赤い赤いその色に、戦慄を覚えた。
無力な両手に、動かなかった身体に、これ以上ないほどの屈辱を味わった。
そして何より、湧き上がる感情に恐怖した。

その日、その瞬間、何もかもが絶望へと世界を覆した。






運が悪かったと言えば、それまでの話だったのだと思う。
その事件は、少年が最後の小学生生活を送っていた年、少女が受験を控えていた年に起こった。

花宮の家系の富裕さは、世間にも見て判る程のものであった。
過ぎる程に他を蹴落とすやり方に恨みを持つ人間は多く、その財産に目をつける好ましくない人間もまた同様に後を立たない。
自らの後を継ぐ子供達に危害が向かわぬよう、大人達は常に細心の注意を払っていた。
しかし運悪く、その事件が起こった日に限って、彼の周囲を固める人材が一人として存在しなかったのだ。

本来ならばその日は、数人の子供と連れ添って帰る日の筈だった。
しかし悪い出来事は重なるものなのか、一人は体調不良で早退し、一人は習い事の予定が変わったと逆方向の帰路につき、また一人は最初から欠席していたりと、何らかの悪意を感じるほどにやけにタイミングの合わない日だった。
下校時間になる前から、彼が既に危機感を感じていたのは確かだった。
しかし、彼にはどうすることもできなかった。
いないものは、いない。それをどうしろと言うのだろうか。

否、本当のことを言えば、どうしようもないほどに行き詰まっていたわけではなかった。まずいと感じた時点で家にでも連絡をして、迎えでもタクシーでも呼ぶという手はあっただろう。
しかしその行動は、彼の中の意地が許さなかった。

彼は、彼女に張り合っていたのだ。
三つ離れた歳の差は、ちょうどその頃の幼い身には顕著であった。
届くはずもない身長、敵うはずのない学力、狭い器しか持たない子供の世界に甘んじた彼には彼女の成長は脅威でしかなく、歯噛みばかりを繰り返す日々を送っている最中であった。

彼女は、他の花宮の子供達とは違った。
年齢故のことでもあるのかもしれないが、そうだとしても彼女には過ぎた庇護は与えられていなかった。
それが彼女の両親の計らいだったのか、本人の意思だったのかは定かではない。
が、何れにしても彼女は周囲に護りなど置くことはなく、危機的状況に陥ったとしても最小限の被害で収めながら、何もなかったような涼しげな顔で生きていた。

その事に、口惜しさを感じないはずもない。
自分より劣っているべき人間が、自分よりも自由に振舞い、悠々と生きているのだ。
それを思い出してしまったのが、悪かった。
自らの無力さを顧みず、己を過信する原因となった。

余りにも無防備な行動だと解っていたはずなのだ。
解っていたのに、彼は気づこうとしなかった。
そうして、最大の失敗を引き起こすことになる。








赤い、赤い色が、少年の視界を染め上げた。

見ず知らずの不審な男から、その細い身体で少年を隠した彼女が、糸の切れた人形のようにがくりと地に膝をつく光景。
その一部始終が、コマ送りのように脳裏に刻み付けられる。

何が起こっているのか、それまでの展開を忘れてしまうくらいの衝撃だった。
事の顛末の掻き消えた彼の脳は、その瞬間からの情報しか読み取らない。

彼女の背後にいた男が言葉にならない何かを喚きながら逃げていくのが、視界の隅に写った気がした。
しかしその場に尻餅をついたままの彼の意識には、目の前で転がる少女の姿しか、認識できない。

細い背中に、刺さったそれは、ナイフだった。
白い制服にじわりじわりと広がり続ける赤は、紛れもなく彼女の…



「椿っ!!」



唐突に響いた声に、びくりと少年の肩が跳ねる。
警戒心も露に振り向いた彼の目に、少女と同じ中学の制服に身を包んだ一人の男子が写った。



「何をやっているんだお前は!」



神経質そうな顔つきの、彼女よりも背丈のあるその男子が駆け寄り、少女の意識を確かめる。
その光景を、彼はただ呆然と見つめることしかできない。

情報量が多過ぎて。否、認識したくない情報ばかりが中枢から脳へと運ばれてしまうから。
落ち着きなど取り戻さずとも、回り過ぎる頭はその状況を彼へと伝えてしまう。



「椿、息は出来てるか」

「っ……た…ぶん…」

「ならいい。ナイフは抜かないでおく。通報はした。救急車も直に来る。それでお前、こいつはどうするんだ」



鋭い目に射抜かれて、彼は全身が凍りつくのを感じた。
どれだけ歪んでいようと、無防備な状態に晒された心は幼い。認められない現実に、震えていた。

どうして認められようか。
散々虐め抜いてきた人間に、身を挺して命を救われた、などと。
その上、パニックを起こして動けずにいた彼の目の前で、ただならぬ親しさを滲ませる男子が彼女の為に迅速に事を運ぶ様を見せつけられて。

