シリーズ | ナノ



夕餉と湯浴みを済ませてしまった後は、日課である出撃遠征の記録を付けて次の日のスケジュールを考える。
政府への報告書は定期的に仕上げて提出するものなので、無理のない采配を一旦書き出せば後は夜が明けてから確認するだけで事足りる。が、それも連日働かなければいけない日に限った話で、休暇前の夜にはそこまで頭を使って明日の支度をする必要はない。

相手は人ではないとは言え毎日働き詰めでは気も滅入るということで、我が本丸では七日間の内で間を明けて二日の休息日を設けてある。私自身の羽を伸ばすためでもあるのだが、刀剣達も疲労が回復すると怪我も少なく刀装も壊されにくくなるので、たまにのんびりする日があった方が結果的に効率もいいのだ。
普段は戦いに身を置く彼らが少しでもゆとりのある時間を過ごしている図というのも、眺めていて安心したりもして。

そしてそんな週に二度の休暇前の夜は、私の余裕を知る誰かしらが決まって部屋まで押し掛けてくるのが、これまた習慣になっていたりする。



「あーるーじ! 主、暇してるでしょ? 爪塗ってよ!」



許可を得る前から躊躇いなく室内に踏み込んでくる打刀に、今夜は清光くんか…と息を吐きながら今の今まで向き合っていたパソコンをスリープさせる。畳に手を付いて身体を反転させれば、見るからにウキウキとした様子で私の目の前に腰を下ろす加州清光の姿があった。
因みに、現在視界は良好だ。接触を良しとする彼がじゃれついてくることは比較的よくあることなので、自室にいる時に限って顔布を被るのも諦めてしまっている。それが気を許しているようで彼のお気にも召しているらしいが…視界が塞がれていると要望に応えにくいというのが一番の理由だとは、頬を桜色に染めている相手の心を負に傾けたくはないので告げていない。告げてはいけないと本能が呟くので、素直に従っている。
寝ている子をわざわざ起こすことはないだろうと、今日も私はなに食わぬ笑顔を浮かべて清光くん専用となったマニキュアとトップコートに手を伸ばした。



「清光くんの指はいつ見ても綺麗ですね」

「とーぜん!」



日々の手入れを怠っていないお陰で、傷一つない滑らかな肌には溜息が漏れそうになる。老いることのない神様という存在に触れることに相変わらず感動を覚えながら、準備よく色を落としきられている指を左手に乗せてもらった。

爪先に色を乗せて、次に真ん中を縦になぞる。鮮やかな赤が隙間なく整った形の爪を染めていく途中、こそばゆそうに頬を弛める彼の顔を窺う余裕まで最近は出てきた。
初めてネイルをねだられた時には、他人どころか自分の爪さえ滅多に塗らない所為で少しばかり歪になったりもしたのだけれど。何度も繰り返せば手先は震えなくなったし、贔屓目なしに大分上達したものだと思う。慣れてくると今度は凝りたい気持ちも出てきて、ラインストーンやシールまで手を出したくなるのがちょっとばかり困りものだが。



「赤はそのままで蝶のシールなんて入れてもよさそうですよね」

「えっなにそれ、絶対可愛い!」

「清光くんなら似合いそうですし…今度見てみますか」



ぱっと瞳を輝かせて食い付いてくる清光くんは、本来こういった類いを好むだろう女子勢よりも可愛いものに目を光らせている気がする。乱ちゃん辺りも女顔負けの愛らしい風体をしているが、清光くんの可愛さへの執着は並大抵のものではない。
彼の出自故でもあるのだろうが…自分が飾らない分彼が嬉しげにしているのはなんだか楽しいので、ネガティブに陥っていない時は特に問題はないと思っている。

可愛いは正義、という言葉も何時しか流行っていたらしいし。
見る人が見れば、平和ボケと馬鹿にされてしまうような光景かもしれないが。誰が傷付き失われるかを考えずにすむ、戦いの絡まない今のような時間が私は気に入っていた。



