普段と何も変わらない帰路を、一人で歩いていただけだった。
「……やられた」
唐突に襲いかかった衝撃に尻餅をついた私は、遠ざかっていく学生服の背中を睨みながら呟く。
私の視界から外れないよう逃走するのは、学ランを着用した男子生徒だった。その手には、見覚えのありすぎる通学バッグがぶら下がっている。
所謂引ったくり…と見せ掛けてはいるが、個人情報の漏洩しやすい制服姿で行うには大胆すぎる行為だ。しかも、逃げ込み易い横道には入らずに見失い難い通りを走る辺り、追い掛けてくることを狙っているようにしか見えない。
十中八九、罠に違いない。
さてそれならばどうするか。なんて、悩む時間は必要なかった。
素早く立ち上がりスカートを払い、振り切らない程度の速度で離れていく黒い背中へと駆け出す。
危険は承知。でも、手っ取り早い、これはチャンスでもある。
(虎穴に入らずんば虎児を得ず、ってね)
ごめんね征ちゃん、と、小刻みになっていく息の合間に小さく呟く。聞かせたい相手は、この場にいない。
謝罪に心が籠もっていない、と唇を引き結ぶ幼馴染みの顔が、一瞬だけ頭に浮かんではすぐに掻き消えていった。
四、五分程、走っただろうか。追い掛けていた影は私の姿を確認すると横道に逸れ、暫くして一軒の廃ビルの中へと駆け込んでいった。
廃ビルとは、本当に如何にもな雰囲気だ。時間も時間なのでそろそろ日も暮れ、辺りは薄暗い。不気味な不穏さを漂わせる空気を身に感じながらも、立ち止まることなくその影に倣った。
コンクリートの地面は所々が抉れているが、踏めば靴音が反響するので相手の位置は掴める。
建物の中の追い掛けっこはそう長くは続かず、奥まった一つの部屋に飛び込んだ瞬間、静かだった薄暗闇の中に下品な笑い声が幾つも響き渡った。
「おいおいマジで! マジで釣れたのかよ!? 頭いいとか言ってなかった!?」
「ベンキョーだけが取り柄ってやつじゃね?」
「やっべーウケんだけど!」
ぎゃはぎゃはと耳障りな笑い声を立てるのは、バッグを引ったくってくれた男子学生の仲間だろう。それぞれ着崩してはいるが同じ制服を着ているから、同校に通う仲と推測する。カムフラージュでも何でもなさそうだ。
背後からも聞こえてきた声を振り返れば、出口を塞がれていた。一応最低レベルの脳はあるらしい、ということは確かめて、一度きちんと室内を見回した。
「引っ掛かったわねぇ」
「…林道、先輩……?」
室内はそう広くなく、見積もって十二畳ちょっとと言ったところだろうか。奪われてしまったバッグは隅に投げ捨てられたように転がっていた。
向かいの壁には窓がある。その傍に立ちながら作戦成功と言わんばかりに唇を歪める上級生の姿を見つけて、私は顔を顰めそうになるのを堪えた。
ついでに言えば、引っ掛かってやったんだよ、と突っ込みを入れたくなった気持ちも。
(頭が悪いとは思ってたけど…)
まさか、ご本人まで登場するとは。
思わぬ収穫だが、本当にこの人間はどこまで馬鹿なのだろうと、呆れを通り越して気が遠くなりかけた。
こんな、如何にも今から危害を加えますと言っているような状況に、元凶が出てくるのはどうなのかしら。
自分の目論見が絶対に成功するという自信でもあるのか。はたまたただの馬鹿なのか。馬鹿なんだろうなと結論付けながら、私はゆっくり息を吸い込み、スイッチを切り換える。
「どうして、林道先輩がこんな場所に…私、バッグを取られて…その人を追い掛けて……」
まさか先輩、その方達とお知り合いなんですか…?
