▽ 不機嫌少女のとある朝
ホームルーム開始までには充分な余裕をもって登校する。そんな毎日のローテーションを乱さず今日もきちんと模範生らしく登校した私を待っていたのは、金色頭の人型犬だった。
教室に足を踏み入れ、さて自分の席に向かおうと思ったところで目に入ってきたその人物。席の前に立っていたその男は、私と目が合った瞬間にあっ、と声を上げた。
「あ、あの! 葵さん、っスよね!」
何で名前を知られているのか。
まず思ったのはそれで、自然と眉が寄るのが自分でも判った。教えた覚えがないのだけれど。
この教室にいるということは何らかの用事があるのだろうし、名前を呼ばれたところを見るとその相手は私なのだろうということも容易に想像がつく。
けれど、その男にわざわざ赴かれるほどの交流が合ったかと言えば、全く身に覚えがなく。
とりあえず私はドアの近くにいた、入学してから一番親しくしている友人に挨拶をしながら鞄を探った。
「おはよう蜜果。えん餅好きだったよね、コンビニで見かけたから買ってきたよ」
「えっありがとう! わーい依鈴ラブッ!!」
「はい、お裾分け」
「え、ちょ、スルーっスか!?」
「ああ…それから坂下。読みたがってた雑誌探しだしたから」
「マジで!? サンキュー葵様!!」
「善きに計らいなさい」
「依鈴さん、借りてたノート。解りやすくて助かったわ。これお礼なんだけど、貰ってくれる?」
「役に立ったならよかったわ。お菓子はありがたくいただくね」
「ちょ、ちょっ…オレにも反応してほしいっス!!」
悲壮感溢れる声音で叫んだ男に、クラス中の視線が一気に突き刺さる。
その勢いにぎょっと目を瞠り、男は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
「な、なん、スか…?」
「……依鈴、黄瀬くんと知り合いだったの?」
「他人」
「酷いっ!!」
目を瞬かせて訊ねてきた可愛い友人の言葉に素直に答えれば、男は半泣きで叫んだ。
間違っちゃいないでしょう。寧ろ他人以外の何だと言うのか。
「とりあえず、何しに来たの」
私に用事があるのならさっさと済ませて帰らなければ、いくら余裕のある時間と言えど気を抜いたらすぐにホームルームは始まってしまう。
無駄にきらびやかなオーラを纏ったその人間に視線を合わせて訊ねれば、ぱっ、と花開くように表情が明るくなった。
若干鬱陶しく感じてしまった私は別に悪くないと思いたい。
「そう! 昨日、オレのせいで呼び出しくらわせちゃってすんません!」
「嬉しそうに言うって何。喧嘩売ってるの?」
「ちっ、違っ! じゃなくてそのっ…すごく嬉しかったんスよ、葵さんが言ってくれたことが。それで…」
もご、と口ごもり頭を掻く男は、少しだけ頬を紅潮させている。
普通の女子ならモデルをやっているという彼のそんな姿を目にすれば興奮ものなのだろうが、残念ながらこのクラスの女子はてんで興味を示さず、静かにことの成り行きを見守っている。これは男子も同じだが、女子と男子では大幅に意味が異なる。
もしかしたら、相手が私でなければそれなりに騒いだのかもしれないが…それも私だった場合が目の前で起こっているので、考えたところで無駄なことだ。
「それで、あのっ…葵っちって呼ばせてください!」
「…は?」
「で、友達になりたいんス!!」
彼の態度よりも周囲の人間についてを冷静に分析していれば唐突に放たれた一言に、私は呆気にとられて思わず間抜けな顔を晒してしまう。
呼び名…は、まぁ別に拘りはないけれど。何で、友達?