「んー…でも、主はやっぱ使わないんだよね。デコったら断然可愛くなると思うけどなー」

「いや、私が着飾ったところで清光くんには敵いませんから」

「そんなこと……あるかもしんないけどさ」

「素直ですね」



そこはもう少し私を立ててくれてもいいんじゃ…と思わなくもないが、実際に神の眷属に並ぶような美貌は残念ながら持ち合わせていないので苦笑するしかない。
悪びれない彼も、別に私の外見にけちを付けるつもりで口にしたわけではないのだ。猫が心地よさげにしている時のように目を細めて笑う清光くんは、ただただ機嫌がいい。



「だって俺、可愛いでしょ」



彼のメンタルは外見に左右されるので、傷を負っていない今の笑顔は自信が滲んでいて確かに可愛らしい。可愛くあろうとするところからして、可愛さを感じるのは本当だ。
うんうんと頷くことで相槌を打ち、乾いた赤色の上から順々にトップコートで補強していく。光沢の増した爪は決して女性的なわけではない彼の指を不自然に見せることなく艶めかせる。可愛くて色っぽい、彼の瞳と似合いのいい色だ。

質のいいメーカーを並べて選り抜きの色みを取り寄せただけあって、斑なく紅色の差した指先は何度見ても美しい。
後は乾くのを待つだけという頃、ひらひらと掌を風に当てる清光くんが一層深い笑みを型どった。



「ね、だから主が一番可愛いと思うのも一番好きなのも一番愛してるのも勿論俺だよね?」

「清光くん……」



来たか。
内心の呟きはおくびにも出さず、ふ、と目蓋を伏せる。慣れた動作で、爪に触れないようにそっと彼の両手を自分のそれで包み込んだ。
いつも彼は、この行為の最後に似たようなことを口走る。俺を一番可愛がって、好きでいて、愛して…そんな言葉の裏側から見捨てないで、という声までもが聞こえてくるのはきっと気のせいではないのだろう。
私がすること、返す答えは変わらない。一度伏せた目を持ち上げて、じっと此方の返事を待っている人間離れした目玉を見据えて、声を落とした。



「あなたにそんなことを言わせてしまって、ごめんなさい…」

「それ! もう騙されないからね!!」



あ、駄目でしたか。

もう十三回目だよその誤魔化し方!、と珍しく彼の方から手を振り払われて、あっちゃー、と頭を掻く。
いつも同じ返しをしていたからか、そう言えば前回は微妙に訝しげな顔付きで渋々納得していたのを思い出す。今夜の彼は頬を膨らませているので、言葉通り、もう同じ手は通用しないということだろう。
『私と仕事どっちが大事なのよ!』という、古くから残る配偶者や恋人からの定番の訴えには、そっと抱き締めて『そんなこと言わせてごめんな…』と切なげに返せば角が立つことはない。と、これまた古くから言い伝えられてきたことなのだが、何度も繰り返せば誤魔化されているのではと疑いも出てくるらしい。

これも一種の反復学習というやつだろうか。
というか、十三回も使い回せていたことに私は驚いているのだけれど。この子、ちょろすぎにも程がある。いっそ密かに加州ちょろ光と呼びたいくらいである。流石に可哀想だから呼ばないが。
恋人でも配偶者でもないので手を握るだけに留めていたけれど、抱き締めていたらもう少しは長持ちしたのでは…とも、さもしくも思ってしまう。愛に飢えすぎて目が眩んでいる清光くんは、騙されやすい。それはそれで大変可愛らしくて結構だ。



「俺なんか近侍でも初期刀でもないもんね! 主の一番じゃないのなんか分かってるっ……分かってるけど、そうやって弄ぶのってひどい…っ!」



主は俺なんか居なくなったって構わないんだ! 構わないから適当に相手するんだ!!

