「同室の奴は暫くは帰ってこないから」
「…うん」
あれから氷室くんは部員と合流して、ホテルまではそちらと行動を共にした。
私は私でさすがに無関係の部員達と並ぶ図々しさは持てなかったため、先に帰って時間を決めて部屋を訪ねることにして。試合後すぐに夕食を取る彼に合わせて軽く腹拵えをしてから部屋に向かえば、二人一部屋であるはずのそこには彼の姿しかない。
息が詰まるような感覚に苛まれながら、どんな言葉から切り出そうかと悩んでいると、招き入れてすぐに手前側のベッドに腰掛けた彼に手招きをされた。
「そんなに警戒しなくても、取って食いはしないよ」
「っ…いや、警戒、というか…緊張してて」
「なまえがそうだとオレまで緊張するんだけどな」
軽く苦い笑みを浮かべながらも、私の手を引いて隣に座らせる氷室くんはまだ余裕だと思う。
ちょっとだけ悔しい気持ちになったおかげで、とりあえず深呼吸ができる程度には落ち着いた。
改めて見上げた彼の横額に白いガーゼを確認して、それにも少し安堵する。
「手当て、ちゃんとしたんだ」
「ああ…そう気にするようなものでもないけど」
「氷室くんの顔に傷が残ったら陽泉の女子は絶望するよ…」
泣き出す人間すらいそうだし。
八割以上が傷付けた人間に殺意を抱きそうだなぁ、なんて軽い現実逃避をしていると、そのお綺麗な顔にひょい、と至近距離から覗きこまれて仰け反る。
どきりと跳ねた心臓の所為でまた呼吸が苦しくなった。
「あ、の…? 私何か、変なこと言った?」
「いや…一応なまえにもこの顔効くのかなと思って」
「わ…私も一応女子なので…」
氷室くんレベルの造形の人間に近寄られたら、それはどうしていいか判らなくなることもある。
今正に速まってしまった鼓動だって、自分ではどうしようもないもので。
というか、そんなのはもう今更なんじゃないのかな…。
最近の私は、彼の思惑に浸かっていた気がするのだけれど。
「と、いうか…そんな話をしに来たわけじゃなくてね…あの…」
「…ごめん。そうだったね…あのタイミングで会ったってことは、試合は観てたんだろ?」
「うん…」
「そうか…情けないとこ、見られたな」
「え?」
漸く本題に辿り着けそうだと思った瞬間、その口から溢れ出た言葉につい、首を傾げる。
何を言ってるの…?
「敗けは…情けないの?」
「勝敗に関しては…悔しいけど納得できるよ。そこじゃなく、オレが試合中に取り乱したことが」
「…情けないわけないよ?」
自然と俯き加減になる氷室くんに、首を横に振って答える。
おかしなことを言うと思った。
情けないなんて、彼からは一番遠い言葉だ。
「だって、私なら怖いよ」
「……なまえ?」
「本当に手に入るかも分からないのに、想い続けて追い続けるのは」
怖い。手に入らないかもしれない、手に入らないものを求めることは、本当に。
他のもので補って満足する方が余程楽で、大抵の人間なら諦めの感情で後者を選ぶ。
不思議そうな目をして私を見つめる彼には、解っていないのだろうか。
それは勿体ないを通り越して、悲しいことだ。
どれだけ尊い思いを抱ける、強さを持つかも知らないなんて。
「私は…多分、ある意味弱くて。ふらふらしながら楽な道にしか進めない、つまんない人間だよ」
「なまえはつまらなくないよ」
「そんなことない。私は氷室くんみたいに、強くない」
今日、試合を観ていて改めて感じた。私は彼のことを殆ど知らないのだと。知らない顔や一面を見せ付けられて、踏み込めない距離を感じた。
それなのに、解ったようなことを言い過ぎているのかもしれない。でも、どうしても言っておきたかった。
私は本当は、貴方に好かれるほど上等な人間じゃないんだと。
好かれ続ける自信が、ないのだと。
「何でも、同じだよね。振り向かないものは振り向かないし、手に入れても失う可能性だってある…それが当たり前だけど、怖いくせに、私はそんなのが嫌で」
追い求める強さも、引き留める魅力も、持たない。
そんなどうしようもない自分なのに、懐に入れてしまったものは取り落としたくなくて。