身を縮めながら震えた声を発してやる。馬鹿な娘のふりなんて今までしたことはないけれど、こんなものだろう。演技力はお墨付きだ。
「この状況見てわかんないの? アンタがここに来るように誘導したのよ。わ・た・し・が」
あらまぁ、嫌らしい。
思い知らせるように一音一音区切る辺りが、いい感じに苛立ちを掻きたててくれること。
これぞ悪役といった様子に、相手は子供とは言え反吐が出る。
対する私は怯えて小さくなり震える下級生を演じているけれど…どんな茶番だろう、と冷静に白けるわけにもいかないのが少し息苦しかった。
「どうして……何のために、そんなことを…」
「何のためぇ?…決まってんじゃない!!」
喉を引き絞り、掠れた声で投げかけた疑問に、林道美奈は眦を決する。
同時に大股で近寄ってくるものだから、同じだけ後ろに下がるしかなかった。
後ろは後ろで、あまり好ましくない男子学生の一人が控えているので近付きたくはないのだが、この場合は仕方ないので無心で堪える。
「アンタでしょう! アンタが私の生活めちゃくちゃにしたんでしょう! どうやって媚び売ったか知らないけどねぇ、小学生上がりが図々しいのよ!!」
「な、何のこと…」
「しらばっくれんじゃないわ!! いい? アンタはね、やっちゃいけないことをしたの! この私をコケにした。自分が一番だとでも思ってるんでしょう? でもねぇ、それは勘違いだから目を覚まさせてあげるわ。人を貶めて自分だけ愛されようとする汚いアンタには、私が罰を下してあげる!」
「せ、先輩? 何言って…」
いや本当に、何言ってるんだか。
言ってることの殆どが自分にこそ当て嵌まるものだと気付いていないところが、しょっぱすぎて言葉も出ない。出せる状況でもないけれど。
思いが顔に滲まないよう身体を震わせて、弱者をアピールする私を見て鼻で笑った林道美奈は、最後に周囲を煽るように呼び掛けた。
「殴るなり蹴るなりしてやって。顔も身体も二度と立ち直れないぐらいぐちゃぐちゃに潰してやってよ」
彼女の口からはっきり紡がれた。それは、言い逃れのできない悪意表明。
放たれると同時に、五人ほどの男子の影が個々揺れながら、中心近くに立っている私に近付いてくる気配がした。
「っひゃー、女ってこえーなぁ」
「てか、ちょっと前まで小学生って言うからどんなガキかと思ってたけど、この子めっちゃかわいくね?」
「何してもいいんだっけ?なぁ?」
「てことはー、ヤっちゃったりしてもいいわけだよな」
にやにやと、何を考えているのか想像のつく笑みを浮かべてくる男の集団に、舌を出しそうになる気持ちを堪えた私を褒めてほしい。
自分の外見が相当整った方だということはきちんと把握しているけれど、こういう時ばかりは全くもって有り難くない。相手がろくに経験もない子供だとしても、欲望の対象として可愛がられるなんてご免被る。
「こっ……来ないで…」
しかし、四方を囲まれ、数歩近付かれれば手も触れるような距離に立たれてしまうと、逃げ場はなかった。
肉を切らせて骨を断つ、という手も無いわけではない。事態に面倒くささを覚えると、そんなこともついつい考えてしまう。
損害は大きいほど、相手も窮地に貶められる。極端に貞操観念が低いというわけでもないが、精神的に考えれば今更失うようなものは何もなかった。
この身体の初体験がちょっと…いや、相当ハードなものになるだけだ。トラウマにはなるかもしれないけれど、一生抱えてしまう程脆弱な精神はしていない。
自分の本質や本性については、自分が一番よく解っている。
けれど。
(征十郎)
あの子は、私が私の身体一つでも適当に扱ったら、泣くかしら。
傷付いて悲しんで、怒ってしまうかな。そして何の罪もない、傍にいて守れなかっただけの自分を責めたりして…。
嗚呼、さすがに、そんな事態は遠慮しておきたい。
散々彼を振り回している自覚はあるけれど、そこまで最低な傷を刻んでやりたいわけじゃない。
しかしそうなると、どうにかしてこの場、彼らから逃げ出さなければいけないということになる。