つい先程まで綻んでいた顔容を歪ませてぼろぼろと涙を溢し、畳に伏せるように背中を丸めて喚き出す彼のような浮き沈みの激しさを躁鬱と言うのだろうか。
そんな清光くんの必死の訴えに答えるとするならば、申し訳ないが正直に言おう。楽しい。とても、楽しい。もう、頬がひくつきそうになるのを堪えるのが大変なくらい、楽しくて堪らない。

自分で言ってしまうが、私の性格はあまりいい方ではない。自分に好意を寄せてくれる存在は可愛くて堪らないし、勿論居なくなったって構わないなんてことはあり得ない。
清光くんに限らず、大事にしている彼らに居なくなられた日には私だって泣いて泣いて臥せってしまうかもしれない。それくらいは可愛くて、可愛くて堪らないからこそ、相手によっては弄りたい衝動にも抗えなくなってしまうのだ。
正しく、適当。私は私なりに、其々に適した態度で向き合っている。その者の性格に合わせて、可愛がり方を変えているだけだ。



「清光くん」

「っ…な……にっ?」



ぐすっ、と大きく揺れた肩を、少しばかり強引に起き上がらせ…同時に更に力を込めてやれば、ころり。あっさりと背中から転がった清光くんの目が点になる。
敵襲には敏感でも、主人からの奇襲には警戒できない。そんなところもまた可愛い。彼から見た私は一体どんな顔をしているのだろうか。そっとその顔の横に両手を付いてやれば、僅かに強張る様子が窺える。



「あっ……主…?」

「逆に、訊ねましょうか。清光くんは私に、どんな風に愛されたいんです?」



ぴくりと震えた頬を、眠る動物に触れる時のように優しい手付きで撫でれば、呼吸も忘れて目を見開いている彼の喉が上下する。
ごくりと、唾を飲み下したらしい清光くんの瞳が揺れて、逡巡を表す。



「人の男のように? それとも女のように? お人形さんのように着飾らせて? それはそれできっと可愛いでしょうね」

「……ある、じ…俺……」

「なぁに?……答え様によっては、私も態度を考えますよ。加州、清光…?」



とろりとろりと徐々に潤んでいく瞳に、映っているのが自分だとは信じられない。蕩けていく表情は限度を知らないのか、真っ赤に染まって弛緩する顔容の中、薄い色を保ったままの唇がもの言いたげに小さく開閉する。口元の黒子が色気まで醸し出すのが、女として少しばかり辛い。私には絶対同じような顔はできない。そもそも造りが違いすぎるという話だが。

しかし、刀剣男士は元から自分を顕現させた審神者に懐きやすい質ではあるらしいが、インプリンティングが完璧すぎて、ここまで心酔している様を見せ付けられるといっそ恐ろしさすら感じてくる。流石に、どの子も同じような反応をするとまでは思ってはいないけれど。
半ば襲い掛かるような体勢であるというのに欠片も抵抗されない状況に、一体どこで止めたものかと軽く悩み始めるところ。そわ、と未だ乾ききっていないだろう爪先も忘れてしまったのか、その手が持ち上げられる気配がした。
同時に、木面を擦り合わせる音を立てて、何の前触れもなく障子が開く。



「あ」

「っ……!?」



障子は、特に激しく開け放たれたわけではなかった。急ではあっても慌てて乱入してきたとするには程遠い穏やかさで、夜の帳を運んでくる。
庭に面した縁側に繋がる仕切りの向こう、そこに立っていた影がおや、と口元に手をやるのを見上げる私と清光くんの表情は随分と差があったのではないだろうか。
時代を思わせる蒼い着物は闇に紛れて色を濃くしており、瞠られた瞳の中の月は今夜も変わらない美しさで輝いていた。



「ふむ…邪魔してしまったか。睦まじ合っているところ、すまんな」

「う……わああああああっ!!」

「加州よ、何処へ行く」



ずざあっ、と音を立てて私の腕を潜るように滑り抜け、勢い良く身を起こした清光くんの動作は凄まじかった。流石、太刀以上には持ち得ない打刀の機動力。思わず拍手が出そうになったが、気付いた時には逆側の扉から飛び出していった後だった。どうやら、逃げ足の速さは山姥切くんにも匹敵するようだ。