その疑問はすぐに続けられた彼の言葉により、理解することになるのだが。
「普通に接してくれる女子って中々いなくて、でも葵っちはオレのこと、ただの男子高校生だって言ってくれて…」
「はあ」
「嬉しくて、この子となら友達になりたいって思ったんスよ!」
にこにこと、許可を与えていないのに既に愛称で呼んでくる男に、餌付けされた犬のような印象を抱いた。
因みに私は猫派である。
「ダメ」
そして私が何かを答えるより先に、きゅ、と右腕に密着してくる体温。
隣に目をやれば私の腕を抱き締めた蜜果が、彼と向き合いながらはっきりと通る声で言葉を返した。
「うちの依鈴に迷惑かける友達なんていりません!」
「っ、え!?」
「いくらなんでも呼び出しはヤバいわよ黄瀬くん。アウト」
「え、や、それはっ…いや、スンマセン、けど…」
「顔がいいからっていい気になんなよ黄瀬ー。爆発しろ」
「最後のただの僻みっスよね!?」
始業近くなるにつれて増え始めるクラスメイト達は大概にして察しがよく、後から教室に入ってきた人間も一味に加わり彼を拒む。
そうなるとさすがに少しは気の毒にもなるというもので、私は仕方なく空いた片手を振って彼を弄り倒そうとしていた集団を落ち着かせた。
まぁ、私も愛されてるからね。
心配も嫉妬もありがたく受け取りはするけども。
「まぁまぁ、その辺の判断は私がすることでしょうが」
「そりゃそうだろーけど。呼び出し受けたとかオレら聞いてねーんだけど」
「危害加えられたわけでもあるまいし、別にいいでしょ。それからポチ」
「え? ポチ…ってオレ!?」
呼ばれてから周囲をキョロキョロと見回し、対象が自分だと悟ったらしい大型犬は、端整な顔を引き攣らせた。
「そう、ポチ。友達は頼んだり宣言してなるもんじゃないと私は思ってる」
暗に無理だと仄めかせれば、従順な顔をしたこの男なら帰っていくと思っていた。
モデルだろうがバスケ部の部員だろうが同級生だろうが、大して私の興味を引くことはない。これが同じクラスだったり何かしらの関わりがある人間だったならそつなく交流しただろうが、正直初対面の印象から、この犬のような男と仲良くなりたいとは思えなかった。
だと言うのに、存外男は諦めが悪かったらしい。
「じゃあ、葵っちが友達になりたくなるような人間になるっス!」
笑顔で言い切ったその男に、私は呆れた溜息しか出なかった。
「…はあ」
「舐めんなよ黄瀬ー!」
「そう簡単に葵と仲良くさせるか!」
「いくら黄瀬くんでも、葵さんはね…」
「依鈴は、私の、親友なんだからね!!」
「うぐっ…な、何でこんな人気者なんスか葵っち…!」
「さあ?」
何故かなんて知らない。いつの間にかクラス中の人間に好意を向けられていた。ただそれだけだけのことだ。
悪いことではないし、寧ろありがたいことなので特に気にもしていない。
「まぁ、これだけいい友人達がいるからね。間に合ってるんだけど」
「でも、オレのこと嫌いなわけでもない」
成る程、観察眼は無くもないらしい。
見た目と口調の軽さから、少々相手を侮っていたようだ。
飼い主に懐く飼い犬の目から、獲物を狙う野良犬の鋭い目付きをちらつかせた彼に、しかし私は特に驚くこともなくまぁね、と返した。
嫌いではない。間違っちゃいない。
何も最初の印象で好き嫌いを分けるほど、視野が狭いつもりはない。
「嫌いになるほど関わってないからね」
「辛辣っ! でも、いいんスよ。葵っちのそーゆートコ、いいなって勝手に思っただけっスから」
「ああそう。じゃあ勝手に、私に迷惑をかけないように、ハウスにお帰り、ポチ」
「だからポチじゃなくて黄瀬涼太!!」
また来るっスよー!、と手を振って出ていく黄瀬涼太改めポチに、もう来るな、と野次るクラスメイトの声が教室に響き渡った。
不機嫌少女のとある朝その日から突撃してくるようになる大型犬と、それを追い返そうとするクラスメイトの仁義なきバトルが繰り広げられることになるとは、さすがの私も想像はしていなかったが。
(葵っち葵っち!! 今日暇だったら練習見に来てくんないっスか!?)
(バスケ部は女子見学禁止でしょ黄瀬くん。それより依鈴っ! こないだ言ってたお店行こうよ、ね?)
(葵っちはいいんスよ! センパイもいいって言ってたし!!)
(そんな特別扱いしたらまた呼び出しくらうかもしれないじゃない! 黄瀬くんバカなの!?)
(うぐっ…そ、それならオレがなんとか話つけるし!!)
(女舐めんなー! 君が思ってるよりずっとえげつない生き物なんだからねっ!!)
(葵っちは違うっス!!)
(当たり前でしょ依鈴は別よ!!)
(…とりあえず…今日は予定があるからどっちも無理)
(えっ…)
(そんなっ…!)
(明日なら付き合えるよ、蜜果)
(きゃー! やったー! 依鈴大好きーっ!!)
(えええオレはっ!?)
(正直どうでもいいわ)
(くっ…ネバーギブアップっス……!)
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