シリーズ | ナノ


名前のなかった慕情に、恋の名を付けろと言われてしまった。

夜明けの早い時間帯、ざあざあと音を立てる飛沫を浴びて纏わり付く泡を全て濯ぎ落としながら、私の思考は完全に一つの事情に支配されきっていた。
素直に耳を傾けて意識を引き付けられてしまう自分に呆れながらも、彼の言葉からは絶対に逃れられない。
それだけなら未だしも、絆されて受け入れる準備に入ろうとする心にも気付いてしまうから、口の中に苦いものが込み上げる。



(冗談じゃない…)



馬鹿らしい。そう、一言で切り捨ててしまえたら楽なのに。
深く吐き出した息はシャワーの音で上書きされても、気分は一向に持ち上がってくれない。
濡れて絡まる髪をぐしゃりと掻き乱しながら、余裕を取り戻せない自分に絶望は深まるばかり。

今まで大事に抱えてきたものが、本当に、恋にしてしまえるような感情だとしたら。
だとしたら、もう随分と前に落ちていたことになってしまう。
複雑な葛藤を抜きにしても、間抜け過ぎるし痛々しい。プライドを捨てて生きた経験もあるけれど、ここまで恥や躊躇いを感じることもそうそうない。



(冗談じゃない。幾回り下の子供だと思ってるの…釣り合うわけがないでしょう)



どう考えたって、身を引くのが正しい。私は私で自分の未来なんて見えないけれど、大切だと思う人間の未来を汚すような真似はしたくないのだ。
密接に関われば関わるほど、塗りかためてきた上面が剥がれ落ちてしまう。情けないところ、救いようがない人間性が露になってしまう。

最低な面ばかりを見せ付けるのは恥ずかしい。居たたまれない。他の誰でもない彼に全てを曝け出してしまったら、平気な顔をして生きていけなくなってしまう。
図太い私でも、耐えきれないものはある。取り繕ってきた外面であっても、彼の中の私を崩してしまいたくはない。
そもそも、征十郎のような純粋培養の人間に、掃き溜めで藻掻いてきたような女が似合うわけもないのに。



「あー……」



なんて。どうしてわざわざ、ここまで頭を悩ませてしまっているのか。
嫌なら嫌だと突き放せばいい話だ。私の幼馴染みは優しい。本気で拒めば、これ以上私を悩ませまいとしてくれる可能性だってあるほどに。
うだうだと理屈を並べて嫌われたくない恥ずかしい、似合うだの似合わないだのと気にしている時点で、答えは見えているようなものだ。本当は解っている。

解っているから、罪悪感で頭が痛む。
最期に託された願い事を、私は叶えられるだろうか、と。



―ねぇ、なまえさん。一つだけお願いさせて。

―あの子は賢いし我慢強い。きっと立派に育つわ。だけど……だから、無理をしがちなところも出てくると思うの。

―だから…ね。あの子を、よろしくね……。









「おはよう」



門から出てきた影に声を掛けると、朝日の下で鮮やかさを増した赤い髪が揺れてこちらを振り向く。
その驚いた顔を見れば、蟠りの残る胸も少しはスッとした。



「なまえ……おはよう。もう気分はいいのか」

「疲れていただけだから。お陰様で、一晩休んで全快よ」

「そうか…無理をしているようなら家に押し込むところだが」



近付いてきて私の顔色を確かめた征十郎は、その必要もなさそうだな、と頷く。
彼が素直に認めてくれるくらいには、見た目もきちんと装えているらしい。私の方も内心そっと、安堵の息を吐いた。



「それで、どうかしたのかい。朝からオレを待つなんて珍しい……いや、初めてだな」

「お弁当を作ってたら、ギリギリまで間に合わなかったから。直接届けに」

「今日くらいはなくてもよかったのに」

「……っていうのが口実だって、解って言ってるでしょう」

「まぁな」



さらっと肯定してくれる相手に、この野郎、と吐き捨てそうになったのを寸前で堪える。
私も随分理性が崩れてきている。というか、粗野な部分が見え隠れし始めた気がする。

いつか本当に手が出てしまわないかと心配になるが……そこは相手が征十郎なら、大丈夫だろうか。
抵抗なく危害を加えられるようなタイプでもないし。しかし、そうなると今度は私の方がやり返されてしまいそうだから、やはり易々とはいかないだろうとも予想がついて嫌になる。