「初心なこと」



ええ、本当に。
清光くんの初々しさの五分の一も持たない、鷹揚に笑っている近侍の太刀に深く頷いて同意する。まさか本気で手を出すつもりはないので、逃げ帰っていった清光くんを追うような真似はしなかった。わざわざ追い掛けてまでどうこうしようとするのも野暮な話だが、そもそもその気がない。愛されたがりの我儘に対し、質の悪いからかいを仕掛けてみただけである。
こういうところが適当と言われる所以か…とは思うのだけれど。自室に帰った彼が我にも返って今頃あたふたしているだろうと思えば、やはり逃しがたい一興なので反省はしない。突けば可愛らしい反応をくれる者を、突かずにいられるわけがあるだろうか。少なくとも私にはない。有り得ない。そんな人間でごめんなさい、と口では言えても後悔もしない質だ。



「流石はおじいちゃん、いい時に入ってきますね」

「うむ、そうだろう。……しかし、主は彼奴らを振り回すのが好きだな」

「楽しいじゃないですか。愛されたがりの構われたがり……安心したくて不安そうで、本当に可愛い」



言外に惨い、と指摘されていることは鈍くなければ分かる。何たる言い掛かり、とも言えまい。振り回されるより振り回す側に回ることが圧倒的に多いことは自覚している。
だって、その方が楽しいのだ。仕方がない。可愛いは正義とは言ったものだが、可愛過ぎると悪を呼ぶ。そう、可愛いのが悪い、と言い訳が出来てしまうほど可愛くあるから悪いのだ。
脳内が“可愛い”のゲシュタルト崩壊を起こしそうなのでこの辺りで止めて、断りなく入室してくる近侍と向き合った。
何時から控えていたのか。その美貌はともかくとして好々爺といった態度を崩さない三日月宗近は、タイミングを読んで登場したことを否定しなかった。つまり、暫くは様子を窺っていたのだろう。
こういうところが年寄りらしく食えない…と肩を竦める私の正面、先程の所為で位置がずれた座布団を正してそこに座した彼の顔はいつもと変わらず柔く微笑んでいた。



「彼方も此方も難儀なことだな」

「まぁ……こんな審神者に引き当てられて運が悪かったとしか」

「はは、よく分かった言い方をする」



三日月おじいちゃんだけでなく、大人組とは時折酒を酌み交わすこともあるが、今夜はその手には何も握ってこなかったようだ。何の用だろうかと首を傾げながらも『さにわ』の文字の刻まれた布を引き寄せていると、整った眉が残念と言いたげに僅かに下がった。



「勿体無い…今宵は空も晴れていい具合だぞ」

「勘弁してくださいよ。ただでさえ整い過ぎた顔立ちに囲まれて過ごしているのに、その筆頭なんて直視し続けたら私の目はすぐに溶けてしまいます」



月見の誘いでもと考えていたのに…と溢す彼に悪意がないのは解っている。初期に呼び出したこともあって、三日月おじいちゃんはその後に鍛刀したり拾われてきた他の面々よりは私の顔を見慣れている。
それは此方も承知していることではあるのだけれど、落ち着かないものは落ち着かないのだ。特に美人でも不細工でもない至って普通の現代日本人の造りと自覚する顔を、慣れた手付きで覆い隠すことは止めない。零れ出た不満の声は聞かず、頭の後ろで紐を結んだ。

清光くんのように、前が見えないと困るような頼み事があるわけでもないのだから許してほしい。
特に天下五剣の中で一番美しいと自分で告げるだけの自覚がある近侍の前では、平凡顔すら地味に霞む。数分後にはコンプレックスが増える可能性が高過ぎて笑えないということで、今のところこの先制防御を解く気にはなれなかった。



