なんてことはない、一生の内の一つの節目。
都心から遠く離れた土地でその日を迎える心に、特にこれといった感動の波は訪れなかった。

成績優秀者として新入生の代表に選ばれ、式に出ることすら既に決まっていたようなものだ。今更緊張も何もない。
職員室の片隅にある接待用のソファーに腰掛け、担当教師と二人で式の最終確認と称した雑談を交わしていた僕は、切りのいいところで話を区切ってその席を立った。


「それでは、そろそろ教室の方に戻らせていただきます」

「ああ、よろしく頼むよ…っと、忘れてた。原稿を預かっておかないと」


注意力散漫。
忘れていた、と頭を掻く教師を内心そう評価しながら、いつでも取り出せるように鞄に仕舞い込んでいた用紙を取り出して手渡す。
随分と無駄な時間を過ごしてしまったが、まだ走り出しだ。気にするようなことでもない。


「いやあ、最近の高校生も捨てたものじゃないな。しっかりしている」

「当然の行動ですよ」

「はは、心強い限りだ」


裏のなさそうな笑みを浮かべる教師は、少々頼りなくはあるが面倒な部類の人間ではない。
こちらも当たり障りのない笑みを唇に浮かべて、返事を紡ごうとして…止まった。

視界の隅に入っている、窓。その外に一瞬だけ、覚えのある影が写ったような気がして時間を忘れる。


「赤司?」


つい、外を振り返ったこちらの行動に不思議そうに訊ねる声にも、返す声が胡乱なものになる。


「ああ、いえ…遅咲きだなと」

「ああ…今年は遅くまで寒かったからなぁ」


特に意味のある会話でもなかったが、単純な教師は素直に受け取ってくれたらしい。
今度こそしっかりと挨拶を交わして教室を出ながら、どうして錯視を起こしてしまったのだろうかと、考えてみれば答えはすぐに出てきた。

あの花が一番好きなのだと、いつか彼女が口にしていたのだ。


(覚えているものだな)


よくもまあ、他愛ない会話の一つまで。

それだけ、逃さないように必死だったのだろう。近づけるだけは近づきたくて、彼女の欠片を拾い集め続けた。その所為で幻想まで目にしてしまうとは、思いもしなかったが。

焼きが回ったものだと、息を吐きながら廊下の窓から眺めた外の風景は先程とは違った景色が広がっている。
校門から下駄箱にかけて止まらない生徒の流れの中に、所々戸惑うような様子を隠さずに歩く、恐らくは同じ新入生の姿をちらほらと見かける。何気なくその波を眺めていた僕の呼吸は、今度こそ心臓ごと止まってしまった。


(夢か)


もしくは、先程のように幻覚を見ているのだろうか。

無意識に胸を押さえた掌に、鼓動が響く。強張る喉を開いて息を吸って、そうして強く、一度だけ目蓋を下ろした。
けれど、再び現れる景色は変わらない。人の立ち位置が変わっているだけで、瞬き一つの間に劇的な変化は訪れなかった。

夢ではない。幻覚でも。
何よりこの目が、見間違えるはずがない。

考えるより先に窓の傍から遠ざかっていた。胸の奥で何かが弾け飛んで、膨れあがる期待感に交わす足の速度が増す。
すれ違う生徒や教師の驚く顔も、目には入っても気にする余裕はなかった。


(もし)


もし次に、最後に、もう一度だけ奇跡が降りてくるのなら、その時は…
今度こそ、迷わずに手を伸ばす。そう決めた。
訪れないと思われた機会に、賭けたのは自分自身だ。

辿りついた下駄箱で靴だけを履き替え、荷物も置いて外へと駆け出す。生徒の波に逆らって目的の影を探せば、そう遠くはない桜の木に立ち止まりながら見惚れる、その横顔を見つけた。
慈しむように頬を弛める、その姿に呼吸が詰まる。夢ではない。幻でもない。理解して、胸を掻き毟りたいような感覚に襲われる。

それでも、手を伸ばす先は自分ではなく、今この瞬間に頬にかかる髪を掻き上げようとしていた、真新しい制服に包まれた手首だった。


「っ! え…」


細い手を、力加減も疎かに引き寄せた。
体勢を崩した彼女は姿勢を正しながら首を回し、僕をその目で捉えた瞬間に瞠目し、息を呑む。

あの日、別れた姿と大差ない。一ヶ月も経っていないのだから当然のことだが、どうしてだろうか。頻りに瞬きを繰り返しながら唇を戦慄かせる彼女の姿は、あの日よりもずっと、頼りなく見えた。


「っ…!? あ、か‥っ」

「羽澄…」

「な‥何で…嘘……」


恐らく無意識に、遠ざかろうと身を引く身体を、腕を支点に引き寄せて留める。
混乱しているのは彼女だけではない。けれど、戸惑いよりも膨れあがる感情が、滔々と流れ出して仕方がない。

