シリーズ | ナノ


人生というものは、一度転がり落ちると元の位置には戻れないものだ。
私はそれを身をもって知っていたのに、結局は自分可愛さに結論を引き延ばし続け、とうとう大事なものを落としてしまった。

きっと、大切なものをいくつも抱え込んだのがいけなかった。
元から人との関わりが薄く情け深くもない、許容量なんて殆どない私なのに無理をしたから。

今更後悔したところで、時間は戻ってくれないが。






「本当になまえさんは出来た娘さんね」



慣れた手付きで切り揃えた野菜を鍋に放り込む最中、ほう、と満足げな溜息を吐いた女性には苦い笑みが浮かぶ。
幼馴染みの面影と重なる部分の多いその母親までもが、甚く私を気に入っていることは既に自覚済みではあった。

今日のように、たまに仕事の都合で両親がいない日には半強制的に赤司家にお邪魔させてもらうことが多いのも大きな理由かもしれない。
お世話になるならと、初めてこの家に泊まることになった日に家事の手伝いを申し込んだ瞬間、きらりと光った彼女の瞳を私は暫くは忘れないだろう。

富豪である赤司家には使用人がいるものの、最低限の家事は己の手でやるべきだ、と主張する彼女の料理の腕前は素晴らしかった。私の母親もかなりのものだが、比べても甲乙つけがたい。
しかしそんな彼女は、息子の嫁候補に己の味を教え込むことに楽しみを見出だしているらしい。

子供の戯れ言と流してもらえないのが恐ろしいんだけど…。



「征十郎もいい子を見つけたわね…流石私の息子」

「あはは…」

「賢く逞しく器量よし…なまえさんにならあの子を任せられるわ」



ヤバい。本当に流されそうで怖い。

小学生にどんな期待寄せてるんだこの人…とは思うものの、口にする勇気はなかった。
征十郎より心眼の冴えた同性なんて、流石の私もまともに切り抜けられる自信がない。

調味料を準備しながら乾いた笑いを溢す私に、突き刺さる視線は友好的であるはずなのに鋭いもので。
この視線から逃れられるなら、征十郎の我儘の三つくらいは余裕で叶えてあげるレベルだ。



「でも…なまえさんは乗り気じゃないのよね」



ぴしりと、空気に亀裂が入るような感覚に思わず溜まった唾を飲み込んだ。



(………バレてた)



いや、まぁうまく隠し通せているとは思ってなかったけども。

そろりと視線を上げてみれば、案外と鋭い視線を向けられているわけでもなかった。



「征十郎に、何か不満を抱かせる要因でも?」



聞きようによっては責めるような台詞にも、悪意は感じない。ただ純粋な疑問として落とされた言葉は、笑って流せるほど軽くもなかった。
あの子によく似た、つり目がちの瞳は弛んでいる。



「…けっこんとか、よくわからないだけです」

「それは、征十郎が相手にならないということではない、と受け取っても?」



ああ、この人は紛れもなく征十郎の母親だ。
ぐつぐつと煮立ち始めた鍋を見つめながら、内心嘆息する。

落としてしまったのは、私だ。
それでもその後に恐れを抱く程度には、大事で。心配なのも本当で。



「…征ちゃんのことは、すきですよ」



それは、本当に。偽りようのない本音ではある。
誰にも言えない後ろ暗さを抱えた私に、唯一寄り添ってくれた小さな子供。愛しているかと訊かれれば、大まかな意味合いで否定はできないだろうことも解っている。

大切な幼馴染み。大事な子供。それは、本当にそう思っている。
だからこそ、これ以上巻き込んで引きずり落としたくないと思う、私は間違ってはいないはずだ。



「だから、ふつうにしあわせになってほしいだけです」



新しい生を受けて、七年目。人は忘却を兼ね揃えた生き物で、例に洩れず私の記憶も新しい情報が上書きされて薄れていっている。
それでも、新しい人生を歩み直せるほど簡単ではない。記憶が薄れてしまっても、私が成熟し過ぎているのは変わらない。狭い世界で歪んだ目線で、汚れきった大人が幼い子供の人生を掻き回し続けることは、受け入れるべきではないと思う。

現に、私の傍に居すぎた子供は周囲を完全に拒絶し始めている。
それではいけない。あの子にはきっと、もっと輝かしい未来が待っているはずなのだ。



「…やはり賢いわね、なまえさん」



思考を語ったわけでもないのに、何が楽しかったのか、くすりと小さな笑い声が降ってくる。
上機嫌な彼女は、私の主張をそのまま受け入れてくれる気はなさそうだった。



(いい笑顔…)



こちらの事情を知らないのだから、仕方のないことなのかもしれないが。

どっちにしろ、このままでは落ちるところまで落ちることしかできない。
あの子の人生をこれ以上歪ませないためにも、私は一人でも足掻くしかなさそうだった。







定める、決意




「征ちゃん、ご飯できたよ」

「なまえ」



自室にこもって読書に勤しんでいた子供に呼び掛ければ、猫のような赤い瞳が振り向く。
扉の前で待つ私の傍まで駆けてきた征十郎は、私の手を取ると満たされた笑みを浮かべる。

可愛いなぁ、なんて思いだけでは、もういられない。
疼く胸にも蓋をする。
それでも表面上は変わらぬ笑みを浮かべ返して、私はこの先の道程を組み立てる。



「なまえはうちにすめばいい」

「またむちゃなこというね…征ちゃんは」

「どうせずっとそばにいるんだ。いまからもあとからもかわらないだろ」



この先を疑いもしない幼い手の温もりが、じわりと染み込んで痕を残す。
息を吐き出しながら笑って、私はその手を握り返した。

私は独りでも、足掻いてあげよう。
私を温めてくれた、この子供の為ならば。



(大丈夫)



もう、落としたりしないから。

20130603. 

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