静寂の中で響く、時計の音とお互いの息遣い。
触れられて跳ねた私の反応を気にする様子もなく、手袋を外した指先は形を確かめるように頬を滑った。
「赤くなってる」
「っ…」
「動揺、してくれたんだ。嬉しいな」
胸を、叩き破ろうとするように心臓が暴れる。
今や顔から伝わった熱は、私の全身を取り巻いていた。
これは、詰んだ。
(逃げられない)
隠す気のない氷室くんと、気付かないふりをしていたい私。
その関係は全く平等なものではなく、彼がその気になればいつでも均衡は崩れる。そう決まっていた。
けれど決まっていたのに、私はその展開を想定していなかったのだ。
そう簡単に今の距離感を手離すことになるなんて、うまく想像がつかなくて。
「声、聞かせてくれないかな」
近距離から鼓膜を震わせる声。背筋に走った感覚に全身が引き攣る。
肩口を捕まれたままの彼の手から力が抜ける気配はなく、それがまた余計に私の頭の中を掻き回す。
氷室くんは、一回どこかで色気を半分くらい削り落としてくればいい。
耐性のない私には、ここまで判りやすい好意の躱し方なんて分からないから、どうしようもなかった。
「ひ、氷室くん…もう」
離れても、いいはず。なのに。
うん?、と首を傾げて素知らぬ顔をする彼は、確信犯だ。
泣きたくなっている私の気持ちも、知っていて美しく微笑む彼が怖い。
逃がす気がないのだ。もう、彼は。
「今更、そんなに驚くことでもないんじゃないかな」
「氷室、くん…」
「察していたんじゃないか…少なくとも、全く知らなかったってことはない。そうだろ?」
確信を持って口にされる言葉を、否定できるほど図太くはなれない。
無理だ、と頭の中の私が白旗を振った。
「……私、は…」
ばくばくと、走る心音に聴覚を奪われるような錯覚に陥る。
偽った理由はきっと、甘えだった。
数秒前まで向かい合っていた彼女の言葉を、今更ながらに反芻する。
(私は)
狡い。そうだ。彼女は、そう言った。私だってそう思った。
恋愛感情なんて今一把握できなくて、それでも人に好かれて嫌な気がするわけがないから、与えられる好意に甘えている。
彼が好きだという、明確な気持ちを持つ人間よりも、好かれている、それだけの理由で甘やかされて居場所を貰って、剰え迷惑を掛けて振り回して。
それは、狡いと言われても仕方ないよなぁと、うまく働かない今の頭でも頷くことはできた。
でも、そうじゃない。今は多分、その先を考えなくてはならなくて。
(私、どうして)
どうしてこんなに、近付いてしまったんだろう。
腕を掴んだままのその手は、筋張っているのに相変わらず綺麗で。頬から髪へ、移動した指は柔らかく慈しむように、何度も梳いていく。
いつもなら心地好く身を委ねるその動作のおかしさに、気付いて身体の芯が震えた。
私は彼以外の男性に、ここまで触らせたことはなかったはずだ。
「みょうじさん…?」
息を飲んで固まった私を気にして、覗き込んでくる瞳に捕らわれる。
(どうして、こんなことを自然に許してるの)
ここまで心を許したのは、いつだろう。思い出せないくらい自然に慣らされていて、混乱する。
仲良くなったのは、彼が私に興味を示したからに他ならない。私から彼のような人に進んで近付くようなことはないから、それは確実だ。
未だに信じられないしわけが解らないけれど、彼が私に好意を抱いているから、今までがある。これも確実。
だったら、これからを考えるなら。
「氷室くん、は」
「うん…?」
この人は。
与えてくれた優しさは、居心地のよかった空間は、嬉しかった言葉は…全て好意を土台にしてあったものだというなら。
混乱の震えが、焦燥へと成り変わる。
心許ない感覚が、胸の中を埋めていく。
「好きじゃ、ないなら……全部なくなるよね」
スカートを握りしめたままだった手から、何故か力が抜けていった。
心から嬉しそうに笑う綺麗な笑顔も、気紛れを許してくれる空気も、たまに叱ってそれでもまた甘やかす言葉や声、本気で私を大切にしようとするこの手も、距離も。好意がなければ成り立たないのなら。
全部、なくなってしまうよね。
(ああ…)
それは、やだな。寂しい。悲しい。
さっきから忙しい心臓は、今度はじくじくと痛み始めた。
氷室くんと仲良くなれた今を、私は純粋に大切に思っていた。ちゃんと、嬉しかった。
恋愛感情はよく解らないけれど、彼のくれたものはいつも私にとって最善の優しさばかりで、失うには惜しくて。
でも、じゃあ私は、好かれていたいの…?
(それって…)
狡いんじゃないかな。
返さないのに、縛り付けるような真似は。卑怯なんじゃないかな。
酷いこと、なんじゃないかな。
一途で優しい人だと、私はもう知っているのに。なのにそんなこと、するわけにはいかない。
いかない、のに。
「みょうじさん、聞いてくれるかな」
ぐしゃりと、差し込まれた指に髪を乱される。
今の今まで腕にあった彼の手は腰を掴んできて、向き合うように全てを晒された。
私を覗き込むその目はやけに熱っぽくて、気を抜くと足の力が抜けてしまいそうになる。
「さっき、みょうじさんも言ってくれたよね…オレは一途だ、って」
「…うん」
「嬉しかった。誰より誤解されたくない人に、そう信じてもらえたから。本当に…君だから、嬉しくて堪らなくなった」
ああ、熱い。
彼の腕の回った腰から、また体温が上がっていく。
真っ直ぐに向けられる視線から、目を逸らしたくて堪らない。
けれど頭を掴まれている所為で逃げ場はなく、何もされていないのに気道が狭まり、呼吸が短くなっていく。
身体が、軋む。
苦しい。熱いのに、ぞくぞくする。
こんなの、
(おかしくなる)
考えることを、放棄せざるを得ない。
艶やかな笑みを落とす彼は、恐らく解っていてやっているのだ。
「全部、なくならないよ。オレの諦めの悪さは筋金入りだから」
「…でも、私…そういうの、まだよく解らないよ…?」
「それも、解ってもらえないなら何度でも言うさ。オレが好きな人はたった一人だから、それ以外はいらない」
胸を抉られる。息が止まる。
いつも以上に溢れ出る色気にあてられて、今度こそ全身から力が抜けそうになった。
そうして漸く気付き、理解する。
(氷室くんも、狡い…)
そんな言い方をして、拒めなくして、諦める気がないなんて…そんなの、私にはどうしようもないじゃないか。
「好きなんだ、みょうじさんのこと。本気で」
狡い。けれど差し出された道は、私にとってみれば優しさでしかなくて。
今は返す言葉が見つからない真剣なそれに、ぎこちなく、私は頷き返した。
三秒後の答
今はまだ答えが見つからなくても、惜しむくらいには、今も私は。
(でも、氷室くん本当にそれでいいの…?)
(別に、全くの脈無しってわけでもないからね)
(……そう、ですか)
(とりあえず、オレが触れるのは嫌がらない)
(…ん。それは気持ちいいし)
(そういう素直なところ、凄く可愛いよ)
(……私は、そういうの恥ずかしいよ…)
(So cute…)
(やめてしみじみ呟くのやめて…)
20130404.
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