全身を緊張に強張らせ、震える声に想いを滲ませられる。その都度、とても失礼な望みを抱いてしまうことは少なからずある。
これが、たった一人。彼女から向けられる言葉であればどれだけ喜ばしいものだろうか、と。
「付き合ってる人、いるんですよね。分かってはいるんです。だけど…どうしても伝えるだけは、伝えたくて」
そんな不誠実極まりないことを考えているこちらの思考を読めるはずもなく、名前も覚えていないような女子が首を俯かせる。視線すら殆ど合わせないまま、いっぱいいっぱいといった様子で口を動かしている。
校舎裏という定番な場所へ呼び出してきたその女子は、言葉が途切れてしまわないよう、焦りも露わに一人で盛り上がっていた。その姿をただじっと静観する、この心が揺さぶられるようなことは万が一にもない。
ただ…本気、というものがその目には浮かんでいるように見えたから、最後まで耳を傾けるだけはしてみようと思えた。僅かでもその好意に応える気になるかと訊かれれば、絶対にあり得ないと首を横に振れるが。
少なくともぞんざいに扱って許されるようなレベルの気持ちではないのだろうと、そう察せてしまう時もある。そうなると、いかに無駄な時間であろうと、真剣な想いを聞きもせずに中途半端に立ち去ることもできない。何ともちっぽけなそれだけの理由が、その場に足を留まらせていた。
(形だけだな)
優しさでも何でもない、ポーズでしかない行為だ。
だからこそ、一体自分の何にそこまでの好意を抱けたのかと、今目の前で震えている女子のような存在に対して、不思議に思う気持ちが芽生えることも多かった。
特に、交際中の相手がいると知っていて向かってくる人間は、大概が相応の切実さを見せ付けてくる。そこまで心を擦り切らせなくてもいいだろうと、こちらが歯止めを掛けたくなるくらいに、だ。
名前に恥じない体裁を整えてはいても、そもそも自分自身に他者から愛されるような人格が備わっているかと言えば、疑わしいものだと思う。
悪戯に優しさを振り撒いたりした覚えもない。勘違いを引き起こすほど他者と接触を図ることもない。本当の優しさはただ一人、大切な人にだけ渡すために育てるものだと考えて、譲るつもりもなく貫いている。
今正に、僕を好きだと語ってくれるのが彼女であれば……そんな想像を、脳の片側で膨らませずにいられないほどなのだ。
向かい合って涙を滲ませる女子のことなんて、視界に入れてもきちんと認識しているかも怪しいところだというのに。何がいいんだ、と溢しそうになる唇を引き結ぶのも、これで何度目になるのかも分からなかった。
*
「お帰りなさい」
「羽澄…ただいま」
「結構掛かっちゃったみたいだね」
一人分の気配しかない静まりきった生徒会室に戻ると、振り向いた彼女が時計を示しながら微笑む。
行く前に食べておいて正解だったね、と口にする羽澄の表情に、不安や嫉妬の陰が過ぎることはない。いつものことだと自分に言い聞かせてはみるものの、残念に思う気持ちも毎度完全には消しきれなかった。
もう少し、顔に出る程度には心配してほしい。本音は殺しきれない。
「話に纏まりがなかったからな…全て聞くには時間がかかった」
「それだけ本気だったんでしょう」
「…そうなんだろうな」
それだけ本気の相手に恋人が告白されるのは、取り立てるべきことではないのか。
口を突きそうになる不満を飲み込み、殊勝な態度を取り繕う。彼女にとってはそんなに些細なことなのだろうか、と詰まる喉元から意識を逸らして無理に頷く。
もし、自分が羽澄と同じ立場に立ったら。その時、微笑んで出迎えるようなことは到底できないだろう。向かう前から引き留め、邪魔立てしたくもなる。想像は容易に膨れ上がった。
僕以外の言葉なんて聞かなくていい、と。聞かないでくれとまで口にしてしまうかもしれない。
それなのに、だ。彼女と言えば、毎度こちらが足を止めたくなるほど穏やかな顔をして送り出してくれるのだから、堪らない。
たまに、お前などその程度の存在だと、言われている気持ちになって。胸を掻き毟ってしまいたい虚しさに襲われる。
「私がいると知ってても避けられない告白なら、それだけ大きな気持ちってことなんだろうし…」
赤司くんは相変わらずモテるね、と。彼女からしてみれば恐らくは賞賛なのだろうが、そんな言葉を掛けられたところで少しも嬉しくはなかった。それどころか、胸から背中に見えない刃物を突き立てられたような衝撃に仰け反りそうになる。
堪えきれず、無意識に顔を顰めてしまっていたのかもしれない。それまでにこやかに細められていた羽澄の目が、その瞬間にぱちりと瞬いた。
