支給される部費に差異はあれど、全部活に部室が完備されているのはとてもありがたいことだと思う。
特定の文化部以外に対し部室らしい部室が与えられていなかった中学時代は、ものを置く場所一つにも都合がつかず探し回っていたものだ。
他と比べたことはないけれど、洛山高校の学費が決して低くはないということは、受験前より話に聞いて知っている。その分学内設備が整っているので、うまく回っているのだろうなぁ…と入学してからぼんやりと思うようになったことだ。
奨学金の制度も充実しているし、多分この学校はかなり理想的な形で成り立っているのだろうと、いつからか感じていた。
「さて…今日は作業もだけど、決めなきゃいけないことがあるね」
靴のまま上がって無駄に汚したりしないよう、畳の敷かれた床に座り込んでいるのは、私を含めた三名の女子だ。
部長を務める芥菜先輩がメモ帳を取り出すと、副部長の紅谷先輩はかったるいと言わんばかりに胡座をかいた。
「めんどくさーいー」
「こら、足」
「いーやん。私ら以外おらんし」
「みょうじちゃんが居づらそうだからやめる」
「慣れんなぁ」
スカートの下に短パンを履いていることを知っていても、毎度私の方が焦ってしまう。
けらけらと笑って手を振る先輩にすみません、と肩を縮めると、部長の持っていたメモが副部長の頭を軽く叩いた。
「いや、みょうじちゃん何も悪くないから。それより話し合いするよ」
「その話し合い、全員いなくて大丈夫なんですか?」
「んー、まぁ、他は気が向いた時に集まる感じだしね。事後報告でも気にしないでしょ」
あっけらかんとした物言いをする芥菜先輩は、大半の部員に対して寛容だ。頭数が揃って活動が認められていれば、あとは自分ややる気のある人間だけいればそれでいい、というスタンスらしい。
その結果幽霊部員になる生徒もかなりいるのだけれど、たまに気紛れのように手伝いにやって来てくれるから、上下関係は特に悪いものでもない。
少人数で大変な作業の時には、普段いない部員達も集まってくれたりするし。
居心地は悪くないから、うちの部は恐らくこの形でいいのだ。
「許可の下りた保健室裏の花壇に何を植えるか、今回の議題はこれなんだけど」
「何でもいーよ」
「紅谷あんた本当何で園芸部いんの」
「何であっても花は好きだから?」
「なら咲かせろ。育てなきゃ咲くものも咲かないんだからね」
いい…のだ。多分。
気心の知れた二人の先輩のやり取りは止めようとしなくても止まるものだから、苦笑しながら見守るに限る。
芥菜先輩も適当なところでは適当だけれど、紅谷先輩の自由さには敵わない。
花は好きだが手間暇掛かりすぎる、と言い放つ先輩は、それでも仕事を与えられればしっかりこなしてみせるから憎めない人だ。暑い寒い眠い疲れたと、不満を溢しながらも手を抜くところは見たことがない。
「まず、面積はそう広くはないから最高でも二種でいいと思う」
「向日葵とかぶわーっと植えてみたいよなー。すぐ枯れるけど」
「見映えはいいけど後がちょっとね…みょうじちゃんはどんなのがいいと思う?」
「今植えるなら…ガーデンシクラメンとか…プリムラも可愛いですよね。ヤグルマギクはちょっと小さいかな…」
個人的にはこじんまりした花も大好きだけれど、遠くから見ても色が知れる方がどうしても印象に残る。
パンジーやビオラは在り来たりだけれど、世話のしやすさはいいと思うし…と宙を眺めながら悩んでいると、既に話し合いに飽きたらしい紅谷先輩がごろりと畳に転がりながら見上げてきた。
「みょうじが一番好きなの何だっけ?」
「一番は…セントポーリアですかね。水やりの調整がいるし、花壇より鉢の方が向いてます」
「あ、そうだそうだ。あれ暑いところの花だったもんね」
「根腐れしやすいですよね。花も大きくないし色合いも大人しいし、見映えのよさも他の花には多分負けます」
会話に乗りながらも寝転がったままの紅谷先輩を芥菜先輩が起こそうとするも、にやにやと笑うその人は従わない。
一番好きな花、と訊ねられたものを思い浮かべる私は、二人に混ざる勇気はないのでどちらの加勢もしない。
「セントポーリアとかカランコエとか…みょうじは大人しい花が好きかー」
「華やかな花も好きですけど」
「華やかねぇ…薔薇とか? でもチョコレートピンクとかの色が好きっぽい」
「それは…アンティークっぽくて確かに好きですけど…どの色も綺麗だとは思いますし」
「赤も?」
紅谷先輩を起こすことに躍起になっていたと思えば、加わる声にどきりとする。
「赤、も…好きですけど…」
ぎこちなく首を回して芥菜先輩へ焦点を合わせると、やはり、わざとだったらしい。見た目には穏やかな笑みを浮かべた先輩は、にこりと笑いながら首を傾げた。
「先に会長にちゃんとお礼言うべきかな。私達も」
急激に冷えていく心臓を感じて、指先まで固まってしまう。
意地悪で言われているわけではない。解ってはいるのだ。先輩達には悪気もない。
部活中やそれ以外の部分でも、私が彼と親しくしていたことを先輩達は知っている。
そして、私が今その彼を、避け続けていることも。
きっと、直接お礼を言えていないことも見透かされているのだ。
核心突かれるとどうしても動揺してしまって、震えそうになる唇を開いた。
それはよくないよ、と。芥菜先輩の目が語っていた。
私も、よくないと解っていた。
