シリーズ | ナノ


学業課題も綺麗に片付け、昼間の一騒動を見ていた先輩方からの心配のメールにも返信し終えた。残る仕事は自主的にこなしている、日々獲得した情報の処理のみになる。
学校にいる間に書き溜めておいたメモを見返して、有益な情報を軽い報告書に入れ込んでいく。地道な作業ではあるけれど、これも下積みとなれば手を抜くわけにはいかなかった。

思う通りに状況を動かしたければ、自分も動く他に道はない。
中学入学と同時に父に贈られた新品に近いノートパソコンを開き、キーボードをリズムよく叩いていく。
粗方打ち終えてざっと文書を確認し、情報の不備はまたメモに書き出した。少々手間はかかるが、これは明日以降の収集に有用になってくる。
文書の方も確実に保存した後、渇いた喉を潤そうと同じ机の上でも離れた位置に置いてあるマグカップに手を伸ばした時、あまり耳にしない物音を拾って動きを止めた。

今家にいるはずの母にしては少々荒々しい、床を踏み鳴らす音。
怪訝に思うのが遅れたのは、それまでの集中が切れて気が緩んでいたからだろう。これまた勢いよく開かれた自室のドアに、素直に驚いた。

何よりも、目に鮮やかな赤に、視線を奪われて。



「どういうことだ、なまえ」



振り向いた先には、もう数ヵ月の間直接対峙していなかった、幼馴染みの姿があった。



「……征ちゃん」

「何をやってるんだお前は」



きり、とつり上がった眼は私をしっかりと捉えて苛立ちを滲ませる。
まるでこれまでの、距離を置いていた空白の時間はなかったかのようにずかずかと室内に踏み入ってきた彼、征十郎は私の座る椅子の横までやって来て足を止める。
つい呆気にとられて反応が遅れた私を覗き込むように背中を曲げて、その両手で頬を包んできた。



「…えっと…どうしたの、征ちゃん」

「どうしたもこうしたもあるか」



自分でも、間抜けな問い掛けだという自覚はあった。
今まで意地を張って顔を合わせないでいたのに、何故今征十郎が目の前にいるのか。
そんなこと、改めて問うまでもない。冷静に頭を働かせれば答えは容易に出てくるものだ。

どうして来たのかなんて、きっと愚問だ。



「華音さんに聞いた。上級生とやり合って怪我をしたと」



母の名前を出しながら眉を顰めた征十郎の額が、ごつりと音を立ててぶつかってくる。
近すぎる距離は昨日までもそうだったかのような錯覚を起こす。これは恐らく態とだな、と小さく息を吐き出しながら目蓋を伏せた。

本当に、この子は。随分と可愛いげがなくなったものだ。
あんなに小さくて可愛かったのに。悔しいのか寂しいのか、年寄りくさい哀愁を感じてしまって嫌になる。



「やり合ったとか怪我とか、大袈裟…というか、私の知らないところでこそこそ探ってたの」

「そうでもしなければ安心できるか」



事実、こうして目の届かない場所で怪我をしているじゃないか。
恨みがましい声音は、私の知るものよりも低く耳に響いた。

息苦しい、居心地の悪さに距離をとろうとしても、顔を押さえられている。
やっぱりだと語る、逃げることを許さない赤の視線が、無数の針になって肌を突き刺してくるような感覚がした。



「無茶をしてるじゃないか」



苛立ちの奥にある感情を知っていれば、反論も飲み込むしかなかった。今の征十郎の中には私に対する悪意はなく、身を削るやり方を辞さない構えで挑んでいる自覚が私にもあった。
頬を包んでいた手が滑り、左頬を湿布の上から抓られた瞬間、ぴり、と走った熱のような痛みに目を細める。

これでは、どちらが子供か分からない。



「ちょっと腫れただけだから、すぐ治るよ」

「そういう問題だと思うのか」

「…思わないかな。征ちゃんに限って」



そもそも、この怪我も引き金として利用する気でいる私だ。征十郎を説得できるカードはないし、用意しているはずもない。まだ暫くは顔を合わせる気もなかったのだから当然だ。
叱りつけるように抓った頬から離れた指が、今度は労るように湿布をなぞる。ゆっくりと円を描くように滑る指の感触を感じていると、間近にある征十郎の顔は徐々に怒りの色を引っ込めていった。

ああ、指も。その先の手の甲も筋張って、男のそれに一層近付いている。
視界に入ったものの変化を一つ一つ気付いて拾うと、胸の中に冷たい風が入り込む。



「だから嫌だったんだ。離れるのは」



それなのに、嫌がらせのように…切なげに歪む顔には面影が残りすぎているから、振り払えもしない。

私の知らないところで時を重ねて大人に近付いていく男の子は、これだけの距離では完全には切り離しきれなかったようだ。
悔しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、愛しいのか。
解らなくさせられそうな自分が、怖くなる。



