三月、嶺華の校門から校舎までの道に並ぶ桜の木は開花時期に差し掛かる。
満開の時期は気付けば過ぎるものだから、四月始めの入学式には、薄紅の絨毯と新しく生えた緑の葉、散り際の花が新生活に胸を高鳴らせる新入生を迎えるのだろう。
「卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
ステージ上で畏まった挨拶を済ませ、生徒の捌け始めた校舎内は、普段よりも上級生が騒がしかった分、静寂を余計に強く感じる。
馴染んでしまった面々の集まる生徒会室で、改めて用意していた花束を差し出すと、恭しく両手を差し出し受け取った元生徒会長は、表情を綻ばせた。
珍しく子供らしい顔付きになった波柴薫に、久しぶりに彼女の年齢を思い出す。
私、みょうじなまえに大きな転機を運んできた彼女は、春らしい気候の整った今日、この学校を去る。彼女にとっては忌まわしい過去の思い出も満ちた学舎を、卒業する。
晴れ晴れとした顔で花束を抱える彼女は、今や憑き物でも落ちたかのような様子で花の香りを楽しんでいた。
「しっかし、何というか代わり映えのしない卒業式だったなー…祝辞も答辞もなまえと会長だと、こう、完璧すぎて眠くなるってゆーか」
「舞台上の挨拶なんて元から大概堅苦しいものなんだから、仕方ないでしょう…」
怠い、という意思を隠しもせずに言いたいように言ってくれる秋下祭に、控えめに突っ込みを入れるのは呆れた溜息を吐き出す柚木愛梨だ。
北川来夏はいつまでも慣れない性格のおかげで、未だに彼女のおふざけにオロオロと振り回されている。
一時の対処に抜粋された雑務処理班は、全員が校内選挙を経て、それぞれ新しい役割を得た。
来年度の生徒会として、他にも数名の新メンバーが加わって、既に顔合わせも済ませてある。今日だけは馴染みある面子で別れを惜しみたいと伝え、この場に招くことはしなかったが。
半年ちょっとの短い期間に、周囲環境は目まぐるしく変化した。その間携わってきた人との繋がりを浅いものとして数えることができないのは、私に限った話ではなかったようで。
小規模な別れの席を設けることに、異論を唱えるような人間は存在しなかった。
「あとはみょうじさんに任せるとして、引き継ぎは完璧。私も安心して旅立てるよ」
「私としては、秋下先輩が今期の会長でもよかったと思うんですけどね」
「いやー勘弁。会長やなまえと違って、代表とか上に立つとか柄じゃないんだって」
うちらの学年にも反対する奴見当たらなかったし、これで正解なんだよ。
もう何度も繰り返したことのあるやり取りだからか、うんざりといった態度で秋下祭は反論する。
彼女は彼女でとても優秀な生徒ではあるはずなのだが、内申点が稼げればいいだけだと豪語して、心から頂点に立つことを嫌がった。そのお陰で、これから二年に進級する私が来年度の生徒会長という立場に着いている。
まぁ、その椅子に関しては最終的に辿り着くだろうと想定済みではあるし。上級生にも反対者はいないことだから、構わないと言えば構わないのだけれど。
「波柴先輩は…外部進学でしたよね」
会話が途切れてしまうと、自然と補充するように新たな話題が上がる。
出逢った初期よりは自己主張を覚えた北川来夏が、おずおずと途中で言い淀むような様子を見せながらも、か細い疑問を発した。
「嶺華に残るつもり、なかったんですか…?」
「んー…まぁね」
「そのまま進学しちゃえば楽なのに、頑張りますよねー」
「折角の受験期だし。お嬢様学校も味わい尽くしたから、また新しく外に飛び出してみようかと思って」
自分には合わない部分も多かったから、と笑って答える波柴薫からは、悲壮感は漂わない。
彼女にとっては、定められた刑期を終えたも同然の気持ちであるのかもしれない。
ふと、妨害されたという恋の思い出が頭に浮かぶと、そんなことを思った。
「私達がこのまま高校に上がっても、そこに波柴先輩はいないんですよね…」
「それは同学年の仲間にも言えることだよ。学校っていうのは限られた一時しか集まれない場所だからね」
ずっと一緒というわけにはいかないよ。
笑いながら吐き出される言葉が、柔らかな棘になって胸に突き刺さる。
三年を捧げてもよかったと語っていた想いには、決着がついたのだろうか。
最初から制限を感じていたような彼女と違い、私の方が子供のように、未だ永遠を夢見ている。
実も種も残さずに散る潔さは、私には持ち得ないものだ。想像して虚しさを感じもすれば、美しいとも思う。
最後まで私は、この波柴薫という人間が得意になれそうにない。けれど、ある種の憧れなら抱いていたのかもしれない。
「新しいメンバーでも、うまくやっていくことを願ってるから。頑張ってね」
「先輩も…高校でも、元気で頑張ってくださいね」
「当然」
交わされる会話をぼうっと見守りながら、掛ける言葉が浮かんでくるまで私は口を噤み続ける。
波柴薫にとって、決して優しくなかった学院は、どのような対象として思い出に残されるのだろうか。
すっかり苦手な人種として私の頭にはインプットされてしまったが、それでも彼女本人を本気で嫌えたわけではない。感謝の気持ちだって確かに胸にあった。
だからこそ、学院で過ごした日々が彼女にとって、過去の思い出に浸り復讐を果たすためだけのものに終わっていなければいいと思う。
