シリーズ | ナノ


心地良い冷たさを感じた。それが何かも分からないまま、ゆっくりと意識が浮き上がるのも。
ひんやりと肌に触れる感触に促されて、目蓋を押し開ける。



「おはよう。気分はどうだい」



その瞬間、視界に飛び込んできた色味に、何かを考えるよりも先に咄嗟に身体が動いていた。



「…何だこの手は」

「いえ…別に。意味はないけど」

「嘘を吐け」



やってしまった、と思った時にはもう遅い。頬や首に冷たいものを感じたとは思ったけれど、人の手だったとは。
思わず掴んでしまった幼馴染みの手首を、すぐに解放してやりながら溜息を吐く。ベッドの端に腰掛けながら覗き込んできていた顔が不満げに歪むのが、居たたまれなかった。



「意識してくれるのはいいが、あからさま過ぎるな」

「目が覚めたらいきなりいたから、びっくりしただけよ」

「それこそ今更だな。一緒に眠っていた時もあるのに何に驚くんだ」



オレが見舞いにくる予想くらいつくだろう、と言い切る幼馴染みには、私の調子が狂ってたままであることはお見通しなのだろう。
意地悪な子だと思う。内心で舌打ちしてみても、結局嫌えない。嫌わせてくれないところが狡くて堪らない。

また母が勝手に連絡した上で部屋にまで通してしまったのか。
ここまで来ると信頼しているというより放置しているだけのように思えるのだけれど。悪気がない分厄介だなぁと、目蓋を落として息を吐いた。
昔から入り浸っていたし、今更なんでしょうね。



「熱があるの。伝染しても困るから、帰って」

「風邪じゃないんだろう。華音さんから聞いたよ」

「相手をするのも怠いから帰って」

「オレのなまえはそんなに冷たいことは言わない」

「勝手にものにしないで…というか、優しくも可愛くもなくなったと思うなら放っておけばいいでしょう」

「あまり、病人が騒ぐものじゃない」



じゃあ騒がせるなよ。と突っ込みたいところだが、ぐっすり眠っていたおかげで気分の悪さは収まってきている。
見た目からも察せるのだろう。案じるような言い方をしながらも引く様子がない征十郎は、嫌な顔をしている私に手を伸ばすのを止めない。

起き抜けから、どんな拷問よ。
どう接するべきなのか、まだ答えが出ていないのに。労るように髪を梳いてくる骨張ってきた手を、避けられればいいのに、起き上がって逃げる気にもなれない。
無理が祟ったんだろう、と咎めてくる言葉には反論できるはずもなく、口を噤んでされるがままにしかなれなかった。

どれだけ離れてみても、最後の一押し、突き放すことができない。



「大体、元から可愛い部分は見た目くらいのもので、なまえは優しくもなかった。甘かっただけだよ」



その甘いだけの幼馴染みに散々懐いてくれておいて、随分言ってくれるものだ。
言葉に出さなくても伝わったのか、私を覗き込んでくる赤い双眸が薄暗い室内で緩く細まった。



「誰よりも、オレに甘かったくせに、今更無理をして……優しさも可愛さもいらないと言ってるのに、何が駄目なんだろうね。お前は」



未だ火照った肌にくっつけられるひやりとした手指の感触は、心地いい。穏やかに接してくる幼馴染みを見るのは、久々のことのように感じる。
数日前に浴びせられたような怒りも悲しみもない、落ち着いた瞳はまた異なる色で、私の胸をざわつかせた。

こんなことは、昔はなかった。ただ可愛らしく、愛しいだけであるはずのものなのに、同じようには感じられない。

知らぬ間に、私も変わってしまっていた。
避けていた変化に、弱っているからだろうか。侵蝕されて飲み込まれていく気がする。



「なまえが何に悩んで何を恐れているのか、近くにいないから察してやれない。今はもう語ってくれないと何も知れないのに、それも疎かにされたら…一層心配にもなる」



察せない。知れない。それは彼に限ったことではない。私も、手の届かないところで育っていく征十郎を見つめられなければ知る由もない。
そんなこと…変化の一つ一つが小さな刃になって、胸を斬り付けてくる。

私に触れる手は少しずつ温もっていっても、優しいままなのに。
とても悪いタイミングで、波柴薫によって突き付けられた言葉が脳裏に蘇った。



「……ねぇ、征ちゃん…私、すごく間抜けな指摘を受けたの」

「誰かに、何か言われたのか」

「恐い顔しないで。別に酷いことを言われたとかじゃないから」



誰、という質問も、答えていい結果になる想像がつかないので流してしまう。うっかり口を滑らせてしまえば、困る展開にしかなりそうにない。
実際、傷付くようなことではなかったはずなのだ。
それをどうして、私は頭の中から消し去ってしまえないのか。

