「にしても、ここまで忍耐強いとは思わなかったわ」
一夜明け、まだ薄暗い空をカーテン越しに確かめながら、濃いめのコーヒーを二杯淹れる。
今日の講義は昼からなのでここまで早く起きる必要はなかったのだけれど、昨夜から一泊し、一度家に帰るという彼に合わせて目を覚ました私は眠気を追い払いながら軽く溜息を吐いた。
「一つ屋根の下に二人きり。なのに一瞬も手を出さない…」
「五月蠅ぇ」
「キスの一つくらいしていい場面だったわよ」
「お前は何でそう恥らわねーんだよ…」
頭が痛むと言いたげに額を押さえながらソファーに寝転がる男。
背凭れ側からカップを差し出せば、深く息を吐き出しながらその身を起こした。
「性分かしらね」
「あーそうだな…」
悪女め、という呟きは聞き流し、自分の分のカップを傾けながら半分呆れ、半分感心する。
部屋は別としても、お互い気のある男女が一夜を共にするとなるとそれなりに展開は定まってくる。
何をされても文句は言えないし、言うつもりもなかったのだけれど。
しかし伊達に長い付き合いではないというか、この私がガードを緩めても結局彼は唇一つ奪いに来なかった。
(躾過ぎたかしら…)
そこはもう少しくらい肉食で構わないのに…と、ついつい溢れそうになる溜息をコーヒーで流しこむ。
まだまだ課題は多いということか。
とは言え確実に手には入れられたのだから、これから完璧に誘導する気はないのだけれど。
「4時半か…」
「間に合いそう?」
「朝練はどーだかな」
まぁ別に平気だろ、とコーヒーを呷り、カップをテーブルに置くと立ち上がる。
その表情はあまり見ない険の抜けたもので、彼の中で何かが変わったことを体現していた。
私との間に流れる空気すら柔らかいことも、決して寝起きの無防備さから来るものではない。
関係性は変わった。それらしき言葉の一つも、交わしやしなかったけれど。
「じゃあな」
「ええ、いってらっしゃい」
少ない荷物を肩に掛け、靴を履いて扉を開けた彼の背中を見送っていると、外に踏み出した足が一度引き返す。
忘れ物はなかったようだけれど…と首を傾げた私の唇が噛み付くように塞がれたのは、一瞬後のことだった。
「じゃあな」
「…いってらっしゃい」
ぱちり。
瞬く私からすぐに逸らされた顔はどこか満足げで、その表情はその表情で中々可愛らしい。
もしかして、タイミングでも図っていたのだろうか。そう考えると何だかおかしい。
彼の背中が扉の向こうに消えた瞬間、私は堪えきれずに少しだけ吹き出した。
「奪われちゃった」
嗚呼、これはこれで、愉しいものね。
素気無いふりをして案外と柔らかく重なった唇を指でなぞって、部屋へと踵を返す。
私のための輝かしい未来は目前だと、ほくそ笑みながら。
エピローグ恋なんて、甘っちょろいものじゃない。
欲に塗れて色を変え、縛って引き摺って落とし込む。
どうしようもない執着心を、私達は愛と定義付けるのだ。
20121028.
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