はああ、と大きく溜息を吐き出しながら突き出した弁当包みは、当然のように待ち構えていた手により受け取られた。



「ありがとう」

「どういたしまして」



用事がこれだけなら、今すぐ身を翻してこの場から立ち去れるのだけれど。
相好は崩しても余裕は崩さない幼馴染みは、包みを仕舞うと何を言うでもなく隣に並んでくる。
自然と一緒に歩き出してしまって、私の頭痛は更に深まった。
これじゃあ最低最寄り駅まで、二人きりで登校することになってしまう。



(しまった……)



告げることだけさっさと告げて、退散すればよかった。
余裕がないから計画も誤って、後から悔やんでしまうのだ。

まだ、戸惑いが残っているから。
無かったことにできるならそうしてしまいたい。現状から逃げてしまいたいとも思っている。
往生際が悪かろうと、そう簡単に絆されきるような人格を私はしていない。本当なら全部投げ出したいと思いながら、それでも相手を見て出来ないと判断して、辛うじて盤上に立っているような状況だ。

征十郎でなければよかったのに。
もう何度吐いたか分からない弱音を、閉じた口の中で呟いてから、仕方なしに顔を上げた。



「昨日の…続きなんだけど」



口腔が干上がっていく。
沈黙を破って切り出しても、幼馴染みがわざわざこちらを振り向いたりしなかったことは、少しだけ救われた。



「あれから……言われたことについて、考えたわ。昨日はあのまま眠っちゃったから、起きて身支度を整えるだけの時間で…だけど」

「短いな」

「短くても頭はフル回転させたわよ」



悩んでいないような突っ込みを入れられて、むっとする。
充分に揺さぶられた。弱りきっていたとしても、この私が泣きそうになるなんて、そんなにないことだ。
それだけ大きな問題を突き付けた自覚くらいあるだろうに、征十郎は本当にたまに、私に対して意地が悪くなる。



「それで? どんな答えが出たんだ」



あくまでも淡々とした声で先を促されて、一つ呼吸を整えながら肩を落とした。
結局、私もこの子を甘やかすのが好き過ぎる。



「答えっていうか…ね」



恋愛というのは、楽じゃない。征十郎の言葉をそのまま受け入れてしまえば…今までのように、ただ傍にいればそれでいい、という関係でもなくなってしまう。
精神的な問題だけじゃない。キスを交わして身体も重ねるような関係を、幼い頃からお互いをよく知る相手に許せるかというのは、かなり際どい、キツいものがある話だった。
そういった欲求は恋愛には必ず結び付けられるものだし、今は勿論無理として、未来的にも応えられるのかどうか……私としては、危ういわけで。
だからといって、まるごと全て征十郎との繋がりを切ってしまうというのは、もっと不可能な話でもあり。

散々悩んだ結果に導き出した答えは、その場凌ぎの運命任せな、一つの案だった。



「賭けに出ることにしたわ」

「賭け?」



きょとん、と瞠られる赤い双眸を見返す。
離れた数ヶ月の間にも大人びてしまった幼馴染みの、子供らしい表情。それだけを見ればどうしても、小さな頃の面影を重ねて可愛く思えてしまうから困る。