多少は腕にも自信はあるが、多勢に無勢。しかも男相手となると正面からやり合うのは賢い選択とは言えない。隙を突ければ何とか……と、頭を回した時だった。
「ぎゃっ!」
「うわ! ああっ!?」
「な、なに!? 何なのっ!?」
パンパンパン、と何かの破裂するような音と共に、暗闇に包まれかけていた室内に光の線が走る。
あまりにいいタイミングだった。
その場の全員が動揺した隙を、私が見逃すわけもない。
「うおっ!」
出口を塞いでいた男子に身を低めた体勢から思いきり体当たりし、道を開けると駆け出す。後を追ってくる足音や声は聞きながらも、足に力を入れて全速力で引き返した。
ビルから出ようとした時に追いつきそうになった一人には、高々と振り上げた回し蹴りを食らわせて回避する。うまく側頭部に入ってしまったから、脳震盪でも起こしてしまったかもしれない。けれど、仕掛けてきたのはあちらなので私に罪はないだろう。
しかし、ここから人通りのある大きな道に出るまで、捕まらずに逃げ切れるだろうか。
さすがに少し暴れてしまったし、捕まった瞬間に暴力を奮われてもおかしくない。男女では足の速さにも差があるし…と、悩みかけたところで横合いから飛び出してきた気配に、驚いてつい足を止める。
その瞬間に、ばさりと広がった黒い何かに身体を覆い隠された。
「どこいった!?」
「いねぇ! けどヤバくね? 音響いたし、誰か来るかもじゃん」
「何今更怖じ気づいてんのよ! 早く見つけて! 早く!!」
焦りきった男女の声と足音が、だんだんと遠ざかっていく。
追い掛けてきた人数分のそれらが完全に聞こえなくなったところで、ぽつりとした小さな声が隣から発せられた。
「……行った、かな?」
「みたいね」
念のため、潜めた声で頷けば、私のものではない深い深い溜息がはああ、と吐き出された。
「暗くてよかったぁー……」
被っていた黒ビニールから顔を出し、丸めていた背中を伸ばした女子生徒が座ったまま壁に寄りかかる。
同じ状態で私も壁にくっついていたので、この暗い夜空の下なら恐らく、放置されたゴミ袋のようにしか見えなかっただろう。
これは中々の機転だな、と感心しながら、私は同じ制服の胸を撫で下ろしている女子へと声を掛けた。
「あれ、爆竹、投げたのあなた?」
「あ、うん。明らかに罠なのに着いていくところ見ちゃったから、私、本当に驚いて……もうっ無茶よあんなの!」
「ごめんね。でも、見張ってたの?」
「だっ…だってみょうじさんが、狙われるかもって聞いて……本当にそうだったから、何とかしなきゃって、私すごく慌てて…っ」
「放課後の集まりには顔出さないのに」
「う、っ…そ、それは……だって…」
しょぼん、と肩を落として落ち込んだ顔になる同輩の姿に、状況も忘れて弄りすぎたか、と軽く反省する。
まぁ、それもこれも可愛い反応を返してくれるこの子が悪い。
なんて、意地悪な私はちゃっかり罪を擦り付けて笑顔を作る。
何にしろ、目の前に迫っていた危機は脱することができた。
少しばかり危なかったけれど、逃げ遂せたわけだから勝ち星は私のものだ。
「冗談よ。ありがとう、愛梨ちゃん」
生徒会代行の雑務処理班、残る一人の同級生。
ピンチに駆け付けてくれた柚木愛梨は、未だ幼い面影に朱を走らせ、俯いた。
暗雲→逃奔
「でも本当、何でこんなに危ない真似…みょうじさんなら解ってたんじゃないの?」
「うん、それはね」
この私が本気で騙されるわけがない。余程間抜けで能無しの人間でなければ、解らないはずがない話だ。
まぁ、残念ながら余程間抜けで能無しな人間だったようだけれど。
被っていたビニールを畳み、伸びをしながら立ち上がる。周囲に不穏な気配はなく、近場は静まり返っていた。
「さて……まずはこのまま、警察に向かおうかな」
もう、ここまで来たら躊躇ってやる必要はないわよね。
言いながらスカートのポケットから取り出したものに、可愛らしい同輩はぎょっと目を見開いたけれど。私は気にしない。
さぁ、あのクソガキに、目に物見せてあげましょうか。
20141230.
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