「……いえ、私が…私の我儘っていうか、溢した言葉を拾って貰ったんだし。お礼はしなきゃいけないんですけど…」
「ですけど?」
「こ……怖くて」
どうしても、植え付けられたトラウマが脳裏に焼き付いて消えてくれない。
気温だけじゃない寒さを感じて腕を擦ると、仰向けの体勢から覗き込んでくる紅谷先輩の瞳がぱちりと瞬いた。
「お礼言われて気分悪くする奴なん?」
「え…いえ。それは……」
一瞬、答えに詰まる。
短くない期間、親しく接していた記憶もまだ、遠くはない場所に残っていた。
「ない、ですね…」
今はもう、その裏側が覗けないことが恐ろしくて、見るのも叶わなくなった彼の笑顔。
感謝を紡げばそれだけ、嬉しげに眦を弛めていた。穏やかで優しい人だと思うくらい、私には親切にしてくれていた。
思い出すと途端に罪悪感も込み上げてきて、悄気そうになる。
私には優しかったのに、私は彼に、きっと酷い態度をとっている。
「…うん。やっぱりちゃんと、お礼はしなくちゃいけませんよね」
利益なんて、ないだろうに。私の溢した言葉のために、多忙な中で正式な手続きを踏んでくれた。それが好意でなされたことだとは、分かっている。
そう。いつ崩れるかと疑う気持ちはあるけれど、まだ、赤司くんは私には優しいのだ。
だったら私も、せめてその優しさに見合う誠実さくらいは、持っているべきだ。
私の答えを聞いて表情を弛めた二人の先輩も、急に距離を取り始めたことを心配してくれていたのかもしれない。
学校設備に限らず、私は周囲に恵まれているのかもしれないと、今更に思い知らされて何だか恥ずかしかった。
とはいえ、だ。
いくら頑張ってみたところで、直接向き合ってまともな言葉が紡げる自信は全くない。
鮮やかな赤い髪を目にして、印象的な双眸と視線を合わせて、冷静ではいられない自信の方が大きかった。
お礼に出向いて失礼な態度をとってしまうなんて、本末転倒だ。お礼一つ伝えるために時間を掛けすぎるのもおかしい。
その辺りはもう仕方がないことと今回は割り切って、申し訳ないけれどハードルを下げさせてもらうことにした。
「えっと…突然のお手紙失礼します……と」
帰宅してすぐに机に向かい、取り出したのは絵柄のないシンプルな便箋だ。
普段から手紙を書く習慣はないので、有り余っている便箋の束から一枚引き抜く。下手に飾らない方が気持ちは伝わりそうだから、ペンの色は黒一択だ。
まずは椅子に腰掛けて、当たり障りのない一文を綴る。
暫くまともに話していないとか、態度を変えて接しているとか…そういう事情に触れる必要はないだろう。お互いに、気まずい思いをするだけだ。
書くべきことと書かないことを取捨して、慎重に文章を拵えていく。
時折ペンの先を迷わせつつ、ゆっくりと。
「今回お手紙を書かせていただいたのは、新しく与えてもらえた花壇の件について、きちんとお礼が言いたかったからです…私の我儘で手を煩わせてしまったようで、すみませ……」
違う。すみません、じゃない。
ぴたりと、紙面の上で止まったペンが染みを広げる。その瞬間にざっと読み返した文面に、思わず自分の顔が歪むのを感じた。
これでは駄目だ、と思ってしまった。
伏せた目蓋の裏で、柔く相好を崩していた彼の姿を、言葉を、思い出して。
「違うな」
少しだけ砕けたやり取りを交わすようになった、出会ってからそれなりに時間が過ぎた後のことだった。
あれは、そうだ。昼休みを潰して作業していた最中、不注意で飛んできたボールが私の頭にぶち当たって、ちょうどその場を彼が通り掛かったのだ。
花を潰さずにすんだのはよかったのだけれど、ボールを取りにきた男子は痛みで踞った私に気付いただろうに、一言も何も言わずに立ち去ろうとして。それを見ていたらしい彼が、校舎の窓の向こうから声を掛けてきた。
昼休みに遊ぶなとは言わないが、周囲には気を配れ。不注意で怪我をさせたかもしれない人間がいるなら、謝罪して手当てくらいしたらどうだ。
それまで私が見たことがなかった厳しい目をして、逃げようとしていた男子にそう告げた。
結局、慌てて謝ってきた男子を大したことはないから大丈夫だと返した後も、彼は校舎から出てくると心配して付き添ってくれようとして。
付いた泥を払い落として、痛くないかと訊ねてくる彼に、いらない時間を使わせてしまったことが心苦しくて、つい私は謝ってしまったのだ。
そうして帰ってきた言葉が、それだった。
「謝罪は要らない。みょうじは悪いことをしたわけではないだろう」
「あ…」
「僕は謝られたいわけじゃない」
「…はい。赤司くん」
違う、と言われた。その意味が解れば、自然と自分の頬も弛んだ。
優しくされているのだと分かった。
「ありがとうございます」
きっと、これが正解だろう。優しくしてもらえて嬉しいと、気持ちを伝えるためには。
選んだ言葉はしっかり届いてくれたようで、ふ、と息を溢して微笑んだ彼はどこか満足げだった。
ツユクサ ― 懐かしい関係,ノスタルジー ―
「…書き直そう」
お礼を伝える言葉なら、“ありがとう”と書かなければ。
真心を込めるなら、正しく綴らなければならない。
空白部分の余る便箋は丸めてゴミ箱に落として、新しい一枚を引き出してペンを握り直した。
今も、あの時も。
確かな喜びを感じた私の気持ちに、偽りはないのだ。
20140918.
prev / next