見つめてくる目は取り繕う様子もなく冷めきっていて、じんとした寒気が背筋を駆け上るのを感じながら、私の方はどんな顔をしていいのか判らない。
薄っぺらい笑みを浮かべることもできず突如現れた女子生徒を見つめていると、ずかずかと教室内に入ってきた彼女は数メートルの距離を置いて、立ち止まった。
「ねぇ、みょうじさんって氷室くんと付き合ってたっけ?」
「ちょ…直球…ですね」
「誤魔化すの?」
怖い。なにこれ、すごく怖い。
美人の睨みを今日だけで二回も目にするとは思わなかった。しかも今度は、自分に向けられている。
ぴりぴりした空気に泣きたい気持ちになりながら、少し前の迂闊な自分を呪った。
やっぱり、見られてたんだ。
そうでなければこんな訊ねられ方はしない。
「…付き合ってないよ」
「付き合ってないのに抱き合うの」
「あれは、その…氷室くんの優しさであって、疚しいものじゃない、というか…」
「本当、氷室くんは優しいよね…!」
「っ!」
強くなる声の調子に、思わず後退る。
今や、河原さんの瞳には怒りの色しか見当たらない。
何が彼女をここまで息巻かせるのだろうか。単に氷室くんへの想いだけなら、さすがにここまで私への当たりは強くない気がする。
(いや…違うのかな)
強いのだろうか。本当は。
それだけ氷室くんは、凄い人だというのか。
でもそれは、本当に、こんな風に?
「付き合ってもないくせに氷室くんを振り回して、楽しい?」
「河原さん」
「そーゆーのって、狡いと思わない? 彼を好きな他の子に、失礼だと思わないの?」
どうしよう。言葉を挟む隙がない。
ぎらぎらと光る、しっかりとメイクのなされた目力は凄まじく、怒濤の攻めに流されてしまいそうになる。
言葉に、勢いに押されてじりじりと後ろに下がるうちに、背中が硬いものに当たった。
軽く視線を向けると、窓ガラスが見えた。どうやらこれ以上は後ろには逃げられないらしい。
「大体、氷室くんに釣り合うと思ってんの?」
「えっと…」
滅相もない。私なんかが釣り合うわけがない。
素直にそう答えたいけれど、何を口にしたところで更なる逆鱗に触れてしまいそうで怖い。
けれど私が何も答えられないでいればいるほど、迫り来る河原さんの口調は厳しくなっていった。
「付き合ってない。なのに傍にべったり張り付いて、何様なの?」
「な、何様…って」
「それともあっち? 身体の相性がいいとか?」
「な」
何言ってるの、この人。
呆然と、完全に言葉を失う。
私と氷室くんの関係を、そんな風に邪推されているだなんて思ってもみなかった。
違うと、否定を紡ぐ前に、興奮しきったその口が更に吐き出した言葉に、すぐに驚きも収縮してしまったけれど。
「どっちにしろ、氷室くんは、誰かが独り占めしていい人じゃないのよ!」
その言葉を聞いた瞬間に、縮こまっていた感情が弾けたような気がした。
(違う)
思わず、伸ばしてしまった手が、彼女の両肩を掴む。
私の急な行動に目を見開いて全身を揺らした河原さんに、初めて照準を合わせた。
「それは、違う」
きつく睨んでくる目を見返して、首を横に振る。
そんなのは、間違いだと。
(見てないんだ)
この人は、彼を見ていない。
誰かを傷付けることにも、誰かに誤解されることにも、誰かの期待に応えることにも傷付いて疲弊する、彼を。
私でも気付くような苦しみを無視して、勝手な理想を押し付けることが愛なら、こんなに残酷なことはない。
好きだなんて言いながら、彼の気持ちはどうでもいいの?
