▽ 黄瀬涼太の見落とし
「仕事をしていることは尊敬に値することとしましょう。でも彼は高校一年生の男子で、我が海常高校バスケ部の部員で、ただの黄瀬涼太、でしょう?」
その言葉が、声が、目の前にあった透明の壁を派手にぶち破って、視界を広げた。
世界が、変わった。
(ああ)
どうしよう。
どうしよう。嬉しくて、叫びたいくらい、その一瞬で周囲の景色が創られた映像のように綺麗に色を変える。
状況が悪化すれば何かしら手助けをしようと思っていたオレの考えを吹き飛ばすくらい、彼女は真っ直ぐにぶつかり返して。そんな暇はなく、その必要もなく。
壁を作って憧れにされて、お人形扱いされて。その通りだ。
どんな気持ちで笑っているのかなんて、気付いてくれるほど親しい人なんかいない。少なくとも、今の自分の身近には。
なのに、たった一人の、一度顔を合わせただけの、直接的には何の関わりもない彼女は、当たり前のように口にしてくれた。
それがどれだけの衝撃かなんて、オレにしか解るわけがないのだ。
それが口先だけの言葉でなく、本当にただそこにいる人間として扱かってくれた時の喜びだって。
穿った視線で真っ直ぐに、何の偏見もなく接される意義。
それがどれだけ奇跡じみたことかなんて。
オレにしか、分からない。
*
「今日も酷い目にあったっス…」
「ああ?」
「葵っちに会いに行ったらその友達に首絞められたんスよー」
基礎練前の柔軟をこなしながら深く溜息を吐けば、近くにいた笠松センパイがあからさまに呆れた顔で振り返った。
お前何したんだよ、と疑われて、慌てて何もしてないと否定する。
実際そんなにまずいちょっかいなんか掛けていないし。
「無罪っスよ、無罪! ていうか、女の子に首絞められる日が来るとか思ってなかったっスわ…」
「まぁ、貴重な体験じゃないか」
反対側で足首を回していた森山センパイの笑顔が、様を見ろ、と語る。
内心このやろう…と思いつつも、見なかったことにして柔軟を続けた。
「今日は仕事のこと褒めてもらえたし、廊下の絵の話したし…別に変なことなんか」
「絵?」
「そう! 最近渡り廊下の近くに飾られた絵、あるじゃないスか? 多分海常じゃない、どっかの学校の廊下みたいな…すっげー夕陽が綺麗な…」
「…それ、確かあいつの絵だぞ」
「……へ?」
あいつ?
親しみのこもった声で紡がれる“あいつ”が誰なのか、察せないほど鈍くはない。
思わず固まった首をぎぎ、と動かしてもう一度キャプテンに向ければ、教えてもらわなかったのか、と微妙な表情を返された。
え? いや、ちょっと。
(待っ…て、あれ、まさか…)
そういえば、あの後自分のクラスに帰ろうとしたオレを見ていた葵っちのクラスメイト達は、それぞれ嬉しそうな、勝ち誇ったような顔をしていた気がする。
あれはオレが帰るから喜んでたんじゃなくて、オレが葵っちのことを知らないから、向けられたものだったのか、と。
理解した瞬間に、思わず叫んでいた。
「聞いてないっスよ…!!」
そういえば、何部だとか何が好きだとか、そういう話を彼女から聞いたことがないことに、今更オレは気付かされたのだった。
黄瀬涼太の見落とし(葵っちぃいいい! 何で! 何で教えてくんなかったの!?)
(は? 何のこと…)
(絵! 廊下の! あれ葵っちが描いたって! オレ知らずに熱弁して恥ずかしい奴じゃないっスか!…しかもオレだけ知らなくて悔しいし…!)
(ああ、アレ…アンタ別に作り手気にしてなかったじゃない。あのべた褒めに自分から名乗る方が恥ずかしいわ)
(そ、そりゃそう…かもだけど…っ)
(依鈴が好きな人間ならみーんな知ってることだよー? 黄瀬くんって軽ーい)
(酷いっ! 出逢ってからの時間が違うんスよ! オレだって葵っち大好きな気持ちは負けないんスから!! そういうわけで葵っち! 部活と特技と趣味…っていうかもうプロフィール教えてください!!)
(…ろくなこと言わない犬には教えたくない)
(もうやだ泣きたい!!)
(泣けばいいと思うよ…)
(ぜっ、絶対泣かない…泣かないっス…っ)
(どっちよ)
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