どうして、この男に…ただの幼馴染みの子供であるはずの征十郎に、話して聞かせようとしてしまうのか。



「私、恋をしたことがないんだって」



解っている答えは、一つだけある。

続く言葉を待って見下ろしてくる幼馴染みの前に、引っ掛かったままだった気持ちをそのまま取り出してみせる。
出てきたものが意外だったのか、猫のそれのように丸められた瞳が一度だけぱちりと、瞬いた。



「悩むのも馬鹿みたいだけど。確かに、全く……どういうものなのか、実感が持てないし分からないなぁって」



常に切羽詰まった環境で、苦しいながらも人並みに追い付こうと必死に生きた前世。恋愛と呼べるほど上等な付き合いを重ねられた覚えはない。
だから、遙かに年下である彼女の言葉を聞いて、確かに、と思ってしまったのだ。図星を差された。

胸をときめかせ想い人を一心に追い掛けるなんて真似、一度だってしたことがない。それだけ好きだと思えるような人間に出逢ったことすらなかったのだ。
打算のない恋愛なんて端から諦めて頭になかったし、特に必要とも欲しいとも思わなかった。生き急いでいても、たまには楽がしたい、休みたい。その為の居場所や先立つものが補給されることに重点を置いていたから、相手には幾らでも妥協できてしまう。その繰り返し。

思い返すだに、笑えてくる。
ずっと子供のままだというのも、強ち外れてもいなかったんじゃない、なんて。



(きったないなぁ…)



本当に、ろくな生き方してないんだから。
いつもは意識的に忘れ去っている過去も、消えてなくなってしまうわけはない。改めて忌まわしい生き様を思い知らされて、回復してきていた身体に怠さが舞い戻ってくる。

けれど、この場には私以外も存在した。
寝転がっているだけなのに疲れ切って、頭までシーツを被って隠れてしまいたくなっている私を、じっと見下ろしていた征十郎が不意に動く。



「誰にも渡したくない。いつまでも独占していたい。自分だけが見られる本当の姿が欲しい」



のし掛かるようにして、ぐん、と寄せられた目に、肉食獣に狙われた獲物にでもなった気分だった。
怯えるようにびくりと跳ねた次には硬直してしまった私へ、そのまま間に数センチの距離を残して落とされた言葉が、突き立てられる。
どすり、どすり。
どこまでも的確に、胸の真ん中を抉った凶器は引き抜いてもらえなかった。



「っ……征、ちゃ…」

「…そういう形のものなら、知っているよ」



容赦のない攻撃を加えて満足したのか、近かった距離はすぐにまた身を起こした彼によって離された。
そうされた瞬間に、息を吹き返す。ああやっぱり逃げておくべきだった。せめてベッドから起き上がるくらいはしておくべきだったと、同時に後悔も込み上げた。
重ならなかった唇に、まさぐられることのなかった肌に、安堵するのに。吐き出した息が震えてしまっていることが、どうしようもなく嫌だった。

ここまで、身動ぎ一つできないなんて。



「……征ちゃんの、それは…ただの執着だと思ってた」

「最低な逃避だな」

「最低よ。分かってるなら止めた方がいい」

「生憎、この程度の痛手には慣れていてね。今から気持ちを変えるというのも無理だ」

「もう……何だか、もう」



分かりたくないものばかり、分からされる。誰の口から語られるより受け入れてしまうから、解ってしまう。
征十郎以外から告げられた言葉なら、容易に切って捨てられたのに。流して捨てて忘れ去ることだってできる人間のはずなのよ、私は。
それなのに、絶対に捨てさせるべき心が、今までもずっと自分に向けられていたことを知って。こんなことでは手放すにも惜しくなる。

流して、捨てて、忘れて?
それで私の手の中に残るものが何もなくなったら、今までのように何でもない顔をして生きられる?