時間には限りがある。
実りある日々が少なからず存在すれば、いい。
「色々あったけど…最後の年は、悪くない過ごし方が出来たかなぁ」
満足げな息を吐き出す波柴薫に、嘘を吐いているような様子はない。ゆっくりとした歩調を保つ彼女は、私を横目に見てにこりと笑う。
誘われるがままに共に帰路につきはしたけれど、中学最後の日に隣を歩かせるのが私でいいのだろうかと、微妙な気分は拭えない。
そんな私に反して始終機嫌のいい彼女は、最寄り駅まで辿り着くと、改札に向かう前に、くるりと身体ごと私へ向き直った。
「短い期間だったけど、本当にありがとう。……利用しちゃってごめんね、みょうじさん」
私はきっと、彼女の向き合う盤上、決定打となる駒だった。
そんなのは疾っくに理解していたことだというのに、最後に突き付けられて思わず呆れてしまう。
わざわざ口に出して確かめたり、謝る必要なんてなかったのに。変に真面目な人だ。
だから、嫌いきることができない。悔しいことに私は昔から、正直者が嫌いじゃない。
「卒業祝いということで、チャラにしてあげます」
「優しいね」
「私もお世話になりましたから」
面倒事に巻き込まれながらも、楽しんでいた。
私も元来好戦的な性格をしている。潰し甲斐のあるものは潰したいし、手に入るものは全て手に入れたいと思う、欲深い人間だ。
だから、張り合いのある生活をプレゼントしてくれた先輩には、一応敬意は払っておくべきだろう。
「間違いなく楽しかったですよ。私は、貴女と会えてよかった」
苦い現実を無理矢理飲み下させられた時には、恨んだけれど。彼女が与えてくれたものは、それ一つだけじゃない。
口にした言葉は優しげな声としては響かなかったけれど、彼女には充分だったようだ。その証に、浮かべられた笑みは少しだって陰ることがなかった。
「あーあ、これでみょうじさんの恋の行く末も見届けられたら完璧だったんだけど」
「人生そう完璧にはいきませんよ」
「それを貴女が言うの?」
全く、仰る通りね。
私だって完璧な人生計画があったはずなのに、気付けば随分と歪められてしまっている。
からかうように口角を上げる波柴薫に、私の方は力の抜けた笑みしか返せなかった。
「私だって負け戦に身を投じていますから」
賢いだけでは器用には生きられないものね。
貴女も、私も。誰も彼も。
博打→辞別
「お帰り」
帰宅して最初にリビングのドアを開けた私は、頬を引き攣らせそうになるのを堪えてソファーを陣取る影に笑顔を向けた。
「何でいるの」
「部活が休みだから時間に余裕ができたんだ」
「つまり私で暇潰ししよう、と?」
「暇潰しとは酷いな…時間があれば会いたいと思うし、思ったら叶えたくなるものだろう」
優雅に傾けられるティーカップと、テーブルに並べられる茶菓子を目に写して脱力する。
私の母は、この幼馴染みにべらぼうに甘い。幼い頃から知っているから、息子同然なところがあるのかもしれないが。
「ああ、華音さんは少し出掛けると言っていたよ」
「……何で征ちゃんを残していくの」
浮かべた笑顔も続かない。
よく知る仲であっても、他人を家に一人残していくってどうなの。
信頼されたものだな、と微笑む幼馴染みだけが悪いわけではない。悪いわけではないと解っていても、思ってしまう。その頬をつねってやるくらいは許されるだろうか、と。
(思うだけで出来やしないけど)
結局可愛がってしまうのだから、私だって大差ない。
来い来い、と手招きされただけで素直に応えてしまう。彼の座っているソファーに近寄れば、正面から伸びてきた手に思いきり腰を引き寄せられた。
「ちょっ…なに?」
「今日まで忙しかったんだろう。お疲れ様」
「は……はぁ、ありがとう。で? これは何?」
「労っている」
「…逆じゃない?」
何だか、私の方が征十郎を撫でやすい体勢になってしまっているが。
制服越しとはいえ、腹部に顔を埋められて居心地が悪い。労うと言いながら甘えるように腕を回してくる幼馴染みに、反射的に身を捩ってしまう。
彼にはそれが不満だったのか、僅かに離された顔が逃げるな、と睨み上げてきた。
「昔はこれくらい普通だっただろう」
それはそうだけど。そうだとしても、困るものは困る。
機嫌を損ねられたところで、好きにさせようと思えるだけの余裕は今の私には残っていない。
「小さい頃とは…違うでしょう」
子供同士の戯れで済ませてくれないくせに、意地悪をしないでほしい。
今度の答えはお気に召したのか、赤い双眸が僅かに細まる。同時に、腰の拘束も緩められたお陰で抜け出すことはできた。
(ああ…もう)
本当、とんだ負け戦だわ。
残る二年と少しで、私は私の理性と戦いきることができるのだろうか。考えただけで胃の辺りが重くなる。頭も痛くなるからどうしようもない。
私に転機を与えてくれた、彼女の潔さの半分でも備わっていたら、ここまで悩むこともないのかもしれない。けれど、残念ながら私は彼女ほども器用ではないようで。
いつの間にか渇いていた喉を潤すものを求めて、解けた腕から急いで逃げ出した。
20150117.
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