「…私、ね、氷室くんに離れてほしくない…それは結構前から、思ってた」
「…うん」
「でもどうしても、自信はない」
触れられるのは心地好かった。鼓動は早鐘を打った。
それが何を意味するのかも理解した。けれど、私には何もない。
人目を引く容姿も、優れた頭脳も、唯一の特技なんてものも。
器用で何でもできるから、何もできなかった。何も持たなかった。何もなかった。
本当はつまらない、どこにでもいるような人間だった。
「だから私は、氷室くんに憧れる」
彼は何もかも持っているものだと思っていた。完璧な人間だと誰もが思っていたはずだ。
だけどそうではなくて、彼にも越えられない壁はあって、それでも諦め悪く食い付く姿も知って。
余計に、苦しくなった。
いつまでも立ち止まって迷い続ける自分が、それこそ情けなくて恥ずかしい。
彼に見合うだけの何かが、私の中には一つもない。勇気すらも、ないから。
「氷室くんは、情けなくない。そんなの、一番思わない」
「…そう、か」
「だから、苦しいの」
こんなに、本音を曝け出したこともない。自分からこんな弱音を吐く日が来るとも思っていなかった。
目の前が霞んで、段々と鼻声になる声音に自分でも呆れるのに、静かに頷いてくれた氷室くんはやっぱり優しい。
(解ってる)
解ってるよ。本当に。
私が何を求めているかなんて、本当は私、解っていたよ。
「釣り合えないって、思う。私は、氷室くんみたいに強くない」
震えそうになる喉に力を込める。息を止めて、もう一度吐き出し、吸い込む。
それでも、それでもね。解っているけれど。特別でも何でもないと自覚しているけれど。諦めてきたけれど。
今は私も、望んでる。
「でも…釣り合えるような人間に、なりたい」
慰めるように髪を梳いてくる手も、一つしかいらないから。今、離してしまいたくないから。
酷く贅沢な望みを伝えるために、温かいその指先から、自分の手で包み込んだ。
驚き瞠られる彼の瞳を真っ直ぐに、正面から見返して。
「信じて、委ねたい。それだけの自信を抱ける自分になりたい。ずっと好きでいてもらえるような…幻滅されない人に、なりたい、から」
不安なことなんていくらでもある。そんなものはあって当たり前で、生きていく中でぶつかる壁の一つでしかない。
私だって知っているのだ。終わりを怖がって逃してしまう方が、ずっと怖いことだと。
もしかしたら、最初で最後かもしれない。それほどの執着に手を伸ばさないなんて、それこそどうしようもなく愚かなことだろうから。
こんな人に、これだけ強く何かを求められる人に好きでいてもらえるなら、私だってもっと、もっと頑張れる。
大切な人の気持ちを引き付けられる。それだけで大きな自信にもなる。
だから、というわけでもない。一番先に来るのは、それじゃない。
気持ちはきちんと纏められる。
だからこれだけは、迷えない。
「氷室くんの、恋人に…ならせてください」
言い切った数秒が、数十分のように感じた。
自分の声以外、どくんどくんと響く心音しか拾えなくて。息が苦しくて、世界が狭まったように。
答えを待つ間がとても長くて、堪えきれずに溜まった唾を飲み込んだ時。
ぐらりと、一瞬にして視界が転回した。
「!…え…っ!?」
「なまえは」
「っふぁ!?」
背中全体に柔らかな感触を感じて、なのに腰には硬いものが巻き付いていて、視界いっぱいに広がる天井と上半身に掛かる重み。
起き上がれない。というか、押し倒された。気付いてもがこうとした瞬間、耳元で響いた声にびくりと身体が引き攣る。
何故か泣き出しそうな心地になった私を知ってか知らずか、こんなに至近距離では聞き慣れていない声が、容赦なく鼓膜を震わせた。
「なまえは…なまえのままで充分、凄い子だよ」
「っ………」
顔が熱い。胸が痛い。息ができない。動けない。
ぎゅう、と締め付けられる身体の所為か、心の作用かも判断できない。
けれど、でも、とりあえず。
(ずるい…っ)
恥ずかしいし居たたまれないのに、悔しい。
何でそんなことを言うの。何で意地悪をするの。解っているんじゃないの、氷室くんは。