「あ…えっと……よければ、どうぞ」
何かに気付いたのか、今まで腰掛けていた椅子から立ち上がる羽澄が、身体ごと向き合うようにして軽く腕を広げる。
何の真似だろうかと、胸に走った痛みから意識を現実に向け直して首を捻れば、僅か、気まずげに彼女の視線が宙にさ迷わされた。
「触れ合うのとか、赤司くん結構好きみたいだから…余計な真似かもしれないけど」
「……」
「ごめんね。何かまずいこと言ったみたいで…だから、疲れとかストレスとか、緩和できるかなって、その……や、やっぱり駄目」
「羽澄」
「は、はい?」
「羽澄は、僕のことが好きなのか」
「……はい?」
ぱたりと、広げられていた腕が落ちる。勢いで先に訊ねてしまって、その手に甘えなかったことを一瞬だけ後悔した。
不純な思考を知る術もない羽澄は、唐突な問い掛けに戸惑いながらもぎこちなく頷き返してくれる。
「それは…うん。勿論」
「言葉で言ってくれないか。想ってくれているなら」
「…好き。ちゃんと、赤司くんが好きだよ」
「どこが」
徐々に落ち着いて静寂を保つ空気に、逆に押し潰されてしまいそうな焦燥に駆られる。
当たり前のように応えてもらった言葉が、喜ばしいはずなのに、どうしてか奥底まで落ちてこなかった。
羽澄の好意はいつだって、他の誰のものより、この目に映らない。
「どこがいいのか…今更だが、解らないんだ」
確かに、好意はあるのだろう。未だにこの僕を切り捨てず、付き合ってくれていることが何よりの証拠だ。しかしそれがどの程度の気持ちなのかまでは、把握できていない。
これでは、いつか途切れて消えてしまっても、気付くことすらできずに無くしてしまうのでは。愛想を尽かされる時、繋ぎ止めようにも間に合わないのではと、不意に襲い来る嫌な想像を消し去りきれない。
これが最後で、今度こそ大切にしたい。
だからこそ、彼女の真意が解らないまま現状を維持し続けていいのか…迷い、恐れる気持ちばかりが産声を上げてしまう。
「どこって言われると…難しいかも」
それなのに。そんな僕の葛藤には少しも気付かずに、どんな女子よりも淡泊な答えを、最愛の人は紡ぎ出すのだ。
今日は、これで二度、刃を突き立てられた。
「…それは、思い付かないということか」
「え? あ、悪い意味じゃなくてね。ほら、私は最初から結構傍で見てたから…ふと、好きだなぁって思ったのが始まりだったというか」
そんなものじゃないのかな。好き嫌いって、理由をはっきり説明できない時はあるもの。
あまりの衝撃に滅入りかけたところで、慌てるように言葉が付け足される。
宥め、慰めるために向けられる掌に、悪意は感じなかった。
「今もそんな感じで、はっきりと理由は言えないんだけど……赤司くんは、違ったりするの?」
「…今、羽澄の魅力を語れと言われれば、いくらでも語れる」
「そ…そう、ですか」
「だが…そうだな。確かに、理由にするには弱いかもしれない」
触れることを許されたその頬に手を伸ばし、流れる横髪を掬い上げる。
それだけの小さな接触すら、以前は思うままにできなかった。何も言わずに好きにさせる、漸く恋人と呼べるようになった彼女を見つめているだけでも、内側で膨張した熱で胸から喉を焼かれていく。
羽澄でなければ、こう息も吐けないほどに、惹き付けられはしない。
確かに、強い理由は見つからない。
ああ、と無意識に嘆息した瞬間に、確信する。
「同じような人間が他に現れても、僕は羽澄を選ぶだろうな」
結局、羽澄には敵わない。言葉にしてみれば、気持ちまで強まるようだった。
真剣に返した答えに少しは照れてくれたのか、近くで覗きこんだ頬に仄かな赤みが差す。その移り変わる色を綺麗だ、と思った。
出逢った頃から藤代羽澄という人間は、誰よりもよく気が付き、誠実で清廉な人だった。
関わりが長くなるごとに、その人としての評価は上がるばかり。そして同時にもたらされたのものと言えば…自分の気持ち一つ口にできないもどかしさ、切なさ、苦さといったものばかりで。
甘い感情を抱いたことなど、片手に収まるほどではないだろうか。それも、すぐに自分よりも親い人間の手によって摘み取られることの方が多かったように思う。
苦しくて堪らなかった。
それなのに、好きになった。
誰の傍にもやりたくないと、伸ばせない手に爪を食い込ませた。何度も、何度も。
無理だと理解して、残る日数を数え、別れの日を突き付けられても。想いは捨てきれなかった。
明確な理由は存在しない。
ただ、二人の間に流れていた時間が。何よりも重く、大切なものだった。