(無理だ)



たった一つ、守り続けたい宝物を喪って、生きていけるほど強くないことを知っている。
完全に離れて、縁も切れて、どんな形でも二度と戻ってこなくなってしまったら。その時私の心は枯れて、死んでしまう。想像がつく。
征十郎との間に、何一つ繋がりがなくなってしまえば、私はきっと。

じん、と目蓋の奥に熱を感じて、目元を腕で隠しきる。
珍しく、彼はそれを咎めなかった。



「私は……解るだろうけど、征ちゃんが好きよ」

「ああ」

「だけど、大事だから独占したくはないし、世界を狭めてほしくもない……ちゃんと幸せになってほしいと、思うのよ…」



汚してしまいたくない。もっとまともで、平穏を知る優しい人を好きになって、笑っていてほしい。
恋も愛もろくに触れたことがなく、知っているとは言い難い。それでも愛しく大事に想っているから、守っていこうと決めて。
でも、それじゃあ駄目なの? 私の方法では、幸せにしてあげることができないの?



「これは、あなたが欲しいものとは違うでしょう?」

「いいや」



視界を自分で塞いだ所為で、相手の表情は窺えない。けれど、返された声にどこか喜びが滲んでいることには気付いた。
顔なんて見えなくても、声で気配で、機微が悟れる程度にはずっと傍にいた存在なのだから。



「それだって、恋だろう」



なまえがくれる感情なら、痛いものも辛いものも、何だって要らないものにはならない。

囁く声は睦言でも交わしているように甘ったるい。事実そうなのかもしれない。そう受け取ってしまえば、そうなってしまう雰囲気があった。
私は未だ、納得しきることも出来ずにいるというのに。



「…都合よく、植え付けてしまおうとしてない?」

「植え付ける必要もないだろう。なまえには既に根付いているし、結局最初は思い込みだ」

「軽く言ってくれるわ」

「自分の気持ち以上に重い事情もない。気持ちに名前を付けて、思い込んで受け入れてしまった方がずっと楽だ。難しく考える必要はないよ」



目を塞いだままの腕を、すり、と指の腹で擦られる。



「オレは確かになまえを想っているし、なまえも負けないくらいにはオレを想っている。それを恋愛に結びつけてしまえばいいだけだ」



知っている。そんなこと、確認するまでもない事実だ。
だけど、今まで慈しんできた存在とこの私が恋愛に至るというのは、簡単に受け入れられるような現実じゃない。

簡単に言いすぎなのよ。何もかも。
何も知らないくせに。私が自分に甘いことを知っているから、勝手気ままに振り回すことに躊躇いもない。



(ああ……でも)



それは、私も同じか。

愛おしいかと聞かれれば、頷く以外の答えはない。捨てろと自分に言い聞かせても、引き留めるために握り締めてしまう。
掌を擦り合わせ、付け根を擽るようにするりと絡められて握り取られた手を、振り払うどころか離してしまいたくないと思う。浅ましい、愚かしい欲求だ。

息を詰めて自己嫌悪に浸る私に、今度は柔らかな囁き声が落ちてくる。
さっき口にしたことは訂正しようか、と。
どの言葉を撤回してくれるのかと、僅かに腕をずらして見上げた顔は、まるで子供を見守ってでもいるかのような、柔らかな微笑を湛えていた。



「可愛くないと言っただろう。あれは少し嘘になる」

「何、それ」

「弱りきっているなまえは昔から可愛い。縋ってくれればもっといいな」



ああ、私こそ前言撤回したい。
慈しみに溢れるような顔をしながらとんでもないことを言ってくれる幼馴染みに、初めて暴力的な衝動が込み上げた。もう、本当に本気で蹴り上げてやりたい。



「……最低」

「最低でも、なまえはオレを好きなままだろう?」

「本当に、最低」



それでも、実際に手を上げることなんてできるわけもないのだ。
何でこんな子に育ってしまったの…と、嘆きながら今度こそシーツに潜り込む私を追い掛けるように隣に寝転んでくる男から、繋がれていた手を引き抜いて距離を取る。
それくらいは許してくれるだろうと、思ってはいたけれど。特に機嫌を悪くすることなく、被ったシーツの上からぽんぽん、と寝かしつけるようなテンポで叩かれる感触は、憎たらしくなるほど優しかった。






劣勢→更訂




「質の悪い女に誑かされたのが運の尽きだったな」

「…そういうの、責任転嫁って言うのよ」



私は何もしていない。
大体、誑かされるほど馬鹿じゃないでしょう、あなた。

くつくつと喉を鳴らし、嬉々として逃げ道を塞いでいく存在こそ私にとっては元凶だ。
いっそ、突き放せるくらい嫌ってしまえればと思うのに。気持ちを書き換えることより楽ではないだろうと考えてしまう自分も、救いようがない愚か者だった。

20150113. 

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