シリーズ | ナノ



「…ほら、何も変わらない」



呆然とした。
言葉通り、何も変化したところのない表情、態度に。

凝視する私にほんの少し首を傾けた件の帰国子女は、浮かべた笑みを崩すことはなかった。



「……なん…で…?」

「何ででも。掛からない自信があるって言っただろ?」



どこか得意気に穏やかな笑みを浮かべる氷室辰也には、やっぱり何か、私とは別の特殊な力が備わっているのか。思わず疑ってしまう。
確かに、自信があると口にはしていた。けれどまさか、本当に無影響でいられるとは思わなかったのに。



(何で…)



伸びてきた手を避けるように、確かに私は片目を閉じた。この目から発動する魔法の条件は、それだけだ。
逃れられた人は今まで見たことがなかった。決して目の前の人物まで誑かしたいわけではないけれど、おかしいものはおかしい。今までずっと、施す私すら逃れようのない呪いだったはずなのに。

頭の中が混乱している所為で、口から言葉が出てこない。
乾いていく唇をぱくぱくと動かすことしかできない私に、にっこりと笑みを深めた初めての例外者は、掛からないと信じられた根拠をその口で語った。
それはとても、意識が私に向けられていないとはっきり伝わるくらいに甘い感情を乗せた声で。



「オレには既に、振り向かせたい好きな人がいるからね」



笑っている瞳が一瞬、全く別の炎をちらつかせたように見えて、ぞわりとした感覚が背筋を駆け抜ける。
自信を持つだけあって、口調までしっかりとした力を持っているように響いた。私自身に制御できないような魔法では、とても敵いそうにない。

既に好きな人がいる。
まさか、そんな理由が撥ね除ける力になるなんて、知らなかった。考えもしなかったのに。



「よく解らない力なんかで気持ちを曲げられたら堪らないよ。少しも気になってない人を、ウィンク一つで好きになるなんてあり得ない」

「あ…あり得ない…って…」



でも、だけれど。私にとってそれは事実で、体感してきたことであって。
どんなにあり得なく思えてもあり得てしまったから、劉くんやその他数名の男性が狂ってしまったわけで。

そもそもこの人は、ついさっき私の力を疑っていないと口にしたはずだ。
今更撤回するのかと胡乱な目を向ければ、私の思考を読みでもしたのか、違うよ、とでもいうようにその片手が振られる。



「だから、そういうことなんじゃないかな」



そしてまた意味を把握し難い、曖昧な言葉を吐く。
混乱の最中にある私はもう、発言や態度に気を使うなんてことはできなくなってきて、ぐっと顔を歪めてしまった。

この人は、苦手だ。



「…どういうことなのか、意味が解らないんですけど…」

「だから…君の暗示の話。魔法みたいなものがもし本物だったとしても、それだけで誰も彼もを誑かせるわけじゃないってことだよ」



実際、ここに例外がいただろ?

険の溢れる私の態度を気にもせず、自分を指して笑う氷室辰也は、私にない力を間違いなく持っていた。
己の感情や欲求に対する確固たる自信。眩しいほどのそれは確かに力と呼べるもので、私の自尊心に棘を刺すものだ。
私にはそんな力はない。羨ましいのが悲しい。自分が酷く小さくつまらないものに思えて、惨めになる。
今までずっと、振り回されるばかりで生きてきた。逃避手段を選び続けるだけでここまで来た私の意思なんて、紙のようにぺらぺらで弱いものだ。

破れたら、おしまいだ。
息苦しさを覚えて、握り締めて震える拳で胸を押さえた。



「そんな…」



だから、そんなことを今知っても。突き付けられても、どうすればいいのか判らない。
この人と関わりたくなかった。話なんて聞きたくなかったと思ってしまう、私は狭量だ。自覚しているから、それも悔しかった。



(誰にでも効く魔法じゃない?)



でも、効く人に効いてしまうのは変わらないじゃない。
劉くんが私の所為でおかしくなって、私のために悩んでいる今だって、なかったことにはできないでしょう。

時間は巻き戻らないし、起きた事実は変えられない。
それでも私は、少しでも彼のためになるならと、馬鹿げた魔法から解放してあげたいと思っているのに。直接避けて通るのが一番有効だと思うから、こうして日々走り回って隠れているというのに。
それなのに何故、この人は、劉くんのチームメイトで相談を持ちかけられるほどの立場にいながら、最善の選択を非難するようなことを言うのだろう。



「氷室くんは、劉くんが可哀想だと思わないの…?」



掠れて震えるみっともない声が、なんとか喉を通り抜けた。
けれど、問い掛けられた本人は髪で隠れていない目を細めて更に疑問を返してくる。



「可哀想? 劉は少しも悲しんでないのに、どうして」

「それは…だからっ」

「魔法だか暗示だかは知らないよ。ただ、全部をこじつけて劉から逃げるのはどうかと、オレは思っただけだ」



だから、どうして。
どうしてそんな風に、割り切れるの。

誰も彼も、植え付けられた誤認を良しとしてしまう。些細なことだと。目の前の帰国子女も、劉くんも。
異国の文化が染み付いているから価値観が違うのか。それとも、認められない私が頑なすぎるとでもいうのだろうか。

判らない。ウィンクの魔法を打ち払って、その上自信に溢れた口調で諭されてしまうと、私の意思なんて到底太刀打ちできない。

この魔法は、そんなにくだらない、小さなものなの?

