※死ネタ&高校卒業数年後 |
はらり、と指をすり抜けて落ちたものを拾い上げる。日頃使わない本棚を整理していて、分厚い本と本の間から床に落ちたのは、年賀状だった。 六年も前の西暦が印字されたそれの差出人は、幸村精市。中学・高校とテニス部部長を務め、神の子の異名を持った人。そして、俺が初恋にも似た淡い感情を抱いていた人でもある。 男に恋情を抱いたことを認められず、彼女を作ったりしてみたけれど、彼に対する想いは胸の奥深くで燻り続けていた。中学から高校までの六年間、告白することも諦めることもできなかった俺の初恋は、始まることも終わることもないまま、未だに身体のどこかに埋もれているはずだ。 「今、何しとるんじゃろうなぁ」 不思議なことに、そこまで想った人を今の今まで思い出すことがなかった。 高校卒業とともに、テニス部レギュラーの進路は見事に分かれた。俺は県外の大学に進学し、現在は自由な社風の会社に勤めている。赤也はプロのテニスプレーヤーとして、手塚や越前と共に日本を代表する選手になっているし、ジャッカルは外資系の会社にいる。丸井は一流のパティシエ目指し、ベルギーで修業中。柳生は今年から研修医だ。参謀は大学院の博士課程に進み、真田は国家公務員になったと聞いた。 では、幸村は何をしているのか。 惰性で買い続けているテニス雑誌付録の選手名鑑を引っ張り出す。どのページにも、幸村の名前は載っていない。 俺は首を傾げた。なぜ他の仲間のことは知っているのに、幸村の近況だけを知らないのか。 テニス部のメンバーが全員揃ったのは、高校の卒業式が最後だ。卒業後は、丸井や柳生とたまに顔を合わせてはいたが、それも社会人になるとともに機会がなくなってしまった。 ソファに腰をおろし、携帯電話を取り出す。高校時代に使っていたやつは水没させてしまったため、今の電話帳に登録されている旧友たちの名前は少ない。案の定、幸村の名前もなかった。 テニス部にグループ分けしている中から、柳蓮二を選び通話ボタンを押す。数回のコール音の後、懐かしい声が響いた。 『もしもし』 「仁王じゃけど」 『仁王か。久しぶりだな』 電波の向こうで、柳が僅かに笑う。それにつられて、俺にも笑みが浮かんだ。きっと、参謀なら現在の幸村を知っているだろう。 世間話もそこそこに、幸村は今何をしているのか、と問うた瞬間、嫌な静けさが耳を刺した。 『ふざけているのか?』 長い沈黙の後、聞いたこともないほど怒りを含んだ柳の声に、俺は困惑する。ふざけてなどいない。ただ、幸村のことを知りたいだけだ。 そう伝えると、低く息を吐く音が聞こえてきた。呆れたような、戸惑ったような声音で、参謀は告げる。 『……精市は、事故で死んだだろう』 自分が息を呑む音が、やけに大きく響いた。携帯電話が、左手から滑り落ちる。 全てを思い出した。今まで欠片も出てこなかった記憶が、次から次へと鮮明に現れる。 卒業式の三日後、俺は着る必要がなくなったはずの制服に腕を通していた。周りには、目を赤く腫らした仲間と、黒ずくめの大人たちがいる。 棺に納まった幸村は、傷一つない綺麗な顔をしていた。まるで眠っているようだ。種類も色もさまざまな花が、幸村を覆い尽くさんばかりに囲んでいる。 その白すぎる顔色に、花を添えるときに触れた身体の冷たさに、彼が死んだという現実が襲いかかる。 涙の一つも出なかった。こんなのは認められなかった。 気づけば、土砂降りの雨の中、橋の欄干にもたれかかっていた。水を吸った制服が重量を増し、髪から次々と水滴が落ちる。 幸村精市へと発信された携帯電話からは、彼の声が聞こえることはなく、ただただ長いコール音だけが聞こえている。寒さにかじかんだ手に感覚はなく、あっという間に手をすり抜けた携帯電話は、幸村を呼び出しながら、流れの速い川へと吸い込まれていった。 「そうじゃった……」 小さく呟いて、通話の切れた携帯電話を拾い上げる。 幸村はもう、この世にはいない。 俺が死ぬまで、幸村への想いは胸の奥で燻り続ける。永遠に告げることのできなくなった俺の初恋だけが、始まることも終わることも許されないまま、永久に存在し続けるのだ。 溶存不可能 2011.10.10. |