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「あれ、君…」



小さな用事を済ませた休み時間、教室に入ろうとしたところですぐ横から聞こえてきた声に、何気なく顔を上げた私は軽く固まりかけた。
一瞬、息の仕方も忘れてしまった。すぐ隣から私を見下ろしている恐ろしく整った顔の男子の正体は、噂で聞いて知っていたけれど。知っていたからどうという話でもない。

氷室辰也。帰国子女だ。僅か数日で陽泉の女子のハートを捕らえに捕らえまくっているらしい、美男子。
騒がれているのを遠目に見たことはあったけれど、さすがに近くで対面すると怖じ気付きそうになる。
あまりそうとは思いたくないが、じっとこちらを見てくる彼は、私に向かって君、と口にしたようだった。



(私、何かしたっけ?)



いや、やっぱり特に関わりを持った覚えはない。
意味もなく冷や汗をかきながら無視していいものかと悩んでいると、ニコリと人当たりのよさそうな笑みを浮かべた彼は爆弾を一つ押し付けてくれた。



「ちょうどよかった。劉に用があるんだけど、呼んでくれるかな」



え、何。ちょうどいいって。何一つよくないよ?

劉、という固有名詞にびくりと肩が跳ねたのが自分で分かった。
心の方も即答できるほど反応がよかった。が、口に出さなければ届くはずもない。

何で、私が。自分で呼ぶことだってできるはずなのに、わざわざ私に頼まなくても。
そう言ってやりたいのに、にこにこと送られる笑顔が圧力のように感じられて口が開かない。

どうしよう、何でだろう、逃げられない。
もしかして氷室辰也の笑顔にも何らかの不思議な力が宿っているんじゃ…なんて馬鹿なことを考えてみたけれど、その現実逃避は長くは続かなかった。



「頼むよ」

「う…は……」

「入口で止まって何してるアルか」



はい…と、屈してしまう寸前だった。
できれば自分から接触は増やしたくない相手の声が、向き合っていた氷室辰也とは逆側から振ってくる。真打ちの登場にまたも肩が跳ねた。

その図体で寄ってくる気配は漂わせないなんて、心臓に悪すぎるからやめてほしい。
相変わらず口には出せない文句を内心で溢しながら仰いだ劉くんは、私のすぐ隣に並ぶと廊下に立つ帰国子女に涼しげな顔を向けた。



「氷室…何の用アルか」

「ああ、ちょっと聞きたいことがあって来たんだけど」

「あ、あっ、じゃあ劉くん来たので私はもう」

「待つアル」

「ひん!」



私もう席に帰りたいんですけども…!

がしりと掴まれた腕は、確実に震えた。おもいっきりびくついてしまったのに、しれっとした表情でいる劉くんが恐ろしい。
優しいのか厳しいのか…いや、優しさはあっても自我は忘れないタイプなのかもしれない…とは、最近気づき始めてきたことだ。

引き気味の私に構わず、どこまでもマイペースにその口は開かれる。



「氷室に誑かされたりしてないアルか? 」

「へ、えっ…? たぶら…」

「酷い言い種だな。劉を呼んでもらうようお願いしただけだよ」

「お前の笑顔は信用ならないアル」

「あ、いやっ…本当に劉くんを呼ぶように頼まれただけで…っ」



頼まれたというか押し付けられかけたような気もしなくはないが、誑かすような真似は一切されていない。そこは否定しなければ。

失礼だなぁ、と肩を竦めた仕草がやけに板についている帰国子女は、慌てて口を出す私に、またにこりと笑顔を向けてきた。
なんだか、綺麗すぎて中身の窺えない笑顔を。

劉くんが信用ならないと言った意味が、なんとなく解った。
その劉くんはというと、私の答えに僅かに眉を寄せながらも一応は納得してくれたようだ。掴んでいた腕も解放してくれた。



「それならいい…が、氷室には気を付けた方がいいアル」

「いくら何でも、わざと邪魔なんてしないよ。福井さんに教えを請うてまで頑張ってるみたいだしな」

「氷室…」



ぽんぽんと交わされる会話を、何故か間に挟まれたまま追っていると気になるワードが飛び出してきて、それまで着いていっていた思考が止まる。

頭の上で飛び交う声から意識が逸れて、再び動き出した脳は一つの台詞を反芻し始めた。



(教え? 請う…?)



何故だろう。何だか、その単語にとてつもなく嫌な予感がするのは。
氷室辰也に悪気はなさそうだが、こちらの反応を楽しんでいるような節も窺えた。

福井、という名前は最近よく話す所為で劉くんの口から聞くことがあった。確か、バスケ部の先輩だ。
中国人は日本で会話する場合、語尾にアルを付けなければいけないという嘘を彼に吹き込み染み付かせた張本人。そんな風に、わりと強く記憶に残っている。



(その先輩に…教えを請うた…?)