「それはそうと、先程の手は何度通用すると思います?」



吐き出される溜息を遮るように訊ねたのは、少し態とらしかったと自分でも思う。話題を逸らそうという気持ちが明け透けな振りに、それでも元から他人事に関心の薄い彼はそれ以上追求することはなかった。
ふむ、と頷くような声は半音以上跳ね上がる。



「賭けるか」

「では、私は二十で」

「大きく出たな。ならば俺は五十にしようか」

「どっちが大きいんですか。流石の清光くんもそこまでちょろくもないですよ」

「はっはっ、分からんぞ」



優しいのか、親しみが薄いのか。逃げる私を追ってまでは来ない近侍も、もしかしたら私をからかって遊んでいるのかもしれない。それはそれで、僅かでも楽しみになれているなら良いことなのだろう。今も愉快げに唇に弧を描いている麗しい面が頭に浮かぶ。



「味を占めれば、騙された振りをするやもしれん。すきんしっぷとは心地いいものだからな…あやつは主との繋がりをよく気にする」

「……成る程」



今は付喪神という体をとっているとは言え、物である彼らは主人がいなければその物としての働きを失い価値を下げる。武器として造り上げられた刀だ。振るわれなければそこに在る意味が薄れてしまうのだろう。
だから、主人という名の器が必要となってくる。それも、出来ることなら敬えるだけの志を持った存在が望ましい。過去、良縁に恵まれ名のある人間に仕えた刀剣は挙って根深い傷を心に負っているようだが、清光くんのそれはまた少しベクトルが異なると私は思っている。

加州清光は幾度も折れその度に打ち直された刀だということは、単なる知識として得た情報である。かつての主人はとうとう修復不可能というところに来るまで彼を手放さなかったそうだが、ボロボロになって直らなくなった、使えなくなったから捨てられた、という意識が見事に彼の根源に残ってしまっていた。
相方とも呼べよう大和守安定とはわけが違う。前の主人を想う気持ちがないわけではないだろうが、一番根深いのは出自への劣等感や主という器から向けられる愛念といった辺りだ。そこら辺は山姥切くんにも似た部分があるので、ついこの打刀二振は気付けば構ってやりたくなってしまうのだけれど。



「……時に三日月おじいちゃん、付喪神って子を成せるんでしょうか」

「はて…どうだろうな。試したことがない」

「そりゃそうですね」



私が降ろしてからというもの、一切色物なんて揃えてやったこともなければ当然操を許すような真似もしていない。身に覚えがないのに問い掛けるのもおかしかったな…と反省した。どうも三日月おじいちゃんと喋っていると気が緩んで困る。おじいちゃんも窘めてくれるようなタイプではないので、一緒になって首を傾げるだけだ。今、私の部屋には圧倒的に保護者枠が足りない。
薬研くん光忠さんカモン、なんて内心ちょっぴり巫山戯そうになったが本当に来たら確実に叱られるので止めた。噂をしてなくても影が現れることがよくあるのだ。何処にアンテナを張っているのか、全く嬉しくない。

しかし、可愛い反応に唆されて深く考えずに清光くんを誑かしてしまった(自覚はある)が、考えてみればやり過ぎたかもしれないと思い直す。彼の場合本当に味を占めてしまったら、俺主にならいいよ…なんて言い出してしまいかねないような傾倒系男子だ。それは流石に対処に困る。
誑かす方は楽しいけれども、困るのは嫌だ。最低の我儘だと分かっているが反省も後悔もしない。大体相手が人間であって上司部下のような関係になければ、どう転がったって構わなかったかもしれないのだから。