何もかもを崩されてしまったような感覚が、少年の胸を満たした。
嘘だと、何かの間違いだと、叫びだしたくとも彼の喉は引き攣り、掠れた息しか吐き出せなかった。

喋る余裕もなくした彼女が、答えを伝えるように彼の腕を掴んだ。それは確実に、彼が二の舞を踏まぬ為の配慮で。
彼には自らの危機感の欠如を、責められているように思えた。

お前の所為だ、と。









「あなたの所為だとは言わないけどね。あなたがもう少し注意深ければこんなことにはならなかったのよ」



彼女とよく似た相貌が歪む様を、彼は見上げることなく立ち竦む。
あれからすぐに救急車で運ばれた彼女に付き添い、集中治療室の扉の前で棒立ちになっていたところに慌ただしく駆け付けてきた彼女の母は、鋭い牙を容赦なく彼へと突き刺した。



「私が決めることじゃないけど、もう見てられない。あの子が何をしたっていうのよ…何であなたみたいな子供を庇うために、危険な目に遭うのよ!」



ざくり、ざくりと心を抉られながら、何も答えることができない少年の呼吸は浅くなる。

本当に何故、こんなことになったのかと、彼にも理解できなかった。
何故、今日に限って襲われたのか。
何故、彼女が自分を庇ったのか。
何故、自分は何もできなかったのか。
何故、何故、何故…



「一生…とは、私には言えないわ。でも、もう暫くは娘には会わせたくない」

「……っ」

「容態は…気になるとは思わないけど、あなたの両親には伝えるわ。もし聞きたいならそっちから聞きなさい。無いでしょうけどね」



下された罰に、抗う力は無かった。
気にならないと決め付けられたことが、ひたすらに苦痛であっても。
どれだけ首を横に降りたくとも、彼にはその意思を表に出す権利は与えられなかった。
だから残ったのは、赤に染まった彼女が倒れ伏してしまったその光景だけで。

それだけが染み着いた脳を抱えて、両親に容態を訊ねたところで、彼らはいかにも他人の不幸を笑うような答えしか返してくれず。
歪んでいるだけで、未だ幼い彼の心は、取り返しがつかないほどに砕けてゆく。

違う。違うのだ。
彼女の傷がどうなったのか、それだけが聞ければ、いいのに。
これ以上傷つけるつもりなど、もう少しも、欠片もないのに。

彼女が自分をどう思ったのかも、分からないことが空恐ろしく。
息苦しさに藻掻く日々は、そうして更に最悪の展開を向かえてしまう。



「京…都……?」

「らしいわね。わざわざ都心から離れるなんて、何がしたいのかは知らないけど?」



指先から嫌な痺れが広がり、両膝から力が抜ける。
三年、という文字が少年の頭の中で廻った。

事件の日から顔を合わせることができなくなった彼女は、順調に快復すると何の問題もなく難関校の受験に成功したらしかった。
それも、実家からはどうやっても通えないような遠方の高校に進学が決まったのだと、語る母の声が彼の思考を殴り付ける。

考えが甘かったのだと、彼は目眩を起こす頭を抱えながら理解した。
暫く、という縛りの長さは考えないようにしていた。それが漸く明確な数字となって叩きつけられてしまったのだ。

三年。三年の期間、ろくに彼女と接触は図れない
その間に、どれだけ離れてしまうだろう。
元から近くもなく、関係に好意などある筈もない。
それでいて、三年。三年は確実に、物理的な距離が開く。

何も考えられなくなりそうだった。
どうしようもなく胸が騒ぐのに、身体はぎこちなく強張りきって。

ひょっとするともう二度と、顔を合わせる機会は喪われるのかと。
その考えが過った時、彼は子機を掴んで自室へと走っていた。






災厄の種を蒔いたのです




何もかもが、崩れてゆく。
彼を嘲笑うように、運命は竹篦返しを始めた。



『もしもし?』



受話器越しのその声を聞いた瞬間に、彼は自分が何をしているのか理解できなくなった。

何か言いたいことがある筈なのに、言葉は浮かばず、混乱ばかりが生じる。
その無言に不思議そうな吐息が耳に届いて、次の瞬間に彼は通話を切っていた。



『まさか…花宮くん?』



ぶつり、と。
切れてしまったのは、果たしてその通話に限られたことだったのか。

彼女が初めて呼んだ彼の名は、彼自身ではなく“花宮”だった。
その瞬間に、聡い彼には解ってしまったのだ。

彼女は自分に興味がないわけではなかったのだと。
彼女は“花宮”を憎んでいる。
そして彼女は自分を、“花宮”として見ていたのだと。
その、意味は。

がつり。
床に落ちた子機が、鈍い音を立てた。



崩れて、崩れて、更に崩れて。
壊れてしまったのは、どちらだろうか。
20121011. 

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