人を疑ってかかるのはよくない。
解っているけれど、それは一体何に対する教えなのかと落ち着かない気持ちになるのは、仕方のないことではないだろうか。

語尾にアルを付けるという嘘まで信じてしまうような、変に純粋なところのある劉くんだ。
もしかしたら、もしかして…とんでもない常識を教え込まれたりはしてない…よね…?



「あの……劉くん」

「?」



私が考え込んでいる間に、彼らの話は終わってしまったらしい。
軽い挨拶をして去っていく帰国子女の背中から視線を横に移せば、軽く首を傾げた彼はなまえから話し掛けてくるのは珍しいアルな、と少しだけ嬉しそうに返事をしてくれる。

ああ、何だか、やっぱりやりにくい。
話し掛けるだけで喜ばれるのが居たたまれなくて、続ける言葉に詰まりそうになった。何とか、堪えたけれど。



「その、えっと…先輩に教えって…何を教えてもらったのか、気になるんだけど」

「教えアルか?…最近は女子との接し方とか、距離の詰め方? アタックの仕方を伝授されたアル」

「…おう」

「日本人女性は奥ゆかしく、大体の場合好意を口にするのを恥ずかしがる。本気で拒否されない限りは希望があるから押して押して押しまくれと言い聞かされたアル」

「おうぅぅぅっ…」



どうか取り越し苦労でありますようにと、願ったところで無駄だったようだ。
今この場に崩れ落ちても、私は許されただろう。グッと堪えはしたけれど、滲んだ涙を隠すためには両手で顔を覆うしかなかった。

福井先輩とやら…劉くんの押しっぷりは、あなたの所為か…!!
顔も知らない先輩相手に恨みをぶつけるのも何だが、なんてことをしてくれたのかと頭を抱えずにはいられない。

純粋な留学生に何を吹き込んでいるの、その先輩は。
何が奥ゆかしさだ。希望もへったくれもない。
それじゃあ劉くんはそんな都合のいいプラス思考にも程があるような教えを信じて、押してきているということになるじゃないか。

新たに出てきた問題は私の頭をがつんと殴ってくれた。
だってそれ、私も劉くんを憎からず思っていると勘違いされてるってことじゃないですか…。



(いや、嫌いじゃないよ? 嫌いじゃないけど! 確かに悪い人じゃないしめちゃくちゃなことされたりもしないし…でも、でもだからといって…)



悪くないとか、嫌じゃないとか、それは確かに付け込む隙にはなるのかもしれない。唐突に自覚する。

劉くんに対しては、前例の異性達と比べて明らかに拒否感が少ない。
それは確かに、私の方も好きになってしまう可能性がないわけではないと、いうことになるのでは。



「なまえ? ぼーっとして、どうかしたアルか?」

「っ! い、いえ何もっ?」



今度こそ本当に凍り付いてしまった私を覗きこむよう、腰を曲げて目線を合わせようとする劉くんに慌てて首を振る。
バクバクと早鐘を打つ心臓を、信じたくない。落ち着かせたい。



(駄目)



駄目だ。それだけは駄目。
私の方まで好きになったりしたら、それこそ救いようがない。
どうにか冷静さを取り戻した頭で、確かめる。

ウィンクの魔法は、今のところは切れる様子がない。けれど、先のことは私にも分からないのだ。
もし、彼の目が覚めた時、私が彼を好きでいたりしたら。普通に、恋愛をしていたりしたら。



(駄目だ)



目眩がする。もしかしたら、好きな人に軽蔑されるような、恐ろしいことだって起こり得る。
この魔法は、自分まで深みに嵌まらせかねない危険なものだったのかもしれない。

今まで魔法に掛かってしまった相手に良感情を抱いたことがなかったから、気付かなかった。
そうだ。私の特質は切っ掛けでしかないと彼は言ってくれたけれど、それでも芽生えた時点の感情が錯覚でしかないことは変わらない。
私が好きにならせたことには、変わりない。もしかしたら劉くんにだって、元々他に気になる相手がいたかもしれないのに。

もしそうだとしたら、魔法が溶けたらその瞬間に、関係は終わってしまうのだろう。
好きになった相手が、どうして私に恋をしたのか、その事自体にも疑問を持つ瞬間を目にしなくてはならなくなる。

それは、どれだけ辛いことだろうか。



「なまえ、やっぱりぼうっとしてるアル。気分でも、」

「ううん、違う。大丈夫」



気遣わしげに掛けられる声から、逃げるように教室に踏み込んだ。



「授業、始まっちゃうから。戻らなきゃ」



彼を通り過ぎて、自分の席を目指してしっかりと歩みを進める。
それ以上は突っ込んでこようとはしないことに、少しだけ安堵した。



(大丈夫)



大丈夫だ。今気付けたのだから、自分の首を絞めはしない。
先程掴まれていた部分を擦りながら、深呼吸する。

好きにならなければ、いい。
それだけだ。難しくはないはずだ。






転移する前に予防します




願わくば、お伽噺の魔女のような未来は、味わうことにならないよう。

20140618. 

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