「パワハラセクハラ云々、子を成せるかどうかは置いておいても……無責任はよくないですね。次はもう少しうまく躱そう」

「それがいい。俺もこうして人に近付けはしても、人そのものにはなれないからな」

「また、寂しいことを言いますね」

「ああ。何時の日も寂しいのは置き去られる側だ」



ふと、手先に触れるものを感じた。不思議に思う内に片手が掬い上げられ、掌を上向きに引っ繰り返される。特に何かを疑う気は起こらずされるがままになっていると、広げられたそこにまあるく輪を描くように滑らされた指にくすぐったさを覚えた。



「残る思い出が輝けば、寂寞が身に染みる。只の刀の身であった頃より、人の身を得た今は尚更」



白と黒で分けられない。幸福と同時に絶望を垣間見る、人の造りは何とも複雑だな。
指先の動きの所為か、彼の口にした言葉の所為か…どちらにせよ、軽く震えてしまった私の肩に気付いたのだろう。ふ、と笑う息を近く引き寄せられたままの手に感じて、やはり顔布を装備して正解だったと脳内の冷静な私が呟いた。素面で三日月おじいちゃんと向き合う距離にしては、若干近すぎる。勿論、そんな言葉にする方が恥になるようなことを私は口には出さないが。



「あなた方にそれほどの想いを抱かせられるなら、想われる当人は幸福者ですね」



喪われる時を恐れ、嘆き、悲しみ続けてくれる存在がいるというのは、主冥利に尽きるのではないだろうか。
何せ彼らは人より長くを生きる。不測の事態に陥り壊れてしまうまで。若しくは、途方もない時間を経た後に終わりを迎えるのだろう。その瞬間まで、人よりも一途な彼らの中の傷が癒えることはないのだろう。刻んだ先人を、羨ましくも思ってしまう。
代わりには、誰も成れない。



「幸福者、か。俺には大罪人とも思えるが」

「そうですね…恐らく、どちらも正解になるかと」

「うむ。ならばやはり、主には幸福者にして大罪人の素質がありそうだ」

「あら……私のことも罪人にしてくれるんですか?」



意外な言葉を拾って、素で首を傾げてしまった。
便宜上彼らの主人という立場に着いてはいるが、それは仮初めの椅子だとも思っている。彼らの元の主人を超えられるほど、気高くも誇り高くもない。比較することもできないくらい、背負う使命感が違いすぎる。
日の本の統率も、改革も、夜明けも、私には縁遠い過去の出来事。歴史修正主義者との交戦すら、政府の下に引き取られたが故に行き着いた先、としか思っていないのだ。揺るぎないはずの歴史すら揺らぐ今、何かを直向きに信じて現状に変革をもたらそう、なんて覚悟を決められるはずもない。
個人の力は限られている。歴史修正に疑問を抱いても、政府が秘匿する何かしらに勘付いても、ゲームボードを引っ繰り返すような真似もできない。私という力ない一審神者は流されるまま、言われるがまま、生きられるまで生きることしかできないと知っている。それでも構わないと思う程度には、人生を投げている。

こんな私に彼らの主人が務まるはずもない。だから、その概念でいう主とは異なる形でいい。よくて上司、仕事場で関わる同僚のようなもので充分だと思った。彼らの一割も生きていないような小娘に心から仕えてほしいなんて台詞は、口が腐っても言えない。最初から言う気もない。
一時、恙なく過ごせれば、最後には忘れ去られても構わない。流石に残酷すぎるかもしれないその取り決めを彼らに明かしたことは、一度もなかったのだが。

酷なことを言う。と、溢された笑い声は夜の闇に似合うひっそりとしたものだった。
月の満ち欠けは古来から人を狂わせるという。誘われるように、見えもしない視界をつい持ち上げてしまった。



「他に帰る家がないと聞いた日には、これでも気掛かりが一つ消えたと喜んだんだが」

「……それは、初耳ですね」

「言わずとも分かるものではない、か。人というものは一々手間が掛かるな」

「そうですね。言葉を惜しんでいたら、伝わるものも伝わらないものですし」



何度も失敗を繰り返して学んで、人は人に成っていく。
そうすると彼らはまだ、人の身に宿る感情だけで考えると赤子のようなものだろうか。我儘の多くなる、幼少期。我儘を言えないような幼少期よりは、遙かに健全なのかもしれない。お気に入りの玩具を手放したくないと泣き喚くような…ならばこれは小さな反抗か。