今度こそ堪えきれなくなった涙腺が弛む。
どうして、この人はこうなの。
「でも、悩んでくれて、踏み出してくれてありがとう。ああ、何か…まだ言いたいんだけど、ちょっと頭の中が纏まらない。嬉しいけど、嬉し過ぎて…」
嬉しいのは、嬉しかったのは、私の方なのに。
なのに本当に、彼らしくもなく未成熟な言葉ばかりが溢れ出て、ぐしゃりと私の髪を乱す大きな手も、いつもよりも力が強くて。
「でも一言…大事なこと聞いてないな…なまえ」
私の首もとに埋めていた顔を、漸く上げてくれた彼は染まった頬を子供のように弛ませていた。
「好きって、言って。オレのこと」
色々と、着いていけない。まだ混乱している私を見下ろしながら、髪から頬へ回ってきた手は熱い。
それを吸い取るようにくらくらと熱をもつ頭で、つい、可愛い、なんて思ってしまった。
「好き…私、氷室くんのこと、好き」
「うん…オレもなまえが好きだよ」
ぽろぽろ、溢れ落ちていた涙を拾う指に、甘ったるい響きに気をとられていたら、柔らかい感触に唇を塞がれてしまう。
それがあまりにも自然な流れだったから、音を立てた唇が離れるまで、私は呆然と固まっていて。
可愛い、だけで済むわけがなかった。
強かに笑みを深める彼を真上に、徐々に身体が震え出す。
「と…取って食わないって、いっ…言っ…っ!」
「なまえがオレを好きなら問題ないよね」
「な、ないわけがっ…か、帰る、私もう帰るからっ」
「…まぁ、仕方ないか。応えてくれたし、今日は」
「!?」
今日はって…明日以降は…?
私の腕を引いて起き上がらせる、彼の言葉の不穏さに肩が跳ねる。
速まったかもしれない、なんて思ったところで後の祭りだ。逃げるようにベッドから立ち上がった私に、立ち上がり様にもう一度噛み付いてきた氷室くんの目は、獲物を狙う肉食獣のようだった。
「本当に好きだよ、なまえ」
「っ……すっ…好きは、私もだけど、帰ります…」
「部屋まで送るよ」
「い、いい…頭冷やさないと帰れないから、一人で」
「そう? でも今のなまえを一人で帰すのは心配だな」
「…一人で帰らせてくださいお願いします」
深々、ドアの前まで来て頭を下げる私の行動の滑稽さときたら…。
さすがにおかしかったのか、頭の上で小さく笑う気配がしたのが更に羞恥心を掻き立てた。
「心配だけど、堪えるよ」
「うん…そうして」
これで漸く冷静になれる。
ほっとしながらドアを開けて、彼に背を向ける。振り返って別れの挨拶を切り出そうとした時、ぐい、と肩を引かれたかと思うと米神と目の間辺りにまた柔らかい感触を感じた。
「お休み。気を付けて帰るんだよ」
「っ…お、休み…なさい…」
何なの氷室くんはキス魔なの。
ぱたりと閉じた扉を凝視しながら、ふらつく足で後退る。
何だか本当に、取り返しがつかないことになったような気がする。扉の向こうで笑っていそうな彼を考えるだけで、胸を掻き毟りたくなる恥ずかしさに襲われて。
(熱、出そう)
もしかしてこれ、付き合っても殺されるんじゃないの…?
そんな不安を抱えながら宿泊する部屋を目指す足取りは、自分でも確かに心許ないと思う。
どこかで頭と顔を冷やして、落ち着かないと帰れない。少し泣いてしまったから、それも気取られないようにしないと。それから、ええと、それから…
「逆襲…しよう」
あまりにも、流され過ぎたから。
私ばかり動揺させられるのは嫌だから。
飽きられたりも、したくないから。
私は、あの人が欲しいから。
よし、と頷いて息を吸い込む。それだけでも少しは落ち着ける。
今は何も、自信も勇気もない私でも、彼を一番喜ばせられたら少しは変われる。
変わってきたから、これからもきっと。少し怖いけど、彼となら。
「…頑張ろう」
ばくばく、まだ早鐘を打つ胸を片手で押さえながら、吐き出したのは私なりの決意だった。
二人で一つ
まずは、心臓を仕留め返すために。
何から始めたら、いいのかな。
20130622.
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