本当は、我儘だって何だって、全部聞いて叶えてあげたくなる存在。
この気持ちはまだ、庇護愛に括りきれると思っているのだけれど。



「中学に通う三年…離れて過ごしても、その気持ちを忘れたり揺らがなかったなら。征ちゃんが私を諦めてくれなかったら……その時は、私も観念して認めることにする」

「三年…今からだと二年と数ヶ月か」

「今はまだ、私だって時間が欲しいから。この条件が無理なら、私に恋愛的な期待を持つのは今すぐに諦めてほしい」

「恋は諦めて、傍にはいてほしい…ということか。なまえはまた酷い我儘を言うな」



賢い幼馴染みは私の言いたいところを汲み取り、口角だけを上げて笑う。

確かに、酷いだろう。酷い女だということは、征十郎以上に私が自分で解っている。
自分からは無理だから、相手から愛想を尽かされたい。それでも傷付けば傍にいてほしいと駄々を捏ねる想像がつくのだから、最低も最低。最底辺の、血は争えないらしかった。

でも、それでも……だ。
決意を固めるのはそれだけ、私にとって簡単なことではなかった。



「私は……一度死のうと思うくらいの覚悟がないと、そういう関係は受け入れきれない」



一番の宝物に一生の迷惑を掛け、自分の汚さを曝け出し、擦り付けるほどの覚悟。
与えられた責任を、綺麗なまま全うできなくなる。その罪悪感も背負って生きなければならなくなる。

そんな、転がる先が見えているのに、此処まで決断することだって相当の勇気を要したのだ。



「いいよ。待とう」



だから、だろうか。
今にも震えそうになるのを堪えて握り締めていた拳が、穏やかに答えた人の掌によって包まれる。

きっと、私が立ち止まって迷い続けていたのを知っている。頭が痛むほど考え抜いたことを察しているのだろう幼馴染みは、最後の最後でやっぱり私を甘やかしてくれた。
触れ慣れた肌の温もりが、重なった部分からじわりじわりと広がってくる。その温もりが腕を胴を伝い、ゆっくりと胸にまで到達すると、強張っていた全身からほんの少しだけ力が抜けていった。



「オレが心変わりすることは絶対にないから、意味はないだろうが。それでも、それがなまえに必要な時間なら…待っていれば最後には手に入るというなら、猶予くらい与えてやれる」

「……手に入るとまでは言ってないんだけど」

「賭けが終われば恋愛をする。ゆくゆくは嫁いでくることになるだろう?」

「展開早いわすっ飛ばしすぎだわ…しかも私まだ負けてないわ」

「最初からその調子じゃ勝負は見えていると思うが」



無理だろうという気持ちがあからさまに読める顔をされて、頬が引き攣りかける。
確実に馬鹿にされているのが分かるから、腹立たしい。相手が征十郎でなければ痛い目を見せてやるところだ。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、一方的に繋いでいる手を緩く揺らして歩く幼馴染みの機嫌は上向いていた。



「もう既に上っ面は剥がれかけているからな。賭けがなくても時間の問題だよ」

「…何ですって?」

「気付いていないのか?」



まだ降参した覚えはないのに、何のことを言っているのか。
引っ掛かる物言いを訝しめば、僅かに面白がる気配を漂わせた幼馴染みは私の顔を覗き込み、逃しきっていた事実を口頭で並べてみせた。



「なまえは時々口調が変わるんだよ。法則性があって、動揺したり弱っている時に素が剥き出しになっている」

「……え」

「それから推測するに、昨晩や今のように、より女らしい口調や身勝手な言い分を語る時の方が、本音……根っこに近い部分を見せているということになる」



出逢ってから今まで、そうそう切り替わることはなかったのにな。

得意げに目を細める男の言葉に、愕然とする。
そういえば、昔は征十郎に合わせて子供らしい言葉で話していた記憶がある。嶺華に進んでからは取り繕う必要もなくなったから多少は素で話していたけれど、征十郎の前ではそれまでの態度を崩さずに接していたはず。

なのに、確かに今、私は自分を覆い隠すヴェールを掲げていなかった。



「……気のせいじゃないかな」

「らしくなく苦しい言い逃れだな」



さすがに口を隠すなんてベタな真似はしないけれど、その場に崩れ落ちてしまいたくなるくらいには衝撃だった。
立ち止まった私の腕が、突っ張る。繋がった先の征十郎も同じように足を止めて振り向くと、ひどく純粋な子供じみた笑顔を浮かべてくれる。