しかし、目の前が見えない。暗い視界の中で、浮かぶ月の色は黄金で間違いはなかったのだろうか。深紅に染まる時があるのなら、その時ばかりは一度くらい見つめてみたいと思っていたのだけれど。
残念なことに、顔布を取り払う勇気までは芽生えてくれなかった。そして密かに呼吸が浅くなっている私を、責める声も穏やかなものだった。






この呪を受けよ




「今が何時までも続けば、と……思う時点で先は地獄だ」



我が主は、どうしてくれるのだろうな。



「さて…どうしましょうね」



ああ、神様だ。紛れもなく。流れ込んでくる怒気に似た熱を噛み締めながら、ぼんやりと思う。
思っていたよりも、私は大事にされているらしい。神の眷属に対して失礼なことだが、喜びよりも哀れみを感じた。この戦いにおいて選択の自由が許されない、彼らは本当に可哀想な存在だと思う。同じ時間を生きられない人間を、人の感情を知ったばかりの彼らが慈しむのはあまりにも危険なことだ。
心のないただの刀だった時代から、付喪神として呼び出されるほどの思念を持っていた彼らのことだ。人の感情はそれ以上に複雑に膨れあがり、彼らを翻弄するだろう。うまく処理できない内に暴走して中身の方が壊れてしまいやしないかと、今から少し不安も覚える。人の心は、数百から千年の記憶を遡るには柔すぎる。厳密には彼らは人とは異なるので、そのキャパシティーも人を凌ぐものなのかもしれないが。

それでも辛いものは辛いだろう。推し量っていて、今ここに居る私をわざわざ見据える刀が居る。
そんなの、報いたくもなってしまうじゃないか。私だって、共に過ごす彼らには愛着や情を抱いているのだ。
何かを残してあげられるだろうか。純粋な好意に報い、彼らの魂に傷以外の幸福にも似た何かを…。そんな軽々しい思考とは裏腹に、私を想って泣いてくれる誰かがいたらいいのに、と首を擡げる浅ましい欲。これこそその刃で切り落としてほしいものだ。私の性格は、どこまでもよろしくない。

本音を言おう。嬉しいよ。いつか私に囚われて、或いは私の言動から消えないコンプレックスを植え付けられて、滅びの時を待つ誰かが生まれてくれたら。
仄暗い願いを口に出して請うことはなくても、伝わってしまうものはあると思う。言葉がなくても、日本人は昔から察することに優れた人種だ。刀剣は人ではないけれど、神と名の付くものなら人の底まで覗き込むことも可能かもしれない。



「もう、いっそ全て折ってしまうか、あなた方に斬られて死にたいですね」



最後の最後で考えることに疲れてさじを投げた私に、三日月おじいちゃんは何も応えなかった。流れてきていた神気というものは今は収まっているが、笑ってはいないような気がする。確認する勇気はないので布は取らないが。

いつか斬られるなら、この刀だろうと思う。仮とはいえ主を斬るには、最初に呼び出した山姥切は優し過ぎた。近侍を変えた初期の自分の采配には今も感謝しかない。
もしやむを得ない事情で私が死ななければならなくなった時には、迷わず泣かず、穏やかに微笑んだままで刃を構えてくれる刀が必要だ。長くを生き些事には揺らがない彼は誰よりも適しているだろう。軌道も誤らない。きっと楽に逝かせてくれる。

ああ、でも、三日月宗近を自分の血で汚すというのも、相当に背徳感があるな。
そんな馬鹿げたことをつらつらと考えていた私は、一枚布の向こうで当の刀がどんな顔をしているのか確認しようともしない。その夜の彼の表情、瞳の色を、私はついぞ知ることはなかった。

20150302. 

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