「離れて何になるんだ…オレが関わりでもしなければ、なまえは自分のことに手を抜くのに」

「…そんなことは」

「あるだろう」



一瞬だけぎらりと光った目に、誤魔化しは効かない。
口を噤んで肯定を示せば、至近距離で噛み締められる唇が見えた。



「…嫌いになったのか」



そうしてすぐに、言葉は力ない響きで落とされる。
頬に添えられていた手は滑り頭の後ろから引き寄せられる。合わさったままだった額も離れて、じゃれついていた時のように首根に顔を埋められた。



「オレの傍にいたくなくなったのか…」



酷い、意地悪だ、そう詰ってくる子供じみた嘆きに対し、呼吸が深くなる。
少しだけ増した筋肉の動きを服越しに感じて、何とも言えない気分が込み上げた。散々くっついていた過去を思い出すと、居心地は悪くなかったけれど。



「征ちゃん…」

「オレはなまえだけなのに」



なまえはオレだけじゃないのか。
そう、ぎゅう、と回された腕の力に数秒間だけ浸る。
心地はいい。大切だと想う子の腕に収まるのに、悪いわけはない。とくとくと流れる血潮の音を頬をくっつけた部分から聞きながら、力を抜いた身体から息を吐き出した。



「切ない顔をしてみせても、私は騙せないよ?」



それはもう悲しげに、切なさで一杯の態度で私を抱き寄せていた腕の力が停止する。
シャボン玉が弾ける時のように呆気なく、ぱちりと切り替わる空気が音を立てたような気もした。



「…なまえ、空気を読め」

「空気を読むことが絆されることと同義なら無理」

「薄情だな」

「泣き落としにくる人に言われたくないわ」



トントンと背中を叩いて促せば、不満げに顰められた顔が持ち上がる。吐き出された溜息に苦笑を返すと、まだ近くにあった手にぐしゃりと髪を乱された。

まさかこんな手で本気で取り戻そうとしたわけでもあるまい。
その証拠に、あっさりと身を引いた征十郎は私から離れるとベッドに腰掛け直した。居座る気満々の態度に、飲み損ねていたコーヒーを一口だけ飲んだ後に私もその隣へ腰掛けに行く。
やはりというか、特にぎこちない空気は訪れない。

これが当たり前だと、思い知る分には苦いものを感じたけれど。



「身長、伸びたね」

「成長期だからな。なまえの方が小さくなったみたいだ」

「私もまだまだ成長期…征ちゃんにはもう追い付けないけど」



軽いやり取りを交わして、その収まりのよさに呆れる。
置いていかれることを受け入れていたのに、どうして振り向いてしまうかなぁ、この子は。

ずっと子供でもいられない。私は最初から子供でもなかったけれど。
だからこそ遠ざかる選択をしたのに、こうしてすぐに横穴を開けたりして。賢いくせに救いようがない。
名前を呼ばれて振り向けば、隣で寛ぐ幼馴染みの双眸が柔く細まる。



「会いたかった」



これは本当だ、と。

重ねるだけで握られもしないのに、手の甲を包んだ温もりは先程感じた比ではなかった。
じわりと伝わる体温に、背中から緊張が抜けてしまう。悲しいくらい、私の身体は感情に忠実だ。
きっと、それだって知られている。征十郎は子供の我儘を態々言いに来たわけではない。
私の弱味に付け込んでも、私を想って手を引こうとしているだけだ。

それは正否のない、ただの優しさで。



「オレのためのことが、お前のためにならないなら…離れなくてよかったんだよ」



こんな、馬鹿なことを言わせてしまう。私は本当に悪い大人よね。

自分のことを見据えなければならない時期に、いらない心配をかけて。押し掛けさせるようなことをして。
征十郎のためと口にしながらエゴを押し付けたのに、完全には切り離しきれないでいる。
大人になりきれない。素直な子供でもいられないのに、中途半端な自分を不甲斐なく思う。



「ごめんね」



それでも、あなたがどれだけ優しくても、私は変わらないし譲らない。

不相応な優しさを受け取る勇気も持てない。深く深く、隣で吐き出された溜息の意味も、その胸の内も理解できないわけでもないのに、残酷なことをしているかもしれない。

嫌いになったっていいのは、征ちゃんの方よ。
口から滑り出てしまった本音に、側頭部にごつりと頭突きを返された。



「なまえは、馬鹿だ」



押し潰すようにシーツに縫い止められた手は、未だ離れてしまう気配はなかった。







欺瞞→妥協




何があっても今更だ。猫のようにつり上がった赤い瞳が真っ直ぐに私を射て、そう口にした。



「お前が危険な目に遭いに行くなら、こっちも勝手に配慮する。オレがそうすると解っているだろう」

「予感はしてたけど。勝手ね」

「なまえに言われたくない」

「…まぁ、じゃあ、できる限り心配させないよう努力しようかな」



私だって、離れてまであなたの手を煩わせたくはないもの。

約束はできないけれど、無茶は減らそう。心の隅に置くくらい私の方が離れられていないことは、疾うに思い知ったことだった。

20140320. 

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