もう、判らない。これ以上考えたくない。容赦ない意見で圧迫される頭が、おかしくなってしまいそうだ。
逃げ出したいのに足も動かない。自分の顔が、ぐしゃぐしゃに歪んでいく自覚はあった。



「それにみょうじさんだって、劉を嫌ってるわけじゃないみたいだし」



ひゅ、と。勢いよく吸い込んでしまった空気が喉を鳴らした。

もう何も聞きたくない。この人に口を開かせたくない。
緩く首を振る私を目に写しながら、少しも優しくない笑みを浮かべた氷室辰也は、確かに私への好意なんて一切抱いていないようだった。
それどころか、嫌われているような気すらする。
私の弱味を、残酷なやり方で突いてくるものだから。



「オレには好きになりかけてるみたいに見えるよ。あと、自信がなさそうなのは…あれかな」



愛想を尽かされる未来に怯えてるみたいだ。

ザクリと、抉られた傷が目視できれば、きっと私の胸からは大量の血が溢れ出しただろう。
声が出ない。息もできない。痺れるような痛みが全身に回って、見開いた目の奥が熱を持った。

恐ろしく鋭い言葉を紡ぐ美丈夫は、そんな私を眺めるだけ眺める。口角は持ち上がっているのに、その瞳は弱者に向ける確かな呆れを含んでいた。



「怖いなら、逃がさないよう君が尽力すればいいだけなのに。今でもベタボレの劉を誑かすのなんて、そう難しくはないはずだろ?」



原因や理由はどうあれ、劉くんは私のことが好きだから。だから今の内なのだと、唆す男が悪魔か何かのように映る。
そんな簡単な話じゃないと、切って捨てるだけの反抗心は今の私には芽生えてくれなかった。

そんなの卑怯だよ。
そう、一瞬でも過った思いに絶望する。
卑怯でなければ、私はそうしたいのか。私は、彼を引き留めたいのか。



「惚れられている内に本気で惚れさせればいい。掴めるチャンスを逃すなんて、オレからしてみれば勿体ないことだ。容易に掴める君が羨ましいよ」



私はもう、手遅れだったのか。

本心から羨み、妬んでいるような台詞を吐かれた。異論はあったはずなのに言い返せなかった。つまりそれは、妬まれるだけある状況だと認めたようなもの、で。



(私…)



いつ、私までおかしくなってしまっていたの。
いや、違う。諦めるところじゃない。まだ間に合うはずだ。まだ私は彼を、解放して…



「氷室!」



唐突に響いた大声に、びくりと肩が揺れる。
一気に跳ね上がる鼓動を自覚して泣きたくなる私に対し、名前を呼ばれた張本人は校舎に向けて軽く手を上げた。

やぁ劉、なんて、不自然なくらい自然を装って。



「なまえに、何してる」

「何も? 見掛けたからちょっと話をしてただけだよ」



でも、劉がいるならもうオレは要らないな。

最後の最後まで綺麗すぎる笑みを崩さなかった氷室辰也は、言いたいことは全て言い終えたのか、あっさりと私に背を向ける。
そちらからは目を逸らし、強張ったままの身体を反転させれば、廊下の窓からこちらを見下ろしている彼がいた。

どくん。
また大きく、心臓が何かを主張する。



「なまえ…大丈夫アルか?」

「劉…くん…」



滅多に声を張らない人だと思っていたからか、鋭く飛ばされた声がまだ頭の中に響いている。
それなのに、氷室辰也の去る姿もろくに見ずに私に向けられた顔は、もう厳しさを欠片も残していない。

数日間、あからさまに逃げ回って不快にさせたはずなのに、そんな感情は滲ませず弛められる目元を映して、また息が苦しくなった。

大丈夫じゃない。
こんなの、大丈夫なわけがない。



「顔色がよくないアル」



気の所為じゃないかな…と、誤魔化す前に嗚咽を刻みそうな口を閉じた。

だから、優しくしないでほしかったのに。私を救う言葉も、こんなことならかけてほしくなかった。

誤魔化せないくらいぐるぐると回る思考は、胃の中まで掻き回すようで気持ちが悪い。
気遣わしげに彼が眉を寄せるだけあって、実際に身体が重くなっていた。



「まさか…ちょっかい出されたアルか」

「…や、それは…多分違うよ」



見つかってしまってまで、逃げる気力も勇気もない。
ふらつく足で校舎に近寄れば、彼は開いた窓から手を伸ばしてきた。

長い腕だ。指も、私のものとは全然違う。硬くて、少しカサついていて、それなのに撫でられた頬には柔い温もりしか残らない。
壊れ物のように大切に扱われることに、短い期間で随分と慣らされてしまった。

劉くんは、有言実行の人だった。
籠絡されたのは、私の方だ。

未だ血を流している胸の致命傷は、知らないはずなのに。傷を埋めようとでもするように頬を滑る指の感触に、先程よりもじん、と目の奥が痺れる。
無くしてしまうなんて、嫌だ。
無くならないでと、鳴いている私に気付かないふりが追い付かない。なんてちょろいのだろう。私は、なんて馬鹿なんだろう。



「劉くんの思うようなちょっかいは出されてないと…思う、というか…」

「というか?」

「……氷室くんは、ちょっと怖い。かな…」



涙声になるのを誤魔化して、苦笑を浮かべるのが精一杯だ。

暴かれて形無しになった私を、今は彼も愛着を持って支えようとしてくれるだろう。いくらでも慰めてくれるはずだ。けれど…
優しい情を持つこの人を、本気で誑かすなんてそんなこと、唆されたところでできる気がしなかった。






今夜が峠と告げられたよう




ああ、今在る気持ちが、嘘じゃなくなればいいのに。
魔法よ続け。そう願わずにいられない自分を、もう、偽れない。

20140715. 

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