ここに、いる。すぐ目の前に。
追い掛けたくて、振り向かせたくて仕方がなかった、たった一人が。


「ちょっ‥待って…おかしい、嘘…」

「嘘じゃない。ついでに、夢でも」

「ま、っ…む、紫原くん…っ!」

「…敦?」


首を横に振りながら、ずり落ちた鞄を自由な方の片手で探る彼女の反応は見たことがないくらい焦っていた。
震える手で取り出した携帯を操り、台詞から聞くに中学時のチームメイトへと繋ぐと、逃げるようにこちらから顔を背ける。その態度には多少苦い思いも抱いたが、目の前に彼女がいることを考えれば、何でもないものとも思えた。

その間も、片手は逃がさないように握り締めてある。


「むっ紫原くん! どういうことなの…いや、何がって、何で赤司くんがここに…え? は…?」


混乱を露に、必死な声で通話する彼女に、その向こうの男は何を話しているのだろうか。
唐突に、騙したの、と声量を高めた彼女の肩が大きく震えた。


「わっ、私そんなこと言ってな…えっ? ちょっと待ってまだっ……!」

「…切られたのか」

「う…嘘、でしょ……」


ずるりと、力なくしゃがみ込んでしまった彼女に合わせて膝を折れば、再びこちらに向いた目はすぐに逸らされる。

片側しか聞こえなかったが、話しぶりから察するに、彼女が僕を避けるつもりだったことは理解できた。
中学時代も必要以上には近寄られなかったことを考えると、今更傷つくことでもない。

自分だけが抱いている想いでも、構わない。
今は、彼女が目の前に存在する奇跡。たったそれだけのことも、胸を満たすには充分すぎることだった。


「羽澄」

「…あ、の…何で、名前で」


最後まで訊ねきる前に、唇を噛みながら彼女は俯く。
周囲を歩く人間の訝しげな視線すら気にならないくらい、その一挙一動から目を離せなかった。


「呼びたいから、と言ったら困るか」

「困るよ」


悩む間もなく切り返された短い台詞は、的確に胸を刺してくる。

それでも諦めきれない。痛みを噛みしめる僕の手に、握り締めていた手首から小刻みな振動が伝わった。


「私、もう嫌だもん。もう…赤司くんの役に、立てない」


都合良く、なれないよ。だから呼ばないで。

湿った声で呟かれたその言葉達に、頭を強く殴られたような気がした。
そして視界が、一気に開ける。先程とは違う苦しさが込み上げて、自分の手先まで震えてしまいそうだった。


「ならなくていい」

「な、に…?」

「都合が良いだけの藤代が要るんじゃない。僕は」


今の自分は、どんな表情でいるのだろうか。
ひどく情けない顔をしているかもしれない。それでももう、構わなかった。
体裁なんて気にするぐらいなら、最初から追いかけたりしない。未練がましく居座る感情を、自ら抱え込むことだってしない。

ただ、繋がりが切れてしまったからこそ、拘りもプライドも必要なかった。
力の抜けた手首からずらして、あの日よりもしっかりと、その指まで絡め取る。


「もう一度、始めたい」

「あ、かしく‥」


契約より、約束より、愚かしい言葉一つで彼女を縛れたなら、どれだけ幸せなことだろうか。
戸惑いに揺れる瞳から頬を伝って落ちる涙が、あの日の笑顔よりも綺麗だと思った。

今までなら決して目にすることは叶わなかった弱さを、嬉しく、愛しく感じてしまうと言ったら、君はどんな顔をするのか。
怒っても、更に泣かれても、たとえ笑われたとしたって、きっとこの気持ちは変わらない。それだけは断言できる自分に、恐らく表面上は歪な笑みが浮かんだ。


「羽澄」


君に伝えたい言葉があるんだ。

濡れた瞳から落ちる涙を、空いた指先で拭いながら覗き込んだ。


「好きだよ」


好きだよ。ずっと。叶う確率がどれだけ低くても、諦めることができないくらいに。


「羽澄が、好きだ」


演技も契約も、もう必要ない。
この気持ち一つでいい。欲を言うなら、二つがいい。

これ以上ないくらいに瞠られた瞳から数秒後、嗚咽と共に溢れだした涙と握り返された手が、彼女の答えだった。







カウントリバース




下駄箱から遠くない桜の下、身を縮めるようにして漸く抱きしめたぬくもりを身体に刻みつける。
二度とは起こらないだろう奇跡に思いを馳せながら、甘やかな香りを吸い込んだ。

これが正真正銘、僕らの最後の始まりだ。


20121222. 


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