「今更隠す必要もない。上辺も中身も、どちらも含めてなまえが好きだよ」

「……今、もの凄い悔しさに襲われてるんだけど」

「そうか。悔しがるなまえもいいな。オレは嬉しい」

「っ……」



にこりと、無邪気を装って笑ってみせる幼馴染みに、本当に、試合開始からぶちかまされた気分だ。
不利であろうと予測していたこの賭けは、私が思う更に倍はとんでもないものだったらしい。

握られる手を振り解いて、一発くらい殴っても許されないだろうかと一瞬だけ考えた。
それはそれで負けを認めたような形になるから、どうしたって愛らしいその顔を張り飛ばすことなんて出来るはずもなかったのだけれど。






更訂→博打




「恋、したことあったのかもしれません」



いかにも今思い付きました、という風に口に出してみた台詞に、室内の空気が一瞬で静寂に包まれた。
同時にメンバー全員から寄せられる視線は気にせず、私はただ一人、動かしていたペンを止めて顔を上げた生徒会長を見据える。



「えっ? えっ何の話? なまえの恋愛話?」

「へぇ?」

「ただ、あなたの言っていた刹那的な感情とは少し違いますけどね」

「あっちょっと! 無視やめて説明しろって!!」



反応を返さなかった所為で食ってかかろうとしてくる秋下祭を、どうどうと押さえ込む北川来夏が視界に入り込む。柚木愛梨は口を挟むことなく、じっとこちらに向けられる強い視線を感じた。



「私は、大切なものは永遠に…守りたい方なので」



私は基本的に綺麗なものが好きだ。自分の手に入らないものは汚れる心配がないから好きで、触れない場所から見守って、大切にしたいと思う。
だからきっと、彼女の語った恋と私の想いは、明確に分ければ種類が異なるのだろう。

それだって恋だと、彼は口にしていたけれど。



「一生、絶対に代わりは現れない。他の誰かに同じような想いは抱けないから、不用意に踏み込んで今ある関係を壊すこともできない。…そう思う対象なら、いますよ。私にも」

「ふぅん」



固まった首を解すように動かしながら私の言葉に耳を傾けていた波柴薫は、どこか残念そうな、面白くなさげな目をしながら唇だけを吊り上げて笑った。



「みょうじさんの好きな人は、幸せだろうね」

「さて…どうでしょう」



寧ろ、不幸へ至る道へと一直線で突き進んでいるかと思いますよ。……とは、さすがに口にはしない。
私が思う不幸と彼の思う不幸が同じ色をしていないことは、既に解ってしまったことだ。とりあえず、女の趣味が最悪だということだけは間違いないが。

学院に不穏な影を作り出していた林道美奈も去り、一定の期間が置かれればまた本格的に生徒会選挙の準備が始まる。この先は、この場にいる全員が忙しなく働かされることになるだろう。
希望者はそれなりの数が出揃うだろうが、雑務処理班の面々は恐らく繰り上がって席に残るのではないかと考えている。勿論、班員本人の意思次第ではあるけれど、一時期で解散してしまうには今の顔触れは相性が良すぎる。できることなら、人員の変更があまりなければ喜ばしいと思う。これは、私の勝手な願いでしかないけれど。



「なーあ、なまえが好きなになる奴ってどんなのよ?」

「さぁ、さっさと片付けちゃって帰りましょう、先輩」

「中途半端に話題に出して誤魔化すとかさ! ないわ!」

「あ、秋下先輩、そこまでに…っ!」



手元の仕事も放り出して騒ぐ班員の中、未だこちらを凝視していた柚木愛梨と、ばちりと目が合う。
途端に慌て出す彼女へ唇に指を当てながら笑いかけると、はっと目を瞠り、次の瞬間には綻ぶような笑顔を返してくれた。



季節は流れる。記憶は薄れる。
それでも約束だけはきっと、守るべき人間の中で息づいていく。

20150114. 

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