意味が解らないよ。そんな押し付けを誰が、貰って嬉しいっていうの。
「確かに私は、はっきりした気持ちがないのに彼を頼りっぱなしだし、今日だって助けてもらったし…彼に好意のある人からしたら、狡いんだと思うよ」
彼の好意を受け取りもしないで、利用しているように映っても仕方がない。そこは解る。
私は河原さんやその他の女子みたいに、氷室くんを好きだなんて簡単に口に出来ない。簡単に納得してしまえるようなものじゃないのだ。私にとっては。
でも、それとこれとは話が別だ。
「それでも氷室くんは、河原さんが思うよりずっと一途で、優しい人だよ」
ちゃんと自分で選べる。たった一人を、愛せる人だよ。
私の口から溢れだす言葉に、凍り付く彼女から目は逸らさない。
独り占めしちゃいけないなんて、誰が決めたの。
それを彼自身が望むならまだしも、周りが決めつけないでほしい。
「好きだって言うなら、そんな理想を押し付けないで、あげてよ」
柔らかく笑った、彼の顔が過る。
苦しいなんて口には出さなくても、それでも確かに彼は苦しがっていた。
口に出して訴えてもいたのに、どうして聞いてあげないの。
遊びで恋愛なんかしない。そう、彼ははっきりと口にしていたのに。
(どうして)
どうして信じようとしないの。
どうして否定するの。
好きだから、なんて言い訳に使われるような気持ちを、ぶつけられる方の痛みなんて考えないの。
「そんなの、悲しい…可哀想なのは、他の誰でもない、氷室くんだよ」
勝手な理想に振り回されているのは、本当は、誰なのか。
目を塞いで見ようともしない彼女に無理矢理ぶつけた言葉は、彼女には痛かったのかもしれない。
身体を捻って私の手を振り払うと、空いた距離分声を張り上げた。
「あんたにっ…何が解るって、」
「解ってくれるよ。誰よりも」
しかしその叫びは、突如響いた声に被さられて消えた。
勢いよく振り向いた河原さんに釣られて、私も声の聞こえた方に視線を奪われる。
「ひっ……」
「氷室くん…いつから聞いてたの」
扉に片手を掛けて、静かな表情を浮かべてこちらを見つめる話題の張本人に、河原さんの喉は引き攣ったようだ。
私の方も、できれば本人に聞かせたい内容ではなかった。苦い気分を感じながら訊ねると、モノクルと手袋を外した彼は頬を弛めながら肩を竦める。
「少し前から。オレの話で言い争ってたみたいだから、入り辛くて」
「…ごめんなさい」
「どうしてみょうじさんが謝るのかな。オレは嬉しかったのに」
今回盗み聞きしたのはオレだよ、と、笑いながら室内に帰ってきた氷室くんに無理をしている様子はない。
打って変わって落ち着かなくなったのは今まで強気だった河原さんの方で、近付いてくる彼に弁解しようとしているのだろう。視線をさ迷わせて首を振る、その顔色は悪い。
「あ、あのっ…氷室くん、これは、」
「少しは解ってくれたかと思うんだけど…どうかな」
「え…っ?」
「彼女がこんな風だから。遊びでなんて、無理なんだって」
近寄ってきた彼の手に、肩口をぐい、と引き寄せられたかと思うと、そんな言葉が落とされる。
それは確かに河原さんに向けられたはずの台詞であったのに、私の胸にも深く突き刺さった。
「優しいだけだよ。誰よりも…彼女は優しいし、本質を見て、知っていてくれる」
腕に掛かる力に、思い知らされるのは私も同じだった。
隠し立てする気は、確かになかったのかもしれない。けれど。
心臓が、痛い。
「解ってもらえないなら、何度でも言う。オレが好きな人はオレが決めるし、たった一人以外興味はないんだ」
ぐさりと、胸を突き刺されたような気分だった。
未だ嘗て、ここまで核心に触れられたことはなかった。
この言い方では、逃げられない。知らないふりが通用しない。
息を飲み、視線だけを上げて彼の顔を覗けば、誤魔化すつもりもないらしい。一瞬こちらを見下ろして、柔らかな微笑を返される。
どうしろっていうの、これ。
駆け引きなんか、私、分からないのに。
「ひ…氷室くんが、そうでも…みょうじさんにそんな気はないかもしれないじゃない…っ」
どんな言葉を返せばいいのか判らず私が狼狽えている隙に、少しばかり冷静さを取り戻したらしい河原さんが口にする。
その半分怯えたような声にも、氷室くんは眉一つ動かさなかった。
「そんなことはどうだっていいんだ」
「ど…どうだっていいって、」
「その気にさせれば済むことだから。時間が掛かっても構わないんだよ、オレは」
「っ…」
「だから、好意を理由に邪魔するのはやめてほしい。特に…彼女を害するなら、許せなくなってしまうから」
頭のすぐ上から降ってくる、言葉の一つ一つの威力に潰されそうになる。
無意識にスカートを握りしめた手が、震えた。
(なに、これ…)
なんなの、この状況。
何で公開処刑みたいな事態になってるの。何で氷室くんは堂々としてるの。
自然と呼吸が浅くなって、頭の中の思考を固める為の場所が、狭まっていくような感覚に襲われる。
(その気にさせれば…って)
その気って。そういうこと、なんだろうし。
どれだけ自信があるんですか…とツッコミを入れたい。けれど、その自信が全く空振っているわけでもないから、私は溜まった唾を嚥下しながら俯くしかなかった。
小さく息を飲み、ばたばたと音を立てて去っていった河原さんを不憫に思う余裕もなくて。
触れられたままの腕から広がる熱が、やけに暑かった。
一つの暴露
時計の音と、お互いの息遣いが静寂を際立たせる。
息苦しさに音を上げたくなる私の、火照っているであろう頬に上ってきた指先。
触れられた瞬間に走った痺れに、身体が跳ねた。
20130330.
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