸ばす。傷も癒えた。そろそろ戦いに出ても支障はないだろう。
この療養地を出る前に、千駄ヶ谷にいる総司に文を書きたい。久々の文だ、きっと喜んでくれるはずだ。陽だまりがよく似合う笑顔で文を読む総司が瞼に浮かぶ。
今日が最初で最後だ、もう二度と惑わされることはない。心中で総司に誓った言葉がお湯に溶け出す前に、湯船を出る。ぎゅっと強く踏みしめた床に足の完治を再確認して見上げた空には、雲に半分だけ隠れた宵月が見えていた。







2012.03.19.
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