(そうか)
それが答えなら。同じ感覚を分かち合えているのなら。
もしかしたら想像以上に、彼女は僕を想ってくれていると。そういう風に捉えてしまってもいいのだろうか。
「赤司くん…一つだけ、いい?」
軽く思考を飛ばしていたところに、不意に掛かった声につられて視線を下げる。じっとこちらを窺ってくる羽澄に応じて頷き促せば、一瞬だけ、迷うようにその瞳が揺れたように見えた。
何かを気にするように、僅かに眉まで下がる。叱られるのを待つ子供のような表情を、こちらが訝る前に語り始めた。
「迷惑にはなりたくないから、言わないでいたんだけど…」
そう、前置きして。
確かに彼女は、その口から吐き出した。
「本音を言うと、あんまり…赤司くんが好かれるのは嬉しくない…好かれて、ほしくないの」
待ちわびていた、小さな我儘を。
「私だけが好きだったら、いいのにって。もし、そんなことを思っているとしたら……軽蔑する?」
申し訳がなくて仕方がなさそうな、自信なんて全くないような顔をして。初めて羽澄が、欲を出した。
対するこちらは、すぐには声を返すこともできない。衝撃を殺して呼吸を確保することで、精一杯だった。
その一言が、どんなに欲しかったか。知らないだろう。
喉から手が出るほどだ。理性的で我慢強い彼女だからこそ厚く築かれていた壁が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
泣きたくなる気持ちとは、こういうものかもしれない。
掠れた声が漏れなかったのが、奇跡だ。
「そんなことを言われたら…二度と、その手の呼び出しに応じたくなくなるな」
「それは…人望ある赤司くんには不都合、だよね」
「いいや」
頬、髪の感触を覚えた手を、滑らせて引き寄せる。同時に足を踏み出して、細い身体がびくりと一度跳ねるのを、制服越しに体感する。
このまま時間も場所も、忘れてしまいたい。これほど幸福に近い温度は、他にはなかった。
「たとえ、不都合でも邪魔をされたい。羽澄に、引き留められたいんだ」
僕の方こそ、とんだ我儘を溢しているな。
苦笑を交えて落とした言葉を慰めるように、背中に置かれる掌の熱に浮かされる。
思慮深い彼女から、わざと燻りを引き出し、悦に入るとは相当の仕業だ。そうは思っても、止められない。止まらないくらいに、愛しさは育ちきってしまっていた。
「もっと、困らせてくれ。羽澄の我儘を聞きたい。独占されたい」
狭い世界に閉じ込めて、自分だけを見つめるように。
叶うなら、終わりが見えないほど。強く激しい感情を、同じだけ向けてほしいのだ。
飼い殺されずの魔物「でも、赤司くんが好かれたり憧れられるのは、ある程度仕方がないことだと思うよ」
しかし、ここまで来ても彼女は、腕の中におとなしく収まりながら、一度ちらつかせた欲望を掻き消す台詞を付け足す。
不満を訴えるために再び顔を覗き込むと、そこに待ち構えていたのは想像していた、普段よく浮かべているような穏やかな笑みではなかった。
明らかに諦念の滲んだ笑顔は、苦く、甘い感情を今一度、芽生えさせる。
「私は、そういう子達の気持ちも解るから、強く言えない。言ってはいけないと思ってる。けど…」
一度区切った、唇から溜息が漏らされた。
「私が一番、あなたのためになろうって、努力したことだけは自信があるから……それを忘れないでいてほしい、かな」
「そんなのは今更だな。羽澄はもっと欲張っていい」
解っているに決まっている。勿論だと、肯定する。
その決意に救われ、そして打ち砕かれ続けたのは誰だと思っているのだろうか。
あれだけの後悔も痛みも、そう簡単に忘れられるわけがない。羽澄は本当に、この胸に巣食う気持ちを甘く見すぎている。
「贅沢だよ。これ以上は」
「そう謙虚になられると、僕の体裁が悪い」
「え…?」
「もっと…僕でなければ駄目だというほどになってもらわないと」
自分ばかりが駄々をこねているようで、格好だって悪いじゃないか。
掻き分けた髪の間、その額に唇を触れさせながら願う。この欲深さが、彼女にも伝染してしまえばいいと。
他の誰にも引き出せないものを、剥き出しに。どうかもっと、おかしくなってくれないか。
赤く赤く染まっていく頬を撫でて、動揺して揺れている瞳を覗き込む。薄く開かれた唇から、早く、綺麗なばかりでない欲求を吐き出して、食らわせてほしかった。
2014